旭米顕彰碑
大正3年(1914)12月建立
この石碑は、明治時代の終わりに稲の新品種「旭」を発見した山本新次郎の功績をたたえて、建立されたものです。山本新次郎(1849~1918)は、京都の東山に生れ、幼くして向日町(現向日市)物集女の農家の養子となりました。天性温厚で農業に励み、研究熱心だった新次郎は、明治41年(1908)、当時広く栽培されていた稲の品種「日の出」と「神力」の間から、悪天候にも倒れない株を見つけ出しました。良い籾を選び出し、栽培を重ねて新品種とすることに成功し、「日の出」より優れた「朝日」と名付けました。私心のない新次郎は、求められるままに近隣に籾を分け与え、質の良い米は評判になりました。明治44年には、桂に設置されていた府立農事試験場で試験栽培の結果、優良と認められ、すでに同名の品種があったため、「旭」の文字に改められました。「旭」の特長は、1つの穂につく籾は少ないが、株分かれが多く増収が見込め、粒がおおきくて味が良いことです。大正時代に奨励品種となり、昭和10年代には、西日本各地でもっとも広い栽培面積を占めるようになりました。また「旭」からは次々と改良品種が生み出され、コシヒカリなど現在作られているおいしい米の多くは、「旭」が遠い先祖にあたります。
石碑の建立を発起した「西国同行」とは、青年期に西国三十三所巡礼を一緒にまわった人々の集まりのことで、物集女では終生深い親交を結びます。若い頃からの仲間や、同じ町内の人々によって、物集女の水田を望む街道沿いにたてられたこの碑は、今も続く米つくりを見守っているようです。平成25年3月
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