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史跡西013  勝持寺子院跡の石塁と石垣

2016年07月14日 10時30分23秒 | 遺跡・遺物

 

 

勝持寺子院跡の石塁と石垣

勝持寺は、小塩山の東麓、標高130~170mに位置し、寺伝では役小角の開創といわれる山林寺院です。平安時代の仁寿年間(851~854)に仏陀上人が伽藍を復興したと伝えられています。室町時代には、足利尊氏の帰依などにより寺運は隆盛し、現在の勝持寺の周辺には多くの子院(本寺に付属する小寺院)が存在したといわれています。

 京都第2外環状道路の新設工事に先立って、平成22年(2010)から平成24年(2012)にかけて、勝持寺の旧境内にあった子院跡と推定される場所で発掘調査が実施されました。調査では、建物・井戸・石垣や石塁などが見つかり、当該地において鎌倉時代から室町時代の複数の子院跡の存在が確認されました。この奥に石塁の一部を移築して保存しております。 京都市

 

 

 

 

 

 

石塁

 

 

 

勝持寺子院跡の石塁

この石塁は、15世紀後半(室町時代)に勝持寺境内の子院の区画施設として作られた石積みの塀(石築地)です。発掘調査により発見されたのは、現在地から南へ約60mの地点です。東西方向の石塁は27m以上の長さで存在したことが確認され、そのうち最も特徴を表している8.5m分をこの場所に移築復元しました。高さは80㎝、基底部の幅も約80㎝です。本来の高さは、上部か崩れているために不明ですが、形状からみてそれほど高くはならないと思われます。使用されている石の大きさは20~30㎝のものが多く、内側には拳大の礫が詰められています。石材は、砂岩・チャート・脈石英など周辺で採取されたものです。このような石塁は、現在の寺院では見られませんが、14世紀初頭に成立した絵巻物『法然上人絵伝』や『春日権現験記』などに描かれた「石築地」と見られ、当時の寺社ではこのような区画施設が用いられたと考えられます。当時の寺院の様子や石積みの技術を知るうえで貴重なものです。

なお、石塁の西方で見つかった石垣は部分的ですが、道路の設計を変更することによって、現地に埋め戻され、保存されています。京都市

 

 

 

 

 

移築された 石垣

 

史跡・遺跡  前回の記事 ➔  史跡上012  名和長年 戦没地  


寺院西0149  勝持寺・花の寺  表参道

2016年07月14日 09時08分50秒 | 寺院

 

三  七  五  

これは 何の意味があるのでしょう 

 

仁王門の駒札

勝持寺(花の寺)

小塩山と号する天台宗の古刹である。

歌僧の西行がこの寺で出家したと伝えられ、西行法師が自ら植えたといわれる八重桜「西行桜」があることから、「花の寺」として親しまれるようになった。

寺伝によれば、白鳳8年(679)に役小角が天武天皇の勅により創建し、その後延暦10年(791)に、伝教大師(最澄)桓武天皇の勅により再建したと伝えられている。当初、大原寺と呼ばれていたが、仁寿年間(851~854)に、仏陀上人文徳天皇の帰依を得て伽藍を建立し、寺号を大原院勝持寺と改めたといわれている。

瑠璃光殿には、本尊の薬師如来坐像(重要文化財)のほか、弘安8年(1285)に、慶秀らが造立したとの銘がある金剛力士立像(重要文化財)など、貴重な文化財を蔵している。境内には、多くの桜が植えられ、

満開時には、寺が花の中に埋もれているかのように見える。

鐘楼の東の西行桜は、現在3代目である。京都市


右手が壊れてたのか ありません



400mほど 坂道を上ります

それなりに風情はあり

いい感じです


関連記事 ➔  寺院西0148  花の寺 寺号標  ここは花の寺の敷地内か

               寺院西0125  勝持寺・花の寺  天台宗  西行


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今日の俳句   夏草や 帯をしめつつ 女ゆく    /立子