京都市伏見区西大文字町965
禅曹洞宗 宝福寺
開運厄除 安産子授 金毘羅大権現
大本山永平寺 開山道元禅師
入越足跡夢街道慕古の旅発願寺
慕古の旅御頂相笈御館具奉安所
禅曹洞宗 宝福寺
厄除 開運 金毘羅大権現
宝福寺
曹洞宗永平寺派のお寺で、久祥山といいます。もと瑞応院といい、伏見港に着く旅人の信仰を集め「木挽町の金毘羅さん」と親しまれていました。
慶長4年(1599)に薩摩国(鹿児島県)の曹洞宗「宝福寺」に11代住職「日孝芳旭大和尚」を招き、「久祥山宝福寺」と改め曹洞宗開山となりました。
本堂には中国風の釈迦像を中心に16羅漢像を安置し、脇壇にはもと三栖村にあった旧竜谷寺の遺物と伝えられる藤原風の温和な聖観音立像を安置しています。
境内金毘羅堂は、もと伏見城にあったお堂を元和6年(1620)当寺に移したものと言われ、堂内には狐の背中に上に烏天狗を配した珍しい「合体金毘羅権現」像(不動明王と稲荷明神の化身)を安置しています。脇壇の羅漢像と共に極めて異国風なのが特色です。また秀吉公・淀君ゆかりの子授け石とも呼ばれる「陰陽石」を安置し、子授けの霊験あらたかと親交をあつめています。 洛南保勝会
明治42年
宝福寺
久祥山と号する曹洞宗の寺院で、三十石船で伏見港に着いた旅人がよく参詣したといわれ、「木挽(この辺りの旧町名)の金毘羅さん」として知られている。
もとは真言宗で、伏見奉行所が管轄する九つの村「伏見九郷」の1つ、森村にあったが、応仁の乱(1467~1477)による兵火に遭い、末寺であった。「瑞応院」に寺号を移した。慶長4年(1599)に薩摩国(現在の鹿児島県)の宝福寺の11代住職「日孝芳旭大和尚」を招いて開山とし、「久祥山宝福寺」と称する曹洞宗寺院に改められた。本堂前にある金毘羅堂は、伏見城の学問所前に建立されていたものを、元和6年(1620)の伏見城廃城に伴い、寺社奉行の山口駿賀守が当寺に移転したものといわれている。また、その際、豊臣秀吉と淀君が子授け成就の祈願をして、秀頼を授かったという「陰陽石」や、羅漢像二体なども共に移された。境内には、平成14年(2002)の道元禅師750回大遠忌を前に、宝福寺檀家有志が、平成8年(1996)に禅師の足跡250km(京都から福井県・永平寺まで)を行脚したことを記念する顕彰碑が建てられている。京都市
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0316 大信寺 浄土宗
川柳
究極のボランティアだな親稼業 /寝太郎
ことわざ
朝に紅顔あって夕べに白骨となる(あさにこうがんあってゆうべにはっこつとなる)
朝、血色のよい顔をしていた若者が、夕方には死んで白骨となるの意から、この世は無常で、人の生死のはかり知れないことをいう。
類・昨日の花は今日の塵
・昨日の淵は今日の瀬
下のユーザー地図で京都の記事探索が出来ます。試してみてください