道路沿いに 目立つ 建物だ
これは 右隣り家のもの
左は手水舎 左下に道標
左に十禅寺の寺号標 奥の突き当りが 十禅寺
道の右には 道標が2つ
手水舎には井戸手押しポンプがある 使えそうです
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堂の左の柱
堂の右の柱
地蔵幡について
山科(四宮・山科廻り)地蔵と徳林庵
山科地蔵は小野篁公により852年に作られた六体の地蔵尊象のうちの1体で、はじめ伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西行法師に命じ、1157年、街道の出入口6か所に1体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護沸となり、毎年8月22日、23日の六地蔵めぐりが伝統行事となった。徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡禅師が1550年に開創した。境内には、人康親王、蝉丸供養塔(室町時代)、茶所の四体石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。 京都市
縁起
山科地蔵は、山科廻り(めぐり)地蔵、四ノ宮地蔵とも呼ばれています。霊験大いなる事で有名なこの尊像は今より約1150年前の平安時代に小野篁公によって作られた霊像です。初め伏見六地蔵の地に、六体の内のひとつとしてあった尊像は、後白河法皇の深い信仰を受け、平清盛、西行法師等の手により厄病退散、都往来の路上安全、庶民の招福結縁を祈願し都街道の出入口に一体ずつ分置されました。この時より約850年の間、山科地蔵尊は、六地蔵めぐりの伝統行事の歴史と共に東海道を往来する人々をあたたかく見守り続けているのです。また尊顔が美しく新しく見えるのは百年に一度、化粧直しをされる為です
明治2年の奉納額
人康親王供養塔
塔は石造宝篋印塔で、相輪の上部を欠いているが、高さといい、形といい、ともに南北朝時代の作になる見事なもの。一説に蝉丸塔といわれるのは、蝉丸も盲目で琵琶をよくし、しかも醍醐天皇の第4皇子といわれ、晩年は世をのがれて逢坂山に隠栖したという伝承によるからである。
柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派の寺である。南禅寺の雲英禅師がその祖といわれ、仁明天皇の第四の宮人親王の菩提を弔うために草創したものしいう。この地はもと十禅寺の開山人康親王が隠栖された処で、地名も四の宮泉水といわれている。地花堂本尊は、参議小野篁が一木から刻んで六地蔵の一といわれ、京の町から諸国諸地方へ向かう東海道の出口にあたり物詣でや厄神の送り御霊会などの交流から道祖神塞神の信仰となり地蔵菩薩信仰として栄えた。また堂後には、四の宮明神と人康親王を祀る供養塔があり、また蝉丸塔ともよんでいる。江戸時代には検校位を有する盲人が、毎年一回全国から参集して琵琶の奥技を演じ、親王の御霊を慰めたという。京都市
山科地蔵徳林庵
京 東の門番 東海道の守護仏
旧東海道沿いに建つ寺院です。地蔵尊は、小野篁作で、1157年に後白河天皇の勅命により、京の都の主要街道6ケ所に安置された地蔵のうちの一体です。それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、蝉丸ゆかりの寺でもあります。
六地蔵めぐり
850年の伝統を持つ行事で、8月22日、23日に都の主要街
道にある伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)そして山科地蔵(徳林寺)の六体の地蔵を巡り、お札を集めて家の入口に吊るすと、厄病退散、家内安全の護符になるとされています。
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寺院 前回の記事 ➡ 寺院中0191 だるま寺 後半
今日の俳句
山霧に ぬれて色濃き 桔梗かな /鬼城
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