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石碑右0151  法眼宅間勝賀終焉地

2018年02月20日 20時10分37秒 | 石碑

 

鎌倉時代の画家。為久の子。法印。仏像人物画を能くしたと伝える。

絵仏師宅間勝賀(生没年未詳)は宅間派の祖為久の子。嘉応元(1169)年頃より承元3(1209)年頃まで神護寺・東寺の仏像制作等に携わった。栂尾高山寺の明恵上人(1173~1232)を信仰していたといわれ,上人が擁護していた春日・住吉社の神相を筆写したところ,帰途落馬してこの地で没したという。これは凡人が神相を写した神罰があたったといわれ,世人がのちにここに塚を築いてしるしたと伝える。この碑は勝賀の墓と伝える高さ87cmの無縫塔(宅間塚)の横に建てられ,勝賀の終焉地を示したものである。

塚は石造無縫塔で、江戸時代の作。台石はそれより古く、宝篋印塔の基礎を利用したもの。その右には延宝7年(1679)在銘の石碑がある

 

右が 石碑

延宝7年

建立者 三宅高信

碑 文 

                

 宅間澄賀曽為絵所歴法橋叙法眼故世称宅間法眼常信慕明恵上

 人而来往栂尾于時春日住吉二神屡降臨親聴明恵之法要然明恵

 之外無見尊容者宅間請上人曰願写尊形以為衆生修結縁上人曰

 凡眼直拝神容則恐殞命宅間曰雖死不敢悔矣神亦憐其志暫示現

 宅間不堪歓喜則敬而拝写之今栂尾二神之尊像是也宅間之志願

 已遂矣喜帰京師於茲誤堕馬而斃矣嗚呼痛哉夫神之霊験挙而不

 論之宅間雖末芸者其有志家業也深哉誠殺身以成仁之一端乎時

 人憐之建石碑於茲地矣其後年久遠陵谷変遷建碑既絶人亦無知

 其蹟者当今歎名蹟蕪没再建一箇片石聊記其大概云爾

 延宝七己未年七月三日               画工三宅陽心高信建

 

 

宅間勝賀塚碑 碑文の大意

宅間澄賀(勝賀)は絵所の役に任じられ,法橋を経て法眼に叙せられた。このため世間では宅間法眼と呼んだ。栂尾高山寺の明恵上人に帰依し京と栂尾を行き来していた。

  この時,春日と住吉の神が降臨し,明恵上人の法要を聴聞することがよくあった。しかし二神の姿を見ることができたのは明恵上人だけであった。宅間は衆生のために二神の姿を絵に写したいと上人に懇請した。常人が神の姿をみれば死ぬかもしれぬと上人がおっしゃったが,宅間はそれでもかまいませんとお願いした。二神もその志に感じ宅間の前に姿をあらわした。宅間は喜び二神の姿を拝写た。いま栂尾高山寺にある二神の像がこれである。

  宅間は志を果たした喜びにあふれて京への帰途をたどったが,この地であやまって馬から落ち命を落とした。痛ましいことである。これが二神のたたりかどうかはわからないが,宅間は一介の絵師であったが,その仕事にかける情熱は深いものがあった。身を殺して仁を成したと言ってよいだろう。

  没後この地に石碑が建てられたが,年がたち地形も変り碑もなくなり,知る人もいなくなった。そこでここに石碑を建立する次第である

 

石碑 前回の記事 ➡ 石碑上0150 所司代屋敷址

五七五

草庵に温石の暖ただ一つ /虚子

京ことば シンドイ 疲れている。辛い。「登山はシンドイワ

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寺院右0424 三寶寺 日蓮宗

2018年02月20日 10時40分33秒 | 寺院

 境内 入口

満願妙見大菩薩 文政8年3月(1825)

