寺号は発遣の釈迦と来迎の弥陀の二尊を本尊とするところから名づけられた。二尊ははじめ九条関白藤原兼実の邸宅に安置されていたが、藤原道家が西山善恵証空上人を開山とし、東福寺門前三ノ橋の南に一宇を創建したのが起こりと伝える。
天正年間(1573~92)上京区寺町広小路の北之辺町に移り、禁裡御内仏殿として宝祚無窮を祈る道場となった。もとは天台宗山門派に属していたが、昭和29年(1954)末この地に移ると共に、浄土真宗遣迎院派の総本山となった。いかめしい表門は、もと岡山の高松城の城門といわれ、
本堂に安置する釈迦・阿弥陀如来立像(重文・鎌倉)は、ともに高さ90㎝、寄木造り、玉眼入、古調を帯びた鎌倉時代の秀作。釈迦は左手に宝珠を持ち、阿弥陀は中品下生の来迎印をむすび、その足柄に巧匠安阿弥の刻銘がある。
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寺院上0114 観音寺 浄土宗 百叩きの門 よなき地蔵 千人堂 文追加
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人家は昔から7軒しかない。この地は『延喜式』に記されている「愛宕郡栗栖野氷室」にあたる。氷室は仁徳天皇の代、額田大中彦皇子が大和国闘鶏に遊猟の折り、山中にて氷室を発見し、氷を天皇に献上されたのがはじまりであるといわれ、それより諸国に氷室を設置されたことが国史にみえる。その後、平安遷都におよんで京都の周辺に6ケ所の氷室が設置された。①右京区御室住吉山 ②左京区上高野氷室山・左京区松ヶ崎丈ケ谷③北区西賀茂氷室町④北区西賀茂西氷室町⑤不詳⑥北区衣笠氷室町。
ここはそのうちの1つである。
氷を貯蔵した室址は杉坂へ行く道の北側に3ケ所残っている。今は樹木や土砂に埋もれて、その跡は見分けにくい。約20平方メートルぐらいの広さの窪地になっている。また、氷を作った池は、現在5ケ所あり、いずれも小さな池で、今は灌漑用水地となっている。明治時代に竜紋氷室と称して我国製氷界に活躍した京都の実業家山田啓助翁は、はじめこの池の氷池を利用したといわれる。なお西方の山腹には清原頼業以来代々主水司をつとめたこの地の領主清原氏およびその支族の伏原氏一族の近世の墓がある。
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清雲山と号し、寛永7年(1630)日任上人が創建した日蓮宗本満寺派の寺で、俗に岩戸妙見とよばれる。本堂には釈迦法華題目碑を安置し、妙見堂には妙見菩薩を祀る。この妙建像は足下に霊亀を踏まえ、右手に剣、左手に白蛇をにぎり、頭上に北斗七星をいただいた高さ約6尺(約2メートル)の石造神像である。日任上人が霊夢に感じ、霊巌寺の妙見を祀ったものと云われ、寺では霊厳寺の旧跡と称している。
境内には常富明神を祀った常富殿や痔神として崇敬される秋山自雲居士の墓があり、境内西北隅の墓地内には江戸初期の儒者 三宅亡洋一族の墓がある。
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寺院 前回の記事 ➡ 寺院北0499 光悦寺 日蓮宗
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大虚山と号する日蓮宗の寺である。当地は、元和元年(1615)徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦が一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。当寺は、本阿弥家の位牌堂を光悦没後に、本法寺の日慈上人を開山に請じて寺に改めたものである。京都市
本堂には本尊十界曼荼羅を安置し、境内には太虚庵をはじめ三巴亭・了寂軒・本阿弥庵等、多くの茶席がある。
このうち三巴亭茶席には光悦像を安置する光悦堂があり、その南の太虚庵茶席は大正4年(1915)の再建で、切妻造り、こけら葺き、前面に付廂があって、入口には板戸二本引きのにじり口、東側には障子二枚引きの貴人口を設ける。内部は五畳台目、床を点前座に方に寄せている。また床内は土天井とし、隅を塗廻しとしているのはむかしの太虚庵茶室の名残りを示す。内露路には光悦遺愛の薄墨の手洗鉢があり、それを囲む垣根は、世に光悦垣ともいわれていて有名。
また了寂軒茶席はもと常題目堂のあったところと伝え、その下方の翹秀軒茶席は紙屋川にあって、前方にそびえる鷹峰・鷲ケ峰を一望できる景勝の地。
本阿弥光悦の墓は境内の東南隅にある。墓石には「南無妙法蓮華経 了寂院光悦日豫居士」と刻まれている。光悦は世襲の相剣業を以て徳川家康に仕え、鷹ケ峰の地を賜って、太虚庵をむすんで隠居し、寛永14年(1637)2月3日、80歳で没した。墓の近くには光悦の子光瑳、孫の光甫の墓および親交のあった所司代板倉勝重・重宗親子の墓がある
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寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0498 正林寺 浄土宗 小松谷御坊
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歌碑
使われなくなった 大きな釜が別の用途に使われています
南北朝の動乱を題材とする軍記物語「太平記」に「京中を足下に見下」ろせる峠という記述がある。延元元年(1336)、都を追われた後醍醐天皇方の兵が足利尊氏らとの洛中合戦にあたり、都へ攻め入るための北の要所として京見峠に陣をはったとある。北山・東山の諸峰を左右に見て、峠に立てばその名の通り、眼下に船山(「五山送り火」の「船形」が灯される)や釈迦谷山(鷹峯)を、遥か前方には京都市中が一望できる。現在は夜景もことのほか美しい。
標高446mのこの峠を通る道は現在府道31号線というなであるが、現在も京都市内から杉坂や周山街道へ抜ける車が利用している。
昔は京の七口のひとつ「長坂口」から若狭国など北国や丹波方面とを結び、室町時代には関所もおかれた古くからの要所である。また峠の大木を山の神としてまつる庶民信仰の重要な役割を果たしたことが伝えられる。右手には、京都の詩人、島岡剣石が辛夷の花の咲くころ、この峠で詠んだ歌の碑がある。
うつせみの寂しさ故におく山の
辛夷は白く鎮もいて咲く
京都市
北区 鷹峯 堂ノ庭町
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