アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き西0124  大原野 の ため池  「千原池」

2016年07月07日 06時45分09秒 | まち歩き

 

 

 

 

大原野水土里へようこそ

洛西ニュータウンのすぐ近くにありながら、美しい風景の広がる別世界へようこそいらっしゃいました。ここ大原野のたからものは、水(ため池)、土(棚田)、里(神社仏閣)です。ご存じでしたか。

 

西山のわき水を集める「ため池」

 ここ大原野の里には大小10あまりのため池があります。西山に降った雨は、ため池にたまり農業に使われますが、そのほかに大雨をせき止めて、下流の学校や住宅を洪水から守る大切な役目も果たします。また、池の周りではモリアオガエルやホタルなどめずらしい動物の命も守っています。

 

西山の土を集める「棚田」

山裾に広がる美しい棚田は、古くからこの地に住み着いた人々が苦労して切り開いた大切な田んぼです。いまでは大型機械で便利な農作業ができるすばらしい働き場になりました。

 

西山の歴史を語る「神社仏閣」  

大原野神社をはじめとする歴史ある神社や花の寺などの寺は、大原野の貴重な文化遺産です。奈良の春日大社と同じくらいの長い歴史があり、京都の中でももっとも早くから開けた土地ならではでの歴史を感じてください。

「大原野」の地は、桓武天皇の遊猟の場として歴史に登場、長岡遷都とともに大原野神社が鎮座して以降、室町中期には70ケ所もの荘園・田地を安堵されていたとされます。

ここでとれる野菜やお米は、ご覧の千原池をはじめとする「ため池」や「川」から取水した「水」により育まれてきました。江戸時代の大原野村には670石余の村高があったとされます。

ため池もこのころおおいに造られたものと思われます。大原野水土里は、子や孫の未来まで残したい里山です。私たち大原野土地改良区は、これからもこの大切な水土里を育み、ここを愛するみなさんとともに、もっと美しいふるさとをつくっていきます。ぜひ応援してください。大原野土地改良区

水蓮でしょうか

 関連記事 ➡  まち歩き北0869 モリアオガエル の 卵

まち歩き 前回の 記事  ➡  まち歩き西0123   花の寺 案内板  


寺院西0128   石の寺  正法寺 真言宗東寺派

2016年07月06日 07時24分14秒 | 寺院

 

聖観世音 平安時代 弘法大師作

三面千手観世音 鎌倉初期重文

春日不動明王 毎月8日護摩供養

西国薬師霊場第41番

福寿無量 大原野走り大黒天

 

 

真言宗東寺派の寺で、奈良の唐招提寺を創建した鑑真和上の高弟で、天平勝宝6年(754)に鑑真和上とともに唐から来朝した智威大徳がこの地で修練を行ったことに始まる。古くは春日禅坊と呼ばれたが、延暦年間(782~806)に、伝教大師(最澄)が智威の威光を世に示すため、大原寺という寺を創建した。応仁の戦火で焼失したが、江戸時代初期に、恵雲・徴円の両律師により再興され、「西山のお大師さま」として古くから親しまれてきた。

元禄年間(1688~1703)には徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院の帰依を受け、代々徳川家の祈願所となった。

寺宝として、本尊聖観世音菩薩(弘仁時代)、三面千手観世音菩薩(重要文化財)をはじめ、貞和2年(1346)の銘がある地蔵菩薩、鎌倉初期の両界曼荼羅などの仏画、徳川家関係古文書などを蔵する。

境内には、全国各地から集められた名石があり、「石の寺」とも呼ばれている。特に、東山連峰を望む借景式山水庭園の「宝生苑」は、庭石が象、獅子、蛙、うさぎ、鳥、亀など動物の形に似てるため「鳥獣の石庭」として親しまれている。京都市

 

 

石徳五訓

1      奇形怪状、無言にして よく言うものは石なり

2      沈着にして、気精永く土中に埋もれて 大地の骨となるものは石なり

3      雨に打たれ、風にさらされ、寒熱に耐えて 悠然動ぜざるは石なり

4      堅質にして、大廈高楼の基礎たるの  任務をはたいものは石なり

5      黙々として、山岳庭園などに趣を添え 人心を和らぐは石なり

 

