京の豪商茶屋四郎次郎は,六代まで中京区新町通蛸薬師下るに居を構えてました,
宝永5(1708)年の大火によってこの地に移転しました。
この地は,初代清延(1545~96)が徳川家康に仕えた際に,屋敷地として与えられたものです。
邸宅跡を示すものです。なお,この附近を茶屋町といいます。
11月8日 追加
茶屋四郎次郎屋敷址
現在、近畿農政局の敷地となっているこの地は、近世以降将軍家の呉服師として
徳川幕府とむすびつき、また京都の町人頭として栄えた茶屋家代々の屋敷址です。
家康に従い戦陣に出ること53回もあった。三方原の合戦、長久手の役などで奮戦した。
はじめ屋敷は中京区新町蛸薬師下ル東側、百足屋町にありましたが、
慶長の頃、家康からこの地を賜りました。
小川通に面して40間5尺の間口(約75m)があり、奥行きは17間4尺(約32m)、
中程の一部は裏の西洞院通上舛屋町(現丁字風呂町)にまで及び、千坪近い広さであった。
茶屋は屋号で本姓は中島といい、代々四郎次郎を名乗った。
初代清延以来、清忠・清次と続いた。その間、海外貿易にも手を広げ、
業名は遠く万里の波濤にまでとどろいたが、
寛政年間(1789~1801)十代目延因に至って、寛政12年(1800)3月、
幕府へ納める呉服物の価格で御納戸頭衆のカンにさわり、
呉服御用差留め(文化4年、1807年禁を解かれた)の命を受けて以来、
すでに貿易の利を失っている茶屋家は衰微の一途を辿り、
家運は衰退し、明治維新に至って没落した。
墓は洛東、東大谷の墓地内にある。
かつては、本阿弥光悦とも親交があったことから、
光悦の隣家に邸を構えたといわれるが、今は跡形もない。
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