7月4日に山科図書館で「安祥寺と上寺跡の調査結果」の講座がありました。
講師は京都市考古資料館の館長の梶原 敏夫氏でした。
今の安祥寺は京都山科の洛東高校の西となりにある寺ですが、9世紀の848年に文徳天皇の生母、藤原順子という方の発願により
恵運という僧により作られました。作られた当時は上寺と下寺があり、この一帯に約50haの寺領をもち、塔頭は700を超えて
いましたが、その後応仁の乱により荒廃し、現在の安祥寺は、別の場所に江戸時代に再興されたとのことです。
上寺は安祥寺山の中腹320mにあり、南北朝時代に焼失したといわれています。
伽藍のあった其石などはそのまま残っていて、上寺あとは何回も測量調査などが行われ、その概要がわかってきたそうです。
今上寺のあった場所は、道がなく下からは上がるのがむつかしく、上から降りていくしかないとか?
下寺の元の場所は不明とのことでした。
上寺跡は、1961年初めて国立博物館のスタッフによって地形調査が行われ、「資源帖」記載の礼仏堂や五大堂の跡があきらかにされました。
講師の京都市考古資料館の館長の梶原 敏夫氏は、1998年から埋蔵文化財関係職員有志や京都女子大考古学研究会会員の協力で調査を行い
2002年から2005年まで京都大学院文学研究科による、学際敵な調査研究が行われ、立派な伽藍の様子が存在したことが判明したとのことです。
レジメ
図書館にあった無料配布の「山科時間」 山科にかんする情報誌 山科の知らないことが色々記載されているので、参考になりました。
講師は京都市考古資料館の館長の梶原 敏夫氏でした。
今の安祥寺は京都山科の洛東高校の西となりにある寺ですが、9世紀の848年に文徳天皇の生母、藤原順子という方の発願により
恵運という僧により作られました。作られた当時は上寺と下寺があり、この一帯に約50haの寺領をもち、塔頭は700を超えて
いましたが、その後応仁の乱により荒廃し、現在の安祥寺は、別の場所に江戸時代に再興されたとのことです。
上寺は安祥寺山の中腹320mにあり、南北朝時代に焼失したといわれています。
伽藍のあった其石などはそのまま残っていて、上寺あとは何回も測量調査などが行われ、その概要がわかってきたそうです。
今上寺のあった場所は、道がなく下からは上がるのがむつかしく、上から降りていくしかないとか?
下寺の元の場所は不明とのことでした。
上寺跡は、1961年初めて国立博物館のスタッフによって地形調査が行われ、「資源帖」記載の礼仏堂や五大堂の跡があきらかにされました。
講師の京都市考古資料館の館長の梶原 敏夫氏は、1998年から埋蔵文化財関係職員有志や京都女子大考古学研究会会員の協力で調査を行い
2002年から2005年まで京都大学院文学研究科による、学際敵な調査研究が行われ、立派な伽藍の様子が存在したことが判明したとのことです。
レジメ
図書館にあった無料配布の「山科時間」 山科にかんする情報誌 山科の知らないことが色々記載されているので、参考になりました。