 

遍照塔

 

 

正法寺遍照塔(旧忠魂堂)1棟

京都市指定有形文化財

 

正法寺遍照塔(旧忠魂堂)は、明治41年(1908)、日露戦争の戦没者慰霊のため京都尚武義会により高台寺境内南側の広場(東山区下河原町)に建設されたもので、平成22年、当寺に移築された。

 設計主任を京都府技師亀岡末吉が担当し、明治41年3月に起工、同年9月に竣工している。亀岡は、社寺建築を中心とした設計活動を展開し、「亀岡式」と名付けられた華麗な彫刻意匠は、当時の建築界に大きな影響を与えた。遍照塔は、亀岡が手掛けた最初の作品である。

建物は六角二重塔という特異かつ稀有な形態で屋根は宝形造チタン葺とする。意匠には古代から中世にかけての社寺建築の様式細部が採用される。下層の円柱は、飛鳥時代から平安時代前期にその遺例のある「銅張り」、蟇股は平安時代後期から室町時代以前にみられる様式とし、上層の高欄の斗束はしたの広がった撥形で、奈良時代後期まで遺例が認められる組高欄の範をとる。本建築は、大正以降、近代社寺建築の作風手法に影響を与えたとされる「亀岡式」意匠確立のための歴史的な創生源であったと位置づけられ、近代日本における社寺建築の進展・形成過程を知る上で、きわめて貴重な遺構である。

平成26年3月31日指定  京都市

 

 

春日不動明王

 

春日稲荷

 

清め不動尊

 

鼓動不動

 

 

 

 

 

 

 

複雑な樹形

 

お寺の入口

 

西国薬師霊場第41番札所

洛西観音霊場番外札所

京都六大黒天霊場第3番札所

など

 

ユニークな石

 

本堂正面の門

本堂

 

新四国第9番札所  真言宗  正法寺  と書かれています

 

石を使った 休憩所

関連記事 ➡   ようこそ お参り下さいました 閻魔堂です 死者を裁きます 正法寺七条別院

関連記事  慰霊碑 戦没碑 ➡    慰霊碑  戦没碑

寺院 前回の記事  ➡  寺院西0127  聖徳院  西山浄土宗 


 

下のユーザー地図でこの近辺の記事が見つかります

 


神社西0055  大原野神社

2016年07月04日 13時08分06秒 | 神社

 

大原野神社 手前の風景

 

大原野神社の大鳥居

少し横長に感じるのだけど

 

慶安2年(1649)後水尾上皇が寄進された

大原野神社から1キロ東にあったが

昭和44年12月18日 早朝、大型トラックが鳥居中貫に接触破損させた

その場所では再建は不可能なので現在地が選ばれた

社号標

 

公爵  一條實孝  謹書

昭和9年6月建設

 

鳥居の扁額

 

大原野神社

祭神として、奈良の春日大社と同様、建御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比賣大神を祀っている。

長岡京遷都に際し、桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏が藤原氏の氏神として奈良から長岡京に勧請したのが当社の起こりと伝えられる。

嘉祥3年(850)、藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇により壮麗な社殿が造営され、京都の守護神としてこの地に祀られた。平安時代の中期に藤原氏の隆盛とともに、その氏神として大きな地位を占め、天皇や皇后の崇敬も厚く、官祭である大原野祭には勅使が派遣されていた。また、伊勢の斎宮や加茂の斎院にならって当社にも斎女が置かれていた。しかし、応仁の乱以後、社運が次第に衰え、祭儀も途絶えがちになり、社殿は荒廃した。現在の春日造檜皮葺の本殿は、慶安年間(1648~1652)に再建されたものである。境内には、奈良の猿沢池を模した「鯉沢池」や、古歌に多く詠まれ、大友家持が愛飲したとう「瀬和井の清水」とよばれる名水がある。京都市

源氏物語・ゆかりの地

大原野神社

桓武天皇は長岡京遷都に際し、藤原氏出身の皇后にために、大和の春日社の分霊を、この地(平安京西部、小塩山東麓)に勧請したとに始まり、平安時代に入って文徳天皇が外祖父、藤原冬嗣の念願をうけて神殿を建立、地名にちなみ大原野神社とした。当社は藤原氏の氏社として、斎王にならい藤原氏の子女を斎女として置いた。藤原氏の皇后や中宮の参詣が多く、紫式部中宮彰子について参詣しており、雪の日野山を見ながら小塩山を思い出し「ここにかく日野の杉むら埋む雪 小塩の松に今日やまがえる」と詠っている

