■月曜の夜、ティン君と会ってパソコンを譲り受けた。もう遅くなったので近くのカフェも閉店間際で詳しく説明をうけることもなく帰って早速操作し始めた。朝の5時までやっていた。今日は昼ご飯のバインチュンや赤飯(オンタオの行事があるから魚の形をしていた)を食べて午後のイエン先生の授業を受けた。するとヒエン先生から電話でVOVラジオ放送局が外国人学生のインタビューをしたいと言ってきた。テトの食事がテーマ。明日連絡があるということで、もし家に訪ねてくる時にはフオンばあちゃんの部屋でできるようにばあちゃんに頼んでおいた。夜中までMacに夢中になっていたら起動しなくなってしまった。あぁ!
◾️日曜はティエン君と例のリンダムのカフェで会う事になったのでインドシナプラザでお金を引き出しておいてパソコン代を払ったが彼はまだコピーを終えることができなかったので、後日引き渡してもらうつもりで集まってきた仲間たちと向かいの海鮮料理店で2回目の忘年会。バイクを買ったという西村さんともう1人の若者はハノイ大学でベトナム語の勉強をしている。帰りは僕の近くに住んでいるナントカ君のバイクに乗せてもらって帰る。
■ワクチン接種をすることが決まった。クオンが申請書を書いてくれた。2時15分から40分ほどイエン先生のオンライン授業を受けた、と言っても世話話をするだけだけど。リエンが友達と一緒にワクチン接種を受けるので、その友達のバイクに乗せてもらって一緒に会場のバックコア大学へ行く。接種前、フオンばあさんはしきりとココナッツミルクを飲めと言う。イエン先生はビタミン剤を飲めと言う。僕は飲尿をしたから準備万端。
この会場は3回目接種の人用だった。ベトナム語を話す日本人というので係員も「ベトナムに何年?」などと聞く。今回はファイザーだった。接種後は通常と変わらず。今日はとても寒い。食後は眠くてたくさん着込んで横になった。
■ティン君が忘年会に招いてくれた。最初、新年会の間違いだと思ったが、2月のテトの前だからベトナムでは忘年会なのだ。レンダムのカフェに行くとダツ君が待っていた。その後、いろいろ人が集まってきた。十数人になって向かい側の海鮮料理店に行った。半数以上日本人だった。カラオケセットを持ってきた人がいてカラオケも始まった。ベトナム人みたいな若いカップルが来てベトナムの歌を歌った。彼らが日本人だと知ってちょっと驚く。僕はイエン先生の弟に授業料を払う約束をしていたので途中で帰った。弟さんとはVSL近くのハイランド珈琲で待ち合わせた。11、12、1月分を払った。2か月分は週4回授業と計算して払ったので、夜、イェン先生と連絡し説明して金額が多くなったので感謝された。。彼女からは韓国の高麗人参食品とセーターをもらったのですぐにきてみることにした。
□先般購入したiPad Pro 9.7インチは失敗だったことがわかった。YouTubeによるとこれはApple Pencilが初めて使われた機種だった。だから最新のiPadのApple Pencilに対応していない。最新型に買い直すことも考えたが、まずはiPad操作に慣れるために第一世代のApple Pencilで少し練習してみようか。ここ数日間iPadについて調べまくった。iPadはノートテイクの完成形だと知った。次世代勉強システムが完全にできそうだ。
□今年は賀状が届いたがいろんな人が病気になったと言う話を伝えてきた。70代になるとそういうことかと思った。ベトナムの1月はテトとは違って普通の日なので平凡な1日だった。Lien先生のクラスのテーマがカーボンニュートラルだったので興味をもってYouTubeで調べてみるとパリ協定までの歴史までが面白い。ローマクラブの「成長の限界」から今年は丁度50年。あと50年後に起こる核による地球の破滅。確かシステムダイナミックスとか言う手法で予測したはず、、。そして今、世界が変わり始める。このコロナが端緒となるはず。僕の原発論も変わった。現在の軽水炉系は廃炉しインドに倣ってトリウム型を開発すべきだ。
この1年に腸閉塞などで2回入院・手術する機会がありました。ハノイでトップレベルの病院で、全く保険を持って なかったのにも関わらず医療設備◦医療スタッフが完備していてベトナムは薬価、医療費が安く日系クリニックの半額ぐらいで治療ができます。人も設備も不十分な日系病院だけでは今頃どうなっていたかわからない気がします。同時に日本の保険会社の医療保険等各種金融商品など国際的に異質な閉鎖的マーケットだということも知ることができ従来の保険、医療、福祉制度など改めて考え直す機会に恵まれた気がします。
コロナ禍の中ベトナム社会も私の生活も変わらざるを得ません。日本のテレビ新聞など久しく見る機会はなく関心もないのですがYouTube中心のオンライン情報がメインの生活です。ハノイは世界一大気汚染の酷い都市で数年生活した駐在員が気管支炎で帰国するようなところですが今世界中がマスクをするようになって救われたところがあります。
終の住処としてベトナムの実態医療のレベルを知ることができた入院経験は僕にとってとても重要な1年でもありました。