あとがきを読むと、単行本は1998年に、第1回目の文庫は2000年に、そして今回の文庫が2005年である。従って最初にかかれてから7年を経過している。
しているのに色あせていない。
さて、この本は「自伝的ノンフィクション」とあるが、主にあのAV監督村西とおるの周りにいた著者が、村西とおるを見つめそして自分を振り返ったノンフィクションではあるが「物語」である。
あまり好みの表現ではないが「私小説」と言ってもいいのではないか。
村西とおるは膨張し拡大し続ける。
昔からこういう人間はいたと思う。
歴史的に言えば豊臣秀吉がそうであった。
膨張し拡大しなければ生きていく価値がないとおもっている。
そして最後ははじけてしまう。
また膨張し拡大する者は、何でも自分が関与していなければ気がすまない。だから誰かに任せることはできない。
任せることができないから「一代限り」なのだ。
村西とおるは「詭弁」としか思えないような言葉で周囲を圧倒し、失敗の中から這い上がり、成功する。
成功するというのは、膨張と拡大が継続されることである。そして膨張し拡大し続ける行く先は「金と権力」を手に入れることである。
村西は自らが作り上げた、或いは登りつめた組織内では完璧に独裁をつらぬく。
彼が部下もしくは自分より下であると認識したものに対しては、恫喝し鉄拳制裁を行う。そしてそういうなかで著者は、最初はべったりと裏本時代以降はつかず離れずで接し、傷ついていく。傷ついているけれど離れられない。離れられないのは「金」の魅力と村西の魅力なんだろう。
村西とおるの破天荒な生き方の陰で、著者恋をし睡眠薬におぼれ、目指していた左翼系のルポの仕事も失う。
でも、どこか醒めた眼で村西と自分を見ていたから、すんでのところでとどまることができたと思うのである。
私は村西とおるが特殊であるとは思わない。
特に、団塊の世代にはスケールの大小はあるものの、膨張し拡大することが「美」であると思っているが多いのではないだろうか。
また、彼らは口では民主主義を唱えるが、体に染み付いているのは江戸期以来の封建主義である。ただし自由社会の中であるから生まれついての封建主義ではなく、自らが膨張し拡大することによって得た「権力」から発生する封建主義なのである。
彼等が若い時分、すぐ下の世代である我々は大いに期待をしていた。彼らこそが日本を変えてくれる。息詰ったような、なんだか行き先が黒い雲で覆われているような、日本の空気を変えてくれる、と思っていた。
しかし、今思えば、彼らこそが黒い雲であった。
膨張や拡大は発展や明るい未来というような優しい言葉に置き換えられ、我々に伝えられた。それは、本書の中で村西とおるが語る、まさに「詭弁」としか思えないような理屈と同じである。
それでも、膨張し拡大する。という考え方は「バブル」を経て廃れていくかと思っていたら、どうしてどうして、マダマダしぶとく残っている。
人口が減少していく日本が、今後膨張し拡大なんかするものか、我々の価値観は別の方向に向うべきだ、と思う。
そんなことを考えながらこの本を読んでいたのであった。
また、この本にはそれ以外にもいわゆるAVの裏側、AV女優や男優たちの生き様を読むことができる。
こちら側から見れば「女優」たちに同情「男優」たちに気楽さを感じていたが、実は「女優」たちは、いとも簡単に「演技」(?)し男優たちはそれぞれに屈折した感情を持ちながら挑んでいるということである。
その屈折度が高ければ高いほど悲しくなっていくのである。
著者にはその辺のところも書いたものがあるらしい、機会があればまた出会いたいものである。
しているのに色あせていない。
さて、この本は「自伝的ノンフィクション」とあるが、主にあのAV監督村西とおるの周りにいた著者が、村西とおるを見つめそして自分を振り返ったノンフィクションではあるが「物語」である。
あまり好みの表現ではないが「私小説」と言ってもいいのではないか。
村西とおるは膨張し拡大し続ける。
昔からこういう人間はいたと思う。
歴史的に言えば豊臣秀吉がそうであった。
膨張し拡大しなければ生きていく価値がないとおもっている。
そして最後ははじけてしまう。
また膨張し拡大する者は、何でも自分が関与していなければ気がすまない。だから誰かに任せることはできない。
任せることができないから「一代限り」なのだ。
村西とおるは「詭弁」としか思えないような言葉で周囲を圧倒し、失敗の中から這い上がり、成功する。
成功するというのは、膨張と拡大が継続されることである。そして膨張し拡大し続ける行く先は「金と権力」を手に入れることである。
村西は自らが作り上げた、或いは登りつめた組織内では完璧に独裁をつらぬく。
彼が部下もしくは自分より下であると認識したものに対しては、恫喝し鉄拳制裁を行う。そしてそういうなかで著者は、最初はべったりと裏本時代以降はつかず離れずで接し、傷ついていく。傷ついているけれど離れられない。離れられないのは「金」の魅力と村西の魅力なんだろう。
村西とおるの破天荒な生き方の陰で、著者恋をし睡眠薬におぼれ、目指していた左翼系のルポの仕事も失う。
でも、どこか醒めた眼で村西と自分を見ていたから、すんでのところでとどまることができたと思うのである。
私は村西とおるが特殊であるとは思わない。
特に、団塊の世代にはスケールの大小はあるものの、膨張し拡大することが「美」であると思っているが多いのではないだろうか。
また、彼らは口では民主主義を唱えるが、体に染み付いているのは江戸期以来の封建主義である。ただし自由社会の中であるから生まれついての封建主義ではなく、自らが膨張し拡大することによって得た「権力」から発生する封建主義なのである。
彼等が若い時分、すぐ下の世代である我々は大いに期待をしていた。彼らこそが日本を変えてくれる。息詰ったような、なんだか行き先が黒い雲で覆われているような、日本の空気を変えてくれる、と思っていた。
しかし、今思えば、彼らこそが黒い雲であった。
膨張や拡大は発展や明るい未来というような優しい言葉に置き換えられ、我々に伝えられた。それは、本書の中で村西とおるが語る、まさに「詭弁」としか思えないような理屈と同じである。
それでも、膨張し拡大する。という考え方は「バブル」を経て廃れていくかと思っていたら、どうしてどうして、マダマダしぶとく残っている。
人口が減少していく日本が、今後膨張し拡大なんかするものか、我々の価値観は別の方向に向うべきだ、と思う。
そんなことを考えながらこの本を読んでいたのであった。
また、この本にはそれ以外にもいわゆるAVの裏側、AV女優や男優たちの生き様を読むことができる。
こちら側から見れば「女優」たちに同情「男優」たちに気楽さを感じていたが、実は「女優」たちは、いとも簡単に「演技」(?)し男優たちはそれぞれに屈折した感情を持ちながら挑んでいるということである。
その屈折度が高ければ高いほど悲しくなっていくのである。
著者にはその辺のところも書いたものがあるらしい、機会があればまた出会いたいものである。