くまぐー日記

くまさんの電脳室リポート

パリの友人

2011年12月22日 | Weblog
■突然Hさんから電話があった。僕と同様連絡先データをなくしたそうで、やっと電話番号だけ見つかったという。パリで同棲している彼と暴力沙汰があって裁判中で、どうしたらいいか?と、いわれてもフランス法なんて知らないし、、、。「それより、福井に戻っているんだったら一緒にごはんどう?」

喫茶店でiPhoneをみせて薀蓄を語るうちに彼女も今どきのIT運用状況をのみこんできたようだ。なんだか訳のわからない社団法人を作って訳のわからない仕事をしているようにも見える。もうパリでの生活も17年になるという。日本の普通の食事に飢えているようでもあるので駅前の「晴れる家」に行くことにした。僕のボロ車モバイルオフィスをいたく気に入ったようだ。

「いまどうして食ってるの?」
  「パリ低所得者市民を援助する補助金の申請をして、、、」
「それって、フランスの生活保護を受けてるって事?」
  「そう、そういうこと」
「Hさん、ソルボンヌの博士号もってるんでしょ」
  「そう、窓口でも今まであなたのような高学歴、職歴の人は一人もいません!て、いわれちゃった」

彼女はかって国連職員としてアフリカ紛争諸国の援助基金創設のために世界中を走り回っていた。代議士であった父親のコネクションと流暢なフランス語を駆使して大活躍していた時期があったのだ。

「そりゃすごいな、オレが日本の生活保護の申請をしようとしたってムリなのに、、そんな日本人なんていないよ。パイオニアだよ」
  「いま、大変なの。本とかフランスまで送んなきゃいけないし、、この前も60万ぐらいかかっちゃた、、。」
「そんなのアマゾンで買った方がずっとやすいでしょ!」
  「そうねぇ、は、は、は、、。」

、、、この人にはiPhone勧めてもムダかもしれない。
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北朝鮮のこと

2011年12月21日 | Weblog
■金正日が死亡して北朝鮮に新たな状況が生じた。僕がピースボートで北朝鮮を訪ねたのはちょうど20年前になる。金日成の80歳記念の年で日本の一般のパスポートから北朝鮮への渡航禁止がなくなって直後のことである。それまで北朝鮮は日本の「仮想敵国」で、それまで北朝鮮だけが唯一の渡航禁止国だった。

ピースボートの旅程は「南北両国を訪問する」ということで最初は韓国を訪れ、一度帰国して韓国旅行から持ち帰った荷物を除いて新潟から例の「マンギョンボン号」に乗って北朝鮮に向かった。「べ平連」を主催し、米国の徴兵拒否脱走兵をかくまった作家の小田真も乗船者の1人だった。船の中には北朝鮮に持ち込む中古車がいっぱい積載されていた。

労働党青年部の人たちの歓迎というか監視というか、常に団体で行動することしかできず、1人で気ままに歩きまわれる環境はなかった。南から板門店に行ったときと、北から行ったときはまるで違った場所の話だった。大韓航空機爆破事件のことは話題にしないようにかん口令がしかれていたのにもかかわらず議論してしまってツアーが中止になってしまったグループもいた。

よど号乗っ取り事件の犯人に会って話を聞いたグループもいた。犯人たちは優遇されていたが、日本に帰りたいと言っていたそうだ。

マスゲームで歓待され一緒に手をとって踊った女性は皆、政府の工作員だったそうだ。船の乗客と歓迎する側が盛り上がって一緒になろうとする瞬間に小田真やスタッフは皆の行動を制止させた。この状況をビデオに撮られて政治的に公開利用される恐れがあったからだ。この辺の小田の処理はさすがだなと思った。

赤土の山林には貧しい土壌でも生きる松ばかり。だから、マツタケはとれるが、寒いので燃料用に雑木が盗伐され保水力のない山はいくら強制労働で灌漑しても続かない。川はすぐに天井川になってしまって洪水を引き起こす。一体ここでは何を作っているのだろう?農業専門の乗客がとうもろこしの種を見つけたという話をしていた。

国交がなかったにもかかわらず、日本からパチンコマネーやさまざまな商品取引が公然のようにあった風でもある。港に船が着くと平壌の街中の灯りが一斉にともったとも言われた。平壌の未来都市のような景観でも人のいないビルは皆未完成で20年前の部品が転がってたという話をしていた乗客もいた。