 

『源氏物語』「御幸」では、冷泉帝が大原野行幸を行い、京の人々が見物に訪れるなか、玉鬘や六条院の人々も車を寄せて行幸を見物している。物忌で同行しなかった光源氏は、帝からの歌に応えて「小塩山みゆきつもれる松原に 今日ばかりなる跡やなからむ」と寿いだ。 平成20年3月 京都市

 

西京区で出土した祭祀遺物(ミニチュアカマド・墨描土器・土馬・須恵器

 

 

途中から 継ぎ足されているようです

昭和28年

 

承応3年(1654)  

 

参道

 

 

 

鯉沢の池   平成28年6月4日  撮影

 

鯉沢の池

左大臣藤原冬嗣を祖父とした文徳天皇は、壮麗な社殿と共に鯉沢の池をも作った。

池は明泉瀬和井と水系を1つにして杜若や水蓮を咲かせ親しまれている。

 

 

 

 

 

 

 

瀬和井

清和天皇産湯の清水とも伝えられ、古来歌枕にあがう数々の和歌に詠まれて名高い。

 

大原や小塩の山のほととぎす われに神代のことかたらむ

左大臣

 

大原や小塩に山の小松原 はや木高かれ千代の蔭見ん

紀貫之

 

大原やせがいの水を手にむすび 鳥は鳴くとも遊びてゆかん

大伴家持

 

夜を寒みせかせいの水は氷るとも 庭燎は春のこゝちこそすれ

大江匡房

 

 

 

花の寺は ここからも 行ける

 

手水舎

 

 

 

春日大社に因んで 鹿 です

 

 

由緒

大原野神社鎮座の一帯は山城地方でも古くから開けたところで壱萬年も以前の有柄尖頭器が山の手から発見されている。人皇50代桓武天皇が都を奈良から京都向日市を中心とした長岡京(784~794)に遷された時、鷹狩を愛した天皇はしばしば大原野に足を運んで鷹を放たれた。萬葉集の編者大友家持が「大原やせがいの水を手にむすび 鳥は鳴くとも遊びてゆかん」と詠んだのも狩りに供奉した時のものであろう。またこの風景を賞で藤原氏の人達は氏神春日大社の御分霊を遷し祀ることにした。これが當社の起こりである。御祭神は

第1殿  建御賀豆智命

第2殿  伊波比主命(經津主命)

第3殿  天之子八根命

第4殿  比咩大神

がお祀りされている。文徳天皇は仁寿元年(831)祖父藤原冬嗣

が生前果たせなかった壮麗な社殿を創建され春秋二季勅使をつかわし勅祭を行われた。応仁の乱後は社運おとろえ祭儀さえ中絶したが後水尾天皇(1648)が再建された今の本殿4棟春日造はこの時のものである。慶應元年11月加茂、石清水の勅祭に次いで官祭が復興され近くは大正11年11月14日時の皇后(貞明皇后)が當社に行啓遊ばされた。御例祭は桜花満開の4月8日に執行、特殊神事として御弓祭と御田刈祭の二私大祭がある。  大原野神社

 

由緒

大原野神社鎮座の一帯は山城地方でも古くから開けたところで壱萬年も以前の有柄尖頭器が山の手から発見されている。人皇50代桓武天皇が都を奈良から京都向日市を中心とした長岡京(784~794)に遷された時、鷹狩を愛した天皇はしばしば大原野に足を運んで鷹を放たれた。萬葉集の編者大友家持が「大原やせがいの水を手にむすび 鳥は鳴くとも遊びてゆかん」と詠んだのも狩りに供奉した時のものであろう。またこの風景を賞で藤原氏の人達は氏神春日大社の御分霊を遷し祀ることにした。これが當社の起こりである。御祭神は

第1殿  建御賀豆智命

第2殿  伊波比主命(經津主命)

