小沢元民主党代表をめぐるニュースが報道されている。
事の善悪、正邪を論じるつもりはないが、小沢擁護派の発言に気になるものがある。
人が世の中で生きていくためには守っていかなければならない決まりごとがある。それが規範と呼ばれるものだと思う。
小沢問題で言えば、問われるのは倫理規範と、法規範である。
法規範は厳格なものである。
特に、刑事法においては個人の人権と冤罪を考えさまざまな基本原則がある。
余談だが、刑法の歴史において有名な事例がある。電気窃盗事件である。
電気をメーターを通さず家に引き込み、無断で使用したという事件である。判決は無罪であった。
その理由は、刑法では、窃盗の定義を「財物を窃取」とし、更に「財物とは有体物を言う」としていた。
電気は姿形がなく、有体物とは言えない、従って、刑法に言う窃盗罪には該当せず無罪であるという結論に達した。
その後、刑法が改正され電気窃盗は有罪となる。
「罪刑法定主義」という原理である。
電気窃盗の犯人は無罪となったからと言って、その行為をだれも是認できないである。
近代刑法におけるもう一つの重要な原理に「証拠主義」がある。推理小説によく登場する「完全犯罪」とはアリバイも含めて完全な形で証拠となるものを隠滅した犯罪である。端的に言えば、犯罪の事実はあっても、証拠が皆無であれば、裁判上では無罪であり、犯罪そのものが無かったことになってしまう。
冤罪を証拠の関係で言えば、証拠のねつ造であり、改ざんで、その捏造され、改ざんされた証拠に基づいて裁判が行われ、本来無実であるにもかかわらず有罪となったものである。
本来有罪である人かかわらず無罪となる事例は枚挙にいとまがない。
今回の事例でも検察が不起訴とした理由は、おそらく、検察が持っている証拠では不十分で、有罪を勝ち取ることが不可能と判断し、不起訴処分にしたものと思われる。公判維持が極めて困難な事件は検察は、初めから起訴しない。
従って、強制起訴された今回の場合でも、組織も権限も検察より数段劣る弁護士が検事役を引き受ける裁判で有罪となることは極めて困難であろう。最初から無罪が分かっている裁判と言ってよい。
以上は、小沢元代表が実質的には有罪だが形式的に無罪だった場合である。
では、実質的にも、形式的にも法に触れていなければどうであろうか。
そうであれば許されるのであろうか。
そこで、規範の問題が出てくる。
民主党の小沢擁護派の発言で気になるのはこの点である。
つまり、規範意識の問題である。
このことは、単に政治の面だけではないからである。
今、青少年の規範意識の低下が社会問題となってきている。先日、ここでも触れた「万引き」の問題である。
万引きが増えていることも問題だが、子ども達が、借りたものを返さないなどの犯罪を構成するようなものではなくても許されないものに対する罪悪感をなくしている。つまり、倫理規範意識の低下である。
この倫理規範意識の低下が、少年犯罪の増加につながっているのである。従って、教育現場や地域では子どもたちの規範意識の向上に日夜努力しているのである。
正に、小沢問題は政治家の倫理規範意識がどうであるかが問われているのであり、政倫審はまさにその処を問題にする場所であり。裁判で無罪になれば何をやってもいいという論調はとてもいただけない。
裁判で白黒つければよいという、倫理規範などはどうでも良いと言わんばかりの発言には唖然とするしかない。
人が社会で生きていく上で最低限守らなければならないのが法規範で、人が人ととして生きていく上で守らなければいけないのが倫理規範である。
法規範と倫理規範の区別がつかない人は、中学や高校の倫理の授業を受けなおしてもらいたい。
地域で青少年の健全育成に励むものとして、模範となるべき国会議員の発言としては許しがたいものである。
勿論、政治の場でのことであり、政争の具として汚く使われることを恐れての態度もあると思うが。
政治と金の問題、国会での真摯な議論を望む。