今日7月27日、相も変わらぬ、自分にしか解らない話ばかりをちりばめてみたが、週ののっけから私は何してるんだろう?とか、私って何者?という感じである。
往々にして月曜日は、眠れぬ日曜深夜の明日を迎えたくない、心の深淵をぶちまける時と化し、気が付くと週のうちで1番記事投稿数が多い時になる不思議な話。
日曜深夜夜話は、日頃なかなかまとまってアレコレ(と言っても話は毎度お馴染みパターンで、アレコレと大手振って言える自信はない)書くが、どこまでそれが伝わるかは、私は解らないし、伝えたい気持ち7、伝わらなくても良いか的な気持ちが3という何だか自分でもよく解らない事態が水面下であるものの、まー何か書いときゃなんとなかなるだろうという極めて、安易な考えの下で進んでいる面はある。何か書いとけばといっても、思いつき行き当たりばったりで毎度毎度全てがうまく行くはずもなく、話が膨らむ筈もなく、自己完結・自己満足で統べては終わり行くという話も以前した様に思える。
結局、何か具体的な物があって突き進んでいるのではなく、無作為で行き着く先に偶然いけたならなぁ…という他力本願もしっかりあり、ますます訳が自分でも解らない。
とはいえ、感じた何かを、たとえそれが毎度同じような切り口で捌いたとしても、自分の中から生まれた、どこにでもある様な物を形にしてみたくなる。
「言いたいことなどほんとうはなくて
でもそういうのってあった方が素敵に思えて…中略…こぼれた言葉に憧れて、追いつきたくて走り出した」
(篠原美也子『葉桜』2004年 より引用)
私ははたして、どれだけ、自分の中からこぼれた感情が入り交じった物に憧れやら誇りやらをもてたかは解らない。そのこぼれ出した言葉で動き出してはいるものの、そこに「自信」という2文字は生まれ無いままに居る。
画像は、葉陰に成ったソメイヨシノがつけた実であるが、今日7月27日、つまんない花の様な話を羅列したが、その成りの果ては必ず何等かの形で目に見えて来る。この葉に覆われて、人知れず成ったソメイヨシノの実が如く…。
往々にして月曜日は、眠れぬ日曜深夜の明日を迎えたくない、心の深淵をぶちまける時と化し、気が付くと週のうちで1番記事投稿数が多い時になる不思議な話。
日曜深夜夜話は、日頃なかなかまとまってアレコレ(と言っても話は毎度お馴染みパターンで、アレコレと大手振って言える自信はない)書くが、どこまでそれが伝わるかは、私は解らないし、伝えたい気持ち7、伝わらなくても良いか的な気持ちが3という何だか自分でもよく解らない事態が水面下であるものの、まー何か書いときゃなんとなかなるだろうという極めて、安易な考えの下で進んでいる面はある。何か書いとけばといっても、思いつき行き当たりばったりで毎度毎度全てがうまく行くはずもなく、話が膨らむ筈もなく、自己完結・自己満足で統べては終わり行くという話も以前した様に思える。
結局、何か具体的な物があって突き進んでいるのではなく、無作為で行き着く先に偶然いけたならなぁ…という他力本願もしっかりあり、ますます訳が自分でも解らない。
とはいえ、感じた何かを、たとえそれが毎度同じような切り口で捌いたとしても、自分の中から生まれた、どこにでもある様な物を形にしてみたくなる。
「言いたいことなどほんとうはなくて
でもそういうのってあった方が素敵に思えて…中略…こぼれた言葉に憧れて、追いつきたくて走り出した」
(篠原美也子『葉桜』2004年 より引用)
私ははたして、どれだけ、自分の中からこぼれた感情が入り交じった物に憧れやら誇りやらをもてたかは解らない。そのこぼれ出した言葉で動き出してはいるものの、そこに「自信」という2文字は生まれ無いままに居る。
画像は、葉陰に成ったソメイヨシノがつけた実であるが、今日7月27日、つまんない花の様な話を羅列したが、その成りの果ては必ず何等かの形で目に見えて来る。この葉に覆われて、人知れず成ったソメイヨシノの実が如く…。