日本の刀剣は、大分類的には慶長期を境に古いものを古刀、新しいものを新刀と呼びます。さらに古刀の作風を分類すると、5つのグループに分けられます。それらは、大和(奈良)、山城(京都)、備前(岡山)、相模(神奈川)、美濃(岐阜)の5つの鉄の生産地を伝法とする考え方です。
中でも相州伝の伝法は、定石では「大板目肌に大乱の刃文を以って相州伝とする」とされていますが、最初期の相州伝は、山城鍛冶が鎌倉で作刀したためと解釈される程よく積んだ地金に小沸出来の直刃を焼いている物があります。
相州鍛冶の出現は、粟田口の国綱が建長期に北条時頼の求めに応じて下向し、その後、備前の三郎国宗、一文字助真が続いて、鎌倉鍛冶の源流となったと伝えられています。材料の鉄にいたっては他国より取り寄せて、武家政権の軍事需要に応えたというのが一般的な解釈です。
では、鎌倉幕府が置かれる以前に、関東に製鉄の文化はなかったのでしょうか?近年、栄区を中心に数多くのタタラ製鉄跡が発見されており、定説を大きく覆す可能性が出てきました。
そこで、横浜市栄区周辺に残る製鉄技術者の足跡を実際にたどり、関東の鉄文化と歴史を学ぶトレッキングツアーを開催いたします。
ご興味をお持ち頂いた方は、下記リンクよりお問い合わせください。
http://www.mononofukougei.com/event.html
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相州鍛冶の出現は、粟田口の国綱が建長期に北条時頼の求めに応じて下向し、その後、備前の三郎国宗、一文字助真が続いて、鎌倉鍛冶の源流となったと伝えられています。材料の鉄にいたっては他国より取り寄せて、武家政権の軍事需要に応えたというのが一般的な解釈です。
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