すばらしい景観の金剛山を訪ねると、岩山全面に標語が刻まれているのにあきれたり、我々が市内観光する際はそのためだけに通行人や買い物客が動員されたり、高速道路に車はなく、通勤に人が集団で歩いているだけだったり、、、、、。

そんな北朝鮮が今はどんなだろう?これからどうなるか?全世界が見ている。
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ルワンダという国

2011年12月18日 | Weblog
■ちずちゃんが海外青年協力隊としてルワンダに行くことになってアップルビルで壮行会があった。ところが僕はてっきりウガンダだと思っていた。一人一芸を披露するという話だったので、ウガンダのルアンダ語で1から4までどういうか?を紹介しようと思っていた。(5以上は品詞が違うらしい)。ルアンダはウガンダの南にあって、ブルンジやコンゴと共にベルギー領であったが独立後ツチ族とフチ族間の内戦で荒廃した貧しい国であった。ところが今ではアフリカ一治安がよくてIT産業などすばらしい将来のビジョンをもった国になっているようだ。

ちずちゃんは首都キガリの南、ブタレというところに行くそうだ。グーグルマップでみると結構な集落である。ルワンダでは15年以上まえの大虐殺で80万人のツチ族が殺されたり国外に離散したが、フチ族支配も転覆してしまう。そして海外で成功した離散者も戻って来て今は新しい大統領の下で国の将来の展望を開こうとしているという。日本で中古車輸出で成功した不動産王といわれる経営者もいるそうだ。日本人も90人いるそうだ。しかしまだまだ貧しいくにであることに違いはない。どうしてあの内戦と国の荒廃がもたらされたか?ベルギーの統治支配の中で反政府勢力を分断するため少数派のツチ族を優遇差別して部族対立を作ったともいわれる。

壮行会には続々と人が集まった。二胡の小林君の奥さんもいた。さすがにちずちゃんの顔はひろい。寄せ書きのタンクトップについ「帰ったら話聞かせて!」と書いてしまった。いつでもFaceBookで様子聞けるのに!

帰ってTVを見ると福井市長選挙結果を放送していた。そうだ、今日は投票日だったのだ。夜、その投票率が史上最低だと報じていたのを聞いてつい笑ってしまった。






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新入りバイクのこと

2011年12月15日 | Weblog

■事故後、つぶれたバイクの代わりを早川オートにたのんで探してもらった。すぐにピンク色のホンダトゥデイの中古が見つかった。4サイクルなので始動時にふかしすぎてあわてることもないし、燃費もいい。最近のバイクは皆4サイクルだと聞かされて、バイクは2サイクルだと思い込んでいた認識不足を反省!

オレにピンクはないだろうという気もするが、機能第一だからデザインにこだわりはない。ハンドルにライトが載っている感じもいいし、エンジン音も落ち着いている。問題は荷台が小さくカゴが付いていないこと。

郵便屋さんが使うカブの荷台についているような四角なボックスを探してもらった。できればA3の用紙を入れたバッグがすっぽり入るようなスペースのある、、、と、いうものはなく、うすっぺらな感じのボックスがきた。後ろ荷台が小さいのでボックスを早川オートで装着してもらった際もかなり不安定だったが、あまり重いものは避けて使って、不都合があればまた補強することにして、とりあえずこのまま使ってみることにした。

ヘルメットは新しいものにした。フルフェースではないが、透明フードが深くおろせるものなので雨や雪の時に助かりそうだ。ついでに防水のレインジャケット、パンツを新調した。アノラックの上から着ることができるようにLLサイズだ。前のやつはジッパー部分が壊れて強い雨の時は下着まで濡れてしまったので防水にこだわることにした。

手袋は普通手袋の上に油作業用のゴム手袋を重ねてはくことにした。豪雨ではスキー手袋のようなものでないと役にたたないからだ。これで南極にでもいけそうな重装備だが、雨対策ができればバイクほどべんりなものはないと思う。

座席下のスペースにはせいぜいヘルメットが入るだけのスペースしかないので雨具はボックスに収容することにした。大きな荷物はリュックにいれて背負う他ないだろうか?

