日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

5月26日

2024-05-22 14:20:47 | 日記
使徒言行録2:1~21、ローマ8:22~27、ヨハネ7:53~8:11
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二日市教会主日礼拝説教 2024年5月19日(日)

「イエスと女性たち―その4」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 キリスト教の祝福の言葉に、「聖霊の親しき交わりがあるように」というのがあります。聖霊は親しい交わりを生み出すと考えられているからです。本日の聖霊降臨日もそのような聖霊が降り注いだ出来事が記念されています。

さて私たちは、聖書に記されるイエスと出会った女たちのことを考えています。今回は、ヨハネ福音書にある姦淫の女の話を考えたいと思います。
 ところで、この話はいま見たようにヨハネ7章の53節から8章11節までです。なおこれは、西欧の美術でもしばしば取り上げられました。そしてそのような絵に登場するのは、イエスと女、それに聖書出てきた民衆や律法学者、ファリサイ派の人間です。ただ、この話を一枚の絵に納めるには無理があると感じられます。なぜなら、話のイエスは、最初立っていますが、途中でかがみこみ何かを書いています。しかしまた立ち上がり「自分に罪がないと思う者だけ女に石を投げよ」と言います。言い終るとまたかがみ込んで再び何かを書いた。 つまり、立っているイエスとしゃがんだイエスの二とおりがあって、画家はどちらかを選んだはずなのです。そういうことも頭に入れて絵を見るのも面白いかもしれません。

 なお、鑑賞のポイントはもうひとつあります。聖書ではイエスはかがみ込んで、指で何かを書きましたから、人々の足もとの状態もチェックが必要になると思うからです。たとえば、レンブラントの『姦淫の女』の絵を見ると、イエスや女がいる場所は、大理石とかの石で舗装されています。ところが、プッサンという画家の『姦淫の女とイエス』の場合、場所は土の上、地面です。そこにイエスが指で書いた文字があって、それを何人もの人がのぞいて読んでいるという構図です。この違いを興味深く見る人は、間違いなく聖書を読んでいる人なのです。
 なお、聖書を前の7章から読めば分かるのですが、話の舞台はエルサレム神殿の境内です。神殿は荘厳な建造物で、無数の大理石が使用されていました。その意味ではレンブラントは大理石でしたが、神殿に中庭があったことを知っていたプッサンは舞台に中庭に設定し、そこは舗装されてないと見なし、土が見える絵にしたのでした。結果プッサンはレンブラントより聖書に忠実な絵が描けたのでした。

 ところで、イエスは土の上に指で何と書いていたのか、誰もが関心を抱くことです。しかし、聖書はそれをまったく教えようとしません。多くの聖書学者たちがその解明に努力してきたし、今も努力しています。
その中で、ケネス・ベイリーというアメリカの聖書学者がいて、こんなことを書いています。イエスが書いていたのは律法つまり聖書の言葉であろう。ところで、イエスが書いたのは、学者や宗教家が、女は律法の規定どおり死刑にすべきと叫んだ時だった。ゆえに、イエスが書いたのは、死刑に関する律法の条文だったと考えられる。さて、女は姦通罪だった。律法の規定では姦通罪は死刑だった。聖書でどう言われているかが誰にもわかるよう、イエスはそれを土の上に自分の指で大書きしたのであろう。それによると、やはり死刑だった。このケースで律法に忠実であることは、死刑を執行することであった。従ってイエスは、死刑反対論を主張しようとしたのでは、まったくないのである。ただし、それには厳しい条件もあった。それは、律法に書かれたことを実行する者は、自分自身が律法に照らして正真正銘潔白であらねばならないということだった。

さてこのあとイエスは、お偉方たちに「あなたたちの中で罪を犯したことがない者がこの女に石を投げなさい」と言いました。注意したいことは、彼は決して「石を投げるな」とは言わなかったことです。しかし、「投げなさい」と言われたのに、投げた者は誰もいなかったのでした。

それでは、イエスが土の上に書いたと思われる律法の条文を眺めてみたいと思います。旧約のレビ記の20章10節です。お手元の聖書の194頁上の段の第10節のことですが、こうなっています。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は、姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」。そのとおり、男も女もなのでした。しかしイエスの前にいるのは女だけでした。彼等は、男はこっそり見逃していたのだった。たとえそれが当時の社会通念であっても、イエスは許さなかった。男をお咎めなしとした彼らは、イエスの目には重大な律法違反を犯していたのでした。しかし、女だけを逮捕したのは、律法の専門家と呼ばれる人間たちだった。律法違反は数ある罪の中でも最大の罪のはずでした。そこでイエスは、罪を犯していない者が石を投げよ、と言った。だが、誰一人石は投げませんでした。

ところでイエスは、女に「あなたの罪は赦された」とは言っていません。彼が言ったのは「もう罪を犯してはならない」だったからです。家庭持ちの男と家庭持ちの女が交わす姦通は、双方の家庭を悲惨な結果に陥らせる許しがたい罪であるととらえていたのがイエスだったからです。この物語は、出会った女性たちの中でイエスがもっとも厳しい言葉を投げかけた事例なのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 5月26日 三位一体主日
説教題:イエスと女性たちーその5
説教者:白髭義 牧師 
コメント
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