ジャガード渡来100年記念碑
維新の激変と遷都によって京都は失意の底に沈み西陣もまた衰退の一途をたどっていました。初代京都府知事長谷信篤は、京都の発展は西陣の発展にあり、西陣の発展は新技術の導入にまたねばならないと察し、明治5年佐倉常七 井上伊兵衛の両名にフランス国リヨンに留学を命じました。
また、吉田忠七は同行を嘆願し、3名は同年11月15日京都を出発しました。ことばも通じぬ異国で辛苦を重ね、8ケ月の研さんを終えて佐倉、井上両名は明治6年12月、ジャガード機を持ち帰ったのであります。一方吉田忠七は帰朝延期を請願してさらに研究をつづけ、多くの新知識と機械をたずさえて帰国の途につきました。
しかし、不幸にも同7年3月20日の夜乗船の遭難によりその努力もむなしく、伊豆沖で殉職しました。ジャガード機の導入は西陣に産業革命をもたらしました。この3名の努力と功績は、西陣の歴史に永久に銘記されるべきものであるとともに、その不屈の精神力は未来に引き継がれるべきものであります。
ここにジャガード渡来百年を記念して、3名の偉業をたたえ、西陣永遠の発展を祈願して、この碑を建立しました。
この碑はジャガード機の原点とも云うべき紋紙を象徴化することによりジャガードと云うイメージが造形化されて居ります。屈折した3枚の組合わせは三氏の努力や協力を、又、屏風状に拡がる平面の連続の中に更に可能性を含んだジャガードの将来えの発展を意図して居り、その幾何学的な方形の全容は端正さの中に西陣織の気品と落着きを強調して居ます。
昭和47年11月
西陣の日 事業協議会
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