第3殿  天之子八根命

第4殿  比咩大神

がお祀りされている。文徳天皇は仁寿元年(831)祖父藤原冬嗣

が生前果たせなかった壮麗な社殿を創建され春秋二季勅使をつかわし勅祭を行われた。応仁の乱後は社運おとろえ祭儀さえ中絶したが後水尾天皇(1648)が再建された今の本殿4棟春日造はこの時のものである。慶應元年11月加茂、石清水の勅祭に次いで官祭が復興され近くは大正11年11月14日時の皇后(貞明皇后)が當社に行啓遊ばされた。御例祭は桜花満開の4月8日に執行、特殊神事として御弓祭と御田刈祭の二私大祭がある。  大原野神社

 

大原野神社

京都市指定有形文化財

本殿(4棟)・中門・東西廊(2棟)

大原野神社は、延暦3年(784)の長岡京遷都の際、藤原氏の氏神として奈良の春日神社(春日大社)の分霊を勧請したのがはじまりとされる。本殿は、同規模・同形式の4棟の一間社春日造社殿であり、各社殿間は板塀で連結されている。身舎の平面は、170センチ四方の正方形である。屋根は檜皮葺で、棟に置千木と三本の堅魚木をのせる。身舎の正面にかかる破風は、春日大社同様、直接庇下に突き抜けて庇の垂木を受ける古い形式である。

建築年代については、擬宝珠に文政5年(1822)の銘があり、向拝角柱の面取が小さいなどの様式からみても、この頃に再建されたか、かなり大規模な改修を受けたと考えられる。中門は簡素な形式の薬医門である。中門の両脇に建つ東廊と西廊は、いずれも正面を柱間五間として連子窓をはめ、背面を柱間三間の吹放ちとする。中門・東西廊は、いずれも切妻造、檜皮葺の建物で、本殿と同時期の建築とみられる。大原野神社本殿は、奈良の春日大社同様に一間社春日造の社殿が4棟並立する形式である。本殿前の中門・東西廊とともに春日社系社殿の形態をよく伝えるものとして評価が高い。

平成15年4月1日 指定 京都市

 

 

 

明治24年か

 

本殿の様子

 

 

歌碑

 

富小路禎子

母胎より彼岸に到るここの道 いましばらくの緋なる夕映

富小路家は藤原氏の末裔、二絛家の流れを汲む歌道の家で、禎子は大正15年8月1日、東京上落合に富小路子爵家の二女として生まれる。昭和21年植松寿樹の「沃野」に入会 平成3年代表となる。平成14年1月2日 75歳にて没する。10冊の歌集と全歌集があり、歌の世界に多くの業績を残した。生前度々父祖の地である京都を訪れ、当神社にも参拝した。碑面の一首は禎子50代の代表作である。

 

竹群に降る音ありて更くるるらむ 雪の一夜を来て泊りたし

碑面の歌は植松寿樹の歌集「枯山水」収録のもので、昭和10年の夏、大原野を詠んだ中の一首である。寿樹は東京四ツ谷に生れ、慶應大学を卒業、窪田空穂に師事して、空穂創設の「国民文学」に選者として加り活躍した。昭和21年6月自から歌誌「沃野」を創り主宰して多くの門下を育て導いた。昭和39年3月26日西伊豆土肥で急逝した。歌集に庭燎・光化門・枯山水・渦若葉・白玉の木・植松壽樹全集がある。

 

末社

 

祓戸社・八坂社・稲荷社・八幡社

 

 

神輿庫

 

摂社  若宮社

 

鯉沢の池

水蓮

鯉沢の池にある 祠

 

相撲場

 

関連記事

文徳天皇陵   ➡  文徳天皇陵 

境外摂社  ➡  神社西0054  樫本神社  

前回の 神社 記事  ➡  神社西0054  樫本神社  

 


道標西0047   參陵道  大原野神社・花の寺 

2016年07月02日 07時31分07秒 | 道標

 

 

 

 

參陵道  右へ

反対側は  大阪皇陵巡拝会とあり

右    大原野神社   二丁

       花之寺         五丁

 

大正5年3月 

 

  左    よし峯   二十五丁

        岩くら   十八丁

 

安井庄太郎  と書かれています

 

