京都市伏見区桃山町正宗20
福聚山と号する黄檗宗の寺で、享保年間(1716~36)黄檗12世杲堂が開創し、
同13世竺庵によって万福寺の隠居所となった。
境内中央に建つ仏殿には本尊聖観音像を安置し、
方丈には伊藤若冲の筆になる襖絵「群鶏図」がある。
この画は若冲が、かつて竺庵禅師に画を描きたいと申し出て断られ、
次代の僧を待って描いたといわれる若冲晩年の作品である。
またそれより後は画を描かなかったというので、この部屋を「若冲筆投げの間」ともよばれる。
また方丈の軒先にある手洗鉢は、もと伏見城の白書院にあった秀吉遺愛のものと伝え、
仏殿傍らの木斛は伊達政宗の手植えという。
政宗はこの地に屋敷を構え、伏見城濠の樋門の守備役をつとめた関係上、
寺の背後には今なお樋の址というのが残っている。またその傍には開山杲堂と竺庵禅師の石塔がある。
因みに大丸百貨店の始祖下村彦右衛門は、はじめ大文字屋福助と号し、
竺庵の援助によって商売を行い、今日の大丸の基礎を築いたといわれ、
今なお当寺と深い親縁関係にある。
近年は普茶料理をはじめている。
黄檗宗 福聚山海宝寺は、黄檗宗萬福寺開祖・隠元隆琦禅師が中国から伝えた精進料理「普茶料理」で知られ、普茶開祖道場と呼ばれる。享保年間(1716~1736)、萬福寺12代・杲堂元昶禅師によって創建され、萬福寺13代・竺庵浄印禅師が隠居先とした。京都伏見の呉服商・大文字屋(現・百貨店大丸の前身)の創始者・下村彦右衛門正啓は竺庵禅師に帰依し、自ら浄財を投じて伽藍を築いた。庫裏は下村家の屋敷を移築したもので、江戸時代中期京都で活躍した奇想の絵師・伊藤若冲(1716~1800)によって寛政2年(1790)に「群鶏図」が描かれた。この絵は約10mにもおよぶ水墨の連続画面となる障壁画で、若冲はこの絵を描いた後、筆を執らなかったことから、障壁画の部屋は「若冲筆投げの間」と呼ばれる。境内は、仙台藩の藩祖伊達政宗の居館跡といわれ、伊達政宗手植の木斛や豊臣秀吉遺愛の手水鉢などが伝わる。京都市
伊達政宗の伏見屋敷
この海寶寺境内を含む「桃山町正宗」は、独眼竜の異名をとった仙台藩の藩祖・伊達政宗の伏見上屋敷があったところである。政宗は文禄4年(1595)、豊臣秀吉からこの伏見に屋敷地を与えられ、多くの重臣やその妻子などを住まわせた。その数は常時千人以上にも及び、屋敷一帯は「伊達町」とも称されたという。政宗自身は慶長4年(1599)ころまでここに住みも慶長6年に上洛した際にも約1年間を過ごしている。
政宗の伏見屋敷は、この地のほか、上屋敷の南西にほど近い場所と深草の地に下屋敷があり、計三か所であったとされる。深草の下屋敷付近には現在も「深草東伊達町」「深草西伊達町」の地名があり、その名残を留めている。仙台市
桃山時代の名木
天下無二の木斛
伊藤若冲 関連記事 ➡ 宝蔵寺 浄土宗西山深草派 伊藤若冲の菩提寺
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川柳
鏡見て案外若く元気出る /田村
ことわざ
秋の鹿は笛に寄る(あきのしかはふえによる)
秋になると、発情した牡鹿が牝鹿の鳴き声に似せた鹿笛に引き寄せられ人に捕えられる。転じて、恋に身を滅ぼすこと。また、自分から危難に陥ることのたとえ。
類・妻恋う鹿は笛に寄る
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