山を下りていくと 突然大きな 岩に出くわしました
俊寛僧都の石碑です
法勝寺執行俊寛(生没年未詳)は治承元(1177)年6月,自らの山荘で平氏打倒の密議を行い,その首謀として薩摩国鬼界島(現鹿児島県硫黄島)に流された。この碑は俊寛山荘跡を示すものであるが,その根拠は碑文によれば建碑者西垣精之助の夢に出た場所であるという。
俊寛僧都忠誠之碑
公爵一条実孝書
少し 下ったところには 碑文の書かれた大きな石碑
俊寛僧都鹿谷山荘遺址碑記
自古志士憤権姦暴虐劫上残下図除之以安天下事成則為義挙不成則乱賊豈可徒執成敗之迹以」
推断情偽況史書所伝往々為権家曲筆千載之下何以取信乎平清盛弄権擅為威福族党挙為朝官」
采邑半於天下視天子如家人子弟苟有不便於己者更立無憚至一時有二三上皇而其虐百姓甚於」
土芥民怨且懼道路以目 後白河法皇患之亦末如之何於是有俊寛僧都鹿谷山荘之会権大納」
言藤原成親為 法皇執事与其子成経謀奉 院宣討平氏院北面藤原師光藏人源行綱検非違」
使平康頼等与焉俊寛 村上天皇七世孫寛雅之子以僧都為法勝寺執行素深嫉清盛不臣及聞」
成親等計慨然密相結託約率奈良僧兵応之数会山荘計事将襲平氏部署已定未発行綱走告清盛」
清盛大怒殺師光流成親放成経康頼俊寛於硫黄島尤悪俊寛既而成経康頼赦帰俊寛独餓死島中」
時年三十七見其尤悪於清盛可以知材略卓異致心王室之深矣夫俊寛緇徒也身居方外烏有冀世」
栄之意其攘袂奮起者唯由不忍坐視平氏横暴上下窮蹙而已使其事成天下蘇息朝威得振而世必」
以為義挙矣惜豎子反覆*事空銜積寃七百餘年史書亦無白其志乃山荘則委為狐兎巣窟寒烟蔓」
草無復過問不亦可悲乎西垣精之助君素負気節以鼓起世道人心為念一夕夢遊山荘覚而捜訪」
其地樹石一如所夢見心異之遍検書史知俊寛志存于義憤也欲建碑以彰遺址而慰寃魂擲購地」
二千餘歩一条実孝公#其志手書俊寛僧都忠誠碑七大字$之乃屬予作文記之%得以此白其」
寃且伝遺址于後於世道人心其有所裨乎謂之君志
昭和十年歳在乙亥九月 香川長尾甲并&書 西垣精之助建
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五七五
紫陽花もわたしも慈雨にほっとする /染山
ことわざ
雨垂れ石をも穿つ