道標 前回の記事 ➡ 

    道標右0046   御室八十八ケ所に 村上天皇陵・宇多天皇陵  


石碑西0050  忠魂碑  西迎寺門前にありました

2016年07月01日 10時25分15秒 | 石碑

 

 この碑は、もともとは 大原野小学校の運動場北側の一段高いところに

置かれていたとのことです

鎮魂の地 のところに 何か記されています  見逃してしまいました

昭和3年11月 建立  小原野村

エピソード

大原野村忠魂碑の場所移転。敗戦後の昭和21年、マッカーサー司令部は奉安殿と忠魂碑の解体を命令してきた。忠魂碑を取り壊すことが忍びないので、有志が相集い協議した結果、南春日町の西迎寺の敷地内へ移転することになった。進駐軍に洩れると大変なことになるので、深夜牛車の車輪を外し、コロを利用して運搬された。大原野村の忠魂碑は、現在の大原野小学校の北西に建っていたが、撤去命令を受けると、地域の人々が、人目につかないひっそりした西迎寺墓地の一角に移したとされる。

関連記事  慰霊碑 戦没碑 ➡    慰霊碑  戦没碑

石碑 前回の記事 ➡  石碑西0049  忠魂碑  日露戦争の参戦兵士でしょうか 


愛宕灯籠042   西迎寺  門前 

2016年07月01日 09時45分27秒 | まち歩き

愛宕山常夜燈  と刻されています

 

天・・・   建立

 

40      愛宕灯籠040   五条上桂前田町交差点を北へ

39    愛宕灯籠039    弥勒寺を西へ      

38    愛宕灯籠 38 垣根の中に埋もれて  道標・浄住寺地蔵院の向かい

37  愛宕灯籠  道標も兼ねています  さが  あたご

36  愛宕灯籠 36  三ノ宮神社前

35  愛宕灯籠  35   桂・廣見寺門前

34  愛宕灯籠34  愛宕山大権現  千束で  原谷を目指して2

33 愛宕灯籠33  葛野七条

32  愛宕燈籠  上桂

31 愛宕灯籠  妙心寺付近で

30 愛宕灯籠  左京区  一乗寺馬場町

29 愛宕灯籠29  西京極・松尾三ノ宮神社 参道

28 愛宕灯籠 桃山江戸町  

27  愛宕灯籠 若一神社

26  愛宕灯籠  妙心寺北門前にあり

25  愛宕灯籠  妙心寺北門を東

24  愛宕灯籠 鳥居本 愛宕一の鳥居で

23  大覚寺門前 平成愛宕灯籠

22  大覚寺門前 の愛宕灯籠・大正

21  大覚寺 門前 の愛宕灯籠・明治

20  大門橋 東 愛宕灯籠

19  山越えの愛宕灯籠

18  愛宕灯籠  西院坤町

17  愛宕灯篭  帷子ノ辻 南へ

16  愛宕灯篭  双ヶ岡

15  愛宕灯篭  花園駅 北へ

14  愛宕灯篭  妙心寺を西へ

13  半分埋没した 愛宕灯篭 それでも残っている 民家の前

12  愛宕灯篭  今も使われている

11  愛宕灯籠  大きい 立派  鹿王院を東へ

10  愛宕灯篭  嵯峨駅南へ 嵐山近く  民家敷地にぎりぎり設置

愛宕神社石碑  三条通りの南で見つけた

愛宕灯篭  1814年に作られたもの

7  愛宕灯篭  車折神社の南へ行った所にありました

愛宕灯篭  正定院の近くで

愛宕灯篭  斎宮神社内にありました

4   愛宕灯篭  車折神社内にも あった

3  

愛宕灯籠    梅津大神宮を追加

愛宕灯篭・大映通東詰

 

愛宕灯籠 前回の記事  ➡  

  愛宕灯籠041   沓掛 山陰街道沿い  

 


寺院西0126  西迎寺  西山浄土宗

2016年07月01日 06時13分45秒 | 寺院

 

南の入口

 

 

 

 

紅葉したら 見ごたえあるだろうなぁ

 

 

 

 

鐘楼

 

本堂

扁額は 「安岡山」

 

寺院 前回の記事  ➡ 

     寺院西0125  勝持寺・花の寺  天台宗  西行