バイクショップにiPhone用の冶具がたくさんある。ハンドルにiPhoneをナビがわりに装着できるようなホルダーを買ってしまったが、機種変更前の古いiPhoneはもう使えないことが分って、残念。でも新しいものにもフィットするかもしれない。

暖かくなったら一度こいつで旅に出たい。東京に行ってみたい!
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芸妓ひさ乃登場

2011年12月14日 | Weblog

■われら「ふたば会」の忘年会は先週の水曜にあわら温泉「つるや」であったのだが、週末までいろいろあったのでブログを書く時間がなかった。遅ればせながら、忘れる前に書いておこう。

「つるや」では芸妓さんたちが登場した。島田の鬘で現れた「ひさ乃」ちゃんはこの世界で有名人なのだ。あわら温泉で38年ぶりの舞妓復活、その後芸妓として活躍しているがまだ若い。舞妓と芸妓の区別も知らない僕にとっては始めての座敷。21歳で舞妓から芸妓になったんだそうだ。彼女のブログの別人のような写真では分らないが、けっこうボリュームのあるボディには和服がにあう。しっかりしたお母さんや、他の芸妓さんと一緒に座敷に出ている。

お母さんに、彼女とサルサを踊ってみたいと言ったら「あの子はどんくさいからやめとき、私の方がいいよ」と言われてお母さんと踊ったが、サルサのこと何も知らないのに華麗なステップで、、さすが~、、。

ひさ乃ちゃんの歌うイメージソング「あわらOneNightララバイ」を作った恒見コウヘイはジャパネットたかたのコマーシャルソングも作っているそうで、、そういえば「~あ・わ・ら~ あ・わ・ら~、、」というあたりは「~た・か・た~ た・か・た~、、」とにてるなあ~と思いながら2人でカラオケデュエット、、、。

芸妓さんてどうしてこう「じゃんけん」がめちゃ強いのか?練習するんだろうか?!、、イトーさんもたちまちパンツを脱がされて尻をだすはめに、、、。

たまにはこんなのも「ふたば会」らしいかもしれない。カラオケになれば小林さんはじめ玄人はだしの人もいるし、、最近入った人もうまいなあ~、、、ふたば会カラオケジュークボックスも充実してきた、、、。

「つるや」のような廊下も畳でぞうりやスリッパのない旅館というのも初体験だった。

翌朝、風呂にはいり、朝食後吉村君の車に乗せてもらって帰宅、そしてすぐ出勤!あぁ、、。

 



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忘年会シーズン到来

2011年12月11日 | Weblog

■宴会パーティが4つもダブってしまった。同窓会的なのはいいからドラムサークルの忘年会に出ることにした。この日も思いがけない人とのつながりが、、、。

ジョージの家に到着したのは僕が最初。次に「アップちゃんが」登場。彼女はバルーンパフォーマーでは食っていけないのでふだんOLをしてるが、小学校とか、イベント会場とかに出かけて活躍しているようだ。立派なHP「ピエロのあっぷちゃん」がある。その関係で土日のDCに出られないが明日は都合がついたので1度出てみたいと思っていたそうだ。

新婚でジャンベに夢中の安丸くんも来た。後であのハスキーな声のチャーミングな奥さんもやってきた。辻新さんも手作り料理持参で登場。彼女が印刷出版関係のデザイナーだったとは知らなかった。そして、どこかで会ったことのある僕と同年輩の2人連れ。そうだ、サカイ農園音楽祭に出演していたカホン奏者、といろんな笛をふくバイオリニスト、、。すげえおっさん達だなあ、と思ったあの人達だ。

ティンパニ奏者の「大吉餅」の森さんと本屋さんの中林さんだ。打楽器ならなんでもできる出来る森さんでもインドのタブラという太鼓だけはできないそうだとか、、。縦笛、横笛、、どんな笛でも吹けそうな中林さんが始めてバイオリンを始めたのは40歳の時だとか。それが今では先生だ。この2人、今はアイルランドの笛、太鼓に夢中。このティンホイッスルは「タイタニック」の主題歌にも使われている。持ってきた楽器を見せてくれた。

中林さんはジョージの持っていたベトナムの口琴を演奏してみてくれた。穴のあいた金属片を口にくわえて端を指ではじいて音をだす。息の出し入れでも音が出る。不思議な楽器だ。そして彼らの家は楽器でいっぱい。しょっちゅう小学校に呼ばれて音楽の時間に子供たちにいろんな楽器を体験させてさまざまな教育効果を発揮しているそうだ。ドラムサークルの精神療法的側面にも興味をもっていたようだ。