金映山 京都

日蓮宗の寺院で、江戸時代初期の寛永5年(1628)に、右大臣・今出川(菊亭)経季と中納言・今城為尚後水尾上皇の内旨を受け、日護上人を開山として創建した。以後、両家の菩提寺として繁栄し、最盛期には十二の塔頭を有し、千宗旦の弟子・山田宗徧も塔頭の涼池院で茶道の研究に務めた。

本堂には釈迦如来像、千体仏堂には六尺座像の釈迦物と三寸

立像の釈迦佛千体が安置され、ともに日護上人の作と伝えられている。本堂脇の桜は、京都御所の旧今出川邸から移植したもので、余りの美しさに帝が車を返したことから「車返しの桜」といわれ、その名のとおり、毎年美しい花を咲かせている。

境内には、仁孝天皇の皇子・常寂光院の墓をはじめ、豊臣秀頼、その子国松丸、淀君の供養塔などがある。

毎年土用の丑の日には、ほうろく灸祈祷が行われ、暑気払いや悪病(頭痛)封じを願う多くの参拝者でにぎわう。

京都市

大黒天

 

 

洛陽十二支 戌

妙見宮

茶道 山田宗偏  四方庵 旧跡

茶道 宗偏流の租 山田宗偏(1627~1708)は千利休の孫千宗旦の四天王の一人で宗旦から「四方の庵」の号を与えられ当山の東谷に茶室「四方庵」を建て茶道の奥義を究めた。

明暦元年、三河城主小笠原家の茶頭となり、元禄10年江戸に出て吉良上野介義央邸に出入する。

これを知って入門した赤穂義士大高源吾に吉良邸の茶会の日を教え主君の仇討を助けたことは有名

 車返しの名桜

菊亭家邸内の名桜

 関連記事 ➡   洛陽12支妙見めぐり

寺院 前回の記事 ➡ 寺院右0423 南殿順興寺 浄土真宗本願寺派

五七五

埋火の夢やはかなきことばかり /子規

京ことば シルイ 道がぬかるんでいる。「道がシルイし、キーつけてナー

 

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寺院右0423 南殿順興寺 浄土真宗本願寺派

2018年02月20日 06時23分17秒 | 寺院

 

山号を竜華山といい、浄土真宗本願寺派に属する寺である。

寺伝によれば、延徳元年(1489)、真宗の中興の祖蓮如上人が河内の枚方で開いたといわれる。次いで、蓮如上人の末子兼智(実従上人)が永禄元年(1558)より枚方の当寺に住み、寺運は栄えて後奈良天皇の勅願所となり、院家に補せられた。のち、寛永年中(1625)枚方より堀川丸太町の地に移転し、二条順興寺と呼ばれて『都名所図会』に記されていた。しかし、天明8年(1788)の大火に遭って惜しくも焼失し、昔の姿は失われた。

やしょめ やしょめ   京の町のやしょめ

  売ったるものはなになに   

と京都で古くから唄われている地唄万歳があるが、当寺に当寺に因縁が深いといわれ、やしょめの寺の別名がある。昭和49年4月、現在地に移転した。

寺宝には、蓮如上人ゆかりの画像や文献が多く、毎年春季彼岸会中日に蓮如忌が行われている。京都市

『拾遺都名所図会』によれば、天正年間(1573~92)、大坂石山合戦のとき、順興寺二代顕従上人織田信長の軍勢と合戦中、正に危殆に瀕しようとしたとき、味方の中より一土人があわわれ、上人の身代わりとなって見事に討死した。不審に思って、その遺体を調べると、蓮如自筆の六字の命名が2つに切られ、一片は敵の手に、一片は鎧の袖の中に残っていたという。これより「片破れの名号」と称し、末永く寺宝としたという。

寺院 前回の記事 ➡ 寺院右0422 蓮華寺奥院 真言宗御室派

五七五

埋火のありとは見えて母の側 /蕪村

京ことば ショーモナイ (仕様もない)つまらない。「ショーモナイ洒落ヤナー

      ショームナイとも。

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