土曜日は、はあとねっと輪っふるで過ごすことが多い。
今日も、ちょうどかわら版というミニコミ誌の発送作業などを。
はあとねっと輪っふるは、http://saitama-toyopet.net/です。
その合間に、上の本社会議室で行われている、埼玉障害者就業サポートセミナーを、会場内でのパン販売を手伝いながら少し話しを聞く。
そのパネルディスカッションの中で、いつもお世話になっているデイケアの方の、言葉が印象に残る。
自分の子どもは、重度といわれながらも、様々な社会の中で生活することで、少しずつ社会へ適応してきている。
でも大半の障害者の親は、養護学校のような分けられたルートを進んでいる間に、子どもに対してあきらめることをしてしまう。
それは、親の意志ではなくて、社会の方からやさしい言葉であきらめるように、させられているように思う、と。
私が聞いた言葉で書いているので、実際の発言とは異なりますが。
いわゆる様々に何かしら問題を抱えている人が、働くことは結構難しい。
それは、雇われるという既に確立された枠組みの中へ、入り込もうとするからのようにも思う。
この枠組みは経済成長時代から確立されたもので、ほとんどは成果をあげるものだけを想定して組まれていると思う。
成果を期待しないものを組入れた枠組みへ変わることは、相当な価値観の転換が必要に思う。
そもそも会社という枠組みの以前に、日常の社会が特定な方向の価値があるもの以外を排除する傾向が強い中では、まだまだ時間がかかる気がする。
ここ半世紀で、雇われることが標準の仕事形態になったように思うけど、収入を得るという原点を考えると、自分が持ってるモノやワザを売ることが本来な気がする。
収入というか仕事は、与えられるという感覚より、自分自身で生み出すものというトコにいないと、社会で消費されるだけの存在になりそうな気がする。