12月に入りそろそろ年賀状の準備をしなければならない。
ここ何年間か、元旦に着くように出したためしがない。今年こそはと思っている。
来年は私も「人生七十古来稀なり」と中国の詩人杜甫が詠った、古希である。
中学時代の友人をはじめとし、多くの人と賀状の交換をしているが、少し遠方の人とは年始の便りだけが無事のしるしで会わざること久しい。
年賀状も型どおり、PCでプリントアウトしたものを機械的に送ってきたが、今年は早目から準備し、それぞれに一文をかけ添え、旧交を温める機会にしたいとも考えている。
年賀状と言えば、「本年も宜しくお願いいたします」という言葉を常套句としてよく使う。
森本哲郎もその著「日本語の表と裏」の冒頭この「よろしく」という言葉を取り上げている。
森本はポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスの著作を引き、言葉の明瞭さと曖昧さに西洋と日本の違いを述べている。
その曖昧な言葉の代表として「宜しく」を挙げている。
確かに年賀状だけの付き合いになってしまって久しい人から「本年も宜しく」と言われても、「何を宜しくすればよいのか」曖昧な言葉に本来戸惑ってしまうはずであが、賀状をもらった嬉しさと懐かしさからなのか、せめて年賀状の交換で末永いおつきあいをと善意に解釈する。確かに、合理的に考える西洋人からすれば奇異な感じを受けるかもしれない。
日常的にも「宜しく」は使う。
案内や依頼文には、私もよく使う。
様々なことをお願いするが、最終的にはあなたのご意志にお任せします。相手を立て相手の判断を尊重する。
「私としては是非ご出席願いたい」が、「あなたもお忙しいし、他にもっと大事なことがあるかもしれないので、出欠の有無はあなたの判断にお任せします。」ということだろう。これも日本人的なものの考え方、意志の伝え方かもしれない。
森本は、相手の意志や判断を尊重する言い方だが、責任を相手に転嫁する使い方や場合によっては慇懃無礼な場合もあるというが、責任転嫁については分からないではないが、慇懃無礼についてはその用法を思い出せない。