いきなり森さんに「英子さんのお兄さんですか?」と聞かれてびっくり。なんと小学校から高校までの同級生だとか、、狭い世間だぁ、、、。

素材研究技術者なのにいつの間にか太鼓に魅せられた男性、昔子供のころやっていたピアノを再び練習し始めた彼とかひととおり自己紹介が終わったころにすっかり打ち解けたムードになっていて佐々木先生をはじめ何人もの常連が風邪で休んで、初対面の人がたくさんいるにもかかわらず初めから気心が知れた仲間同士という雰囲気はDC例会と同じだ。ここにもいろんな人がいる。

もう今日も終わりかけているが、ルイスの主催する外国人留学生ダンスパーティーが2時までやっているはずだ。行って見よう。

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2つの殺人事件

2011年12月01日 | Weblog

 

■前川さんの再審決定がでた。布川事件の流れで言えば実質無罪が決まったといってもいい。あの事件の時の実況見分調書は熊谷謄写館でコピーしているので、うちの女性事務員がその凄惨な写真に我を忘れて検察庁職員に注意されたというような話を今でも覚えているので特に印象深い。事件直後から冤罪の動きがあったが、2審の逆転無罪と、最高裁判決によって25年の前川さんの人生が風化されてしまった。

真犯人が見つかったわけでない。証拠不十分だから無罪となるのだというこのケースだからこそ、正に憲法の人権保障の局面だった。弁護士の真の勝負は2審だともいわれるが、事実審である高裁で負けたということは弁護側の力不足だったというべきかもしれない。いまどきの検察不審、再審請求のながれなくして救済の望みはなかっただろう。

刑事事件記録のコピーを弁護士に独占的に提供する熊谷謄写館は検察と弁護側の緊張感を体感すべきポジションにあった。その後、数年して福井弁護士会に無償で事業を引き渡し、熊谷謄写館を廃業することになる(どうして俺はいつでも仲間に仕事をとられるはめになるんだろう、、)。それまで検察庁はうちを利用することもあったろうが、熊谷謄写館であるオヤジが死んでから弁護士会にも謄写館の存在価値を否定する会員が増えた。僕もそれは時代のながれだと感じていたが、再審事件で検察庁の証拠開示が論点になるような時代が来るという予感はなかった。謄写館の事業の根拠となっていたのは訴訟法規則で記録閲覧はできるが謄写(コピー)はできないという小さな検察優位性であったが、それが弁護士会の仕事となっている現状では既に意味はなくなっている。

事件の起こったあの地区が防犯上評判が悪いのはあの事件のせいなのか、それとも悪評高い地区だったからあんなデッチあげが起きたのか?両方だろうが、住民の不安感を排除するために事件解決を急ぐ警察・検察に対するプレッシャーと信頼感は当然の時代だったのだろう。関係者への誘導も自然だったのかもしれない。地域住民の意識がシンナー常用者や反社会的人格者を暴力団や犯罪者と同列に社会から排斥しようとするやりかたは日本の伝統的集団安全保障の構造と同じに見える。

福井で一番犯罪発生率の低い大野でコンビ二殺人事件が起きた。犯人は県外の住所不定。詳細は知らないが現在裁判員制度の下で論告が行われた。僕は以前は陪審員制度が日本に馴染むことはないだろうと思っていたが、僕たちの師でもあった故中村人知弁護士は昔から積極的に陪審制度を推進されていたことを思い出した。その裁判員制度の中でこちらの事件は審理されている。もし前川事件が裁判員制度の下で審理されていたら、どうだったろうか?。裁判員は事実と考えをちゃんと区別して判断できただろうか?

先日の大阪市長選挙で圧勝した橋下弁護士の「劇場型」といわれた選挙戦略は正に陪審制の中で弁論を展開するアメリカの弁護士の論法を彷彿とさせるようだ。僕に言わせるとこれは劇場型テロリズムの手法で、故意に相手のリアクションを誘発することでイニシアティブをとるという極めてアメリカ的な手法に思える。そんなやり方に慣れていない日本社会だから混乱もする。社会の色々な側面でアメリカナイズが進む、というより日本はいまだにアメリカ型民主主義に相当遅れをとっている、ということだろうか?

個人的には日本憲法の最もすばらしい点は平和憲法というより、詳細な刑事人権規定とそれに基づく刑事訴訟法規だと思うのだが、いまその真価が試されているように思うほど日本のなにかは遅れている。いや、日本人のなにかが遅れている。

 

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