日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

2月26日の説教

2023-03-04 12:20:48 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年2月26日(日)
四旬節第1主日
創世記2:15~17,3:1~7、ロマ5:12~19,マタイ4:1~11
「人はパンのみにて」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 2月21日付けのキリスト新聞は次のように報じていました。「世界各地のルーテル教会の共同体であるルーテル世界連盟は、トルコ・シリアの壊滅的な大地震が発生した直後、支援金の寄付を呼びかけるとともに、現地パートナーであるカリタス・シリアと協力して救援活動を行うことになった。日本福音ルーテル教会は、この活動を支援するため、差し当たって災害支援基金より100万円を送金。さらに支援を続けるために個々の教会にも寄付を呼びかけている」。なお、二日市教会も募金箱を受付に用意しましたのでよろしくお願いします。

 さて、本日の聖書朗読は、最初の二つが創世記とローマの信徒への手紙でした。この両者にはアダムという言葉が出てくる共通点がありました。創世記は、アダムが蛇の誘惑に負けたこと、ローマ書は、そのアダムから人類の罪が始まったことを書いていました。私たちにも大いに関係があることが書かれていたと言う感じでした。
 ところが、三番目のマタイ福音書の4章「誘惑を受ける」ちょっと違う感じがしました。なぜなら、その話の誘惑の対象は神の子だったからです。この話には、イエスが受けた三つの誘惑が出ていますが、それは自分にも関係がありそうと思い込む人もいます。けれども、それはありえません。なぜなら、私たちは神の子でもキリストでもないからです。
たとえば最初の「石をパンに変えよ」がそうです。なお、イエスの三つの誘惑の話は、悪魔に都合がよいことは何かを知る機会になります。それを念頭に見ると、どこにでもある石ころをパンに変えて民衆に投げ与えたら、彼らは感激してお前について来るだろうという誘惑でした。リーダーに盲目的に従う民衆こそが、悪魔のつけ目だからです。
しかしイエスは「人はパンだけで生きるものではない」で反論しました。人間を真の意味で生かすのは食物ではない、神の言葉だからだ。神への徹底的な信頼を訴えるのがイエスでした。
さて第二の誘惑を悪魔は巧妙に仕掛けました。お前が神への徹底的信頼を言うのなら、その信頼でここから飛び降りて見よと言ったからです。さらに、飛び降りに成功したらお前の名声は全国に広まり、人はお前を奇跡の聖者としてあがめるであろうと囁きました。奇跡を自分の名声のために利用せよという誘惑でした。
最後は非常に露骨な誘惑でした。悪に屈すれば全世界はお前のものになる。悪の力はしたたかであるから、神の名のもと世界を統一する際も、悪の力を利用しない手はないだろうという誘惑でした。
このようにイエスの誘惑は、神の子だからこその悪魔の誘惑でした。それを眺めながら自分は関係ないさと傍観してよいのかと問えば、そうでもなさそうだということを考えてみたいと思います。
 さて、関係ないとは言えない言ったのは、ドストエフスキーでした。小説『カラマゾフの兄弟』でそう書いたからです。なお、小説は分厚いので全部読むのは大変。その中の「大審問官」という章だけ読めば分かると思います。
「大審問官」の背景は中世スペインです。スペインはずっとカトリックですが、大昔異端審問という残酷なことを教会自身がやっていました。その裁判の統括者が大審問官で、大審問官は善男善女である信徒たちの信仰生活にも立ち入っていました。
さて、話はセビーリヤの町で、ある日よそ者がやってきました。すると人々はすぐ、あれはキリストだと気づき、群衆が押し寄せ、大歓声が沸き上がります。するとそこを大審問官が通りかかり、彼もキリストだと気付き、逮捕させました。すると群衆は態度を変え、大審問官にひざまづいたのでした。
このあとキリストは大審問官の尋問を受けます。大審問官は言います。「お前は今さら何をしに来た。我々の邪魔をしないでくれ。お前の役目は終わっているのだ。お前には今さら、教会を改革する権利はない」。さらに大審問官はマタイ福音書の三つの誘惑を取り上げました。
それからキリストに、お前は人間の本性が分かっていないと言います。なぜなら、悪魔になびくのが人間の本性なのに、お前はその本性から人間を解放して自由にすると約束した。だがその自由こそ、人間を途方に暮れさせることをお前は知らなかった。なぜなら、人間は自身で善悪を判断するのは大変な重荷なので、ただひれ伏して権威に盲従したいのが人間の願望だったからだ。
 つまり、大審問官の教会はキリストなきあと、キリストが人間に負わせようとした自由を取り上げ、人々が本性のおもむくまま幸せを満喫できるようにしてきた。それなのに、お前はそれへの反逆を呼びかけるように現れた。だが、もう遅い。用はない。今すぐ立ち去れ。
大審問官が長い説教を終えると、キリストは大審問官に静かに接吻をして町を立ち去った。以上が大審問官の話です。奇妙で、しかし印象深いこの話は、多くの人々にたくさんのことを考えさせてきました。特に、「宗教とは何か」の問題にぶち当たった時人は、「カラマゾフの兄弟」を読みました。ただ、聖書のことやキリスト教のことをほとんど知らない人にはかなり難解な小説ではなかったかと思うのであります。
それはともかく、神の力を自分の都合のために利用してはならないというイエスの言葉は、神の子ではない私たちにも無関係ではないという思いにさせられます。
 ところでイエスは、悪魔に服従する道でなく、受難と死という神の意志に服従する道を選びました。その選択が、自分の人生とどうかかわるのか、それを考えることも、また私たちの生きる道ではないかと思うのであります。
コメント
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