アモス5:6~7,10∼15、 ヘブライ4:12~16 ルカ15:8~10
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二日市教会主日礼拝説教 2024年10月13日(日)
「失われた銀貨」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
これまで、イエスのたとえ話を考えてきましたが、本日はルカ15章の「無くした銀貨」のたとえ話を考えたいと思います。
さてめずらしいことに、このたとえ主人公は一人の女性です。彼女は、持っていた10枚の銀貨の内1枚を無くしたので、部屋を必死になって探しました。その結果見つかったので、近所の人や友達を招いてお祝いをしたという話でした。
ところで、このたとえ話の前と後にはあと二つのたとえ話があります。前が「見失った羊」で、あとは「放蕩息子」ですが、この三つには共通点が認められます。それは、「見失った」「無くした」「死んでいた」という言葉が出てくるように、人間は失われたも同然の存在なので、神に見い出されることで救われるのだという考えで共通しているからです。
なお私たちが考えたい「無くした銀貨」は特に前の「見失った羊」とよく似ています。見つけ出すのは羊飼いと女性という違いはありますが、真剣になって探したこと、見つかってお祝いをしたという点は同じだからです。
このように、無くした銀貨は見失った羊の直後にあって話が似通っていたせいか、見失った羊ほどは大事にされない傾向がありました。それに「見失った羊」の話がとても印象的だったので、次の「無くした銀貨」は簡単に軽く読まれるか、あるいは読まれないで素通りされる傾向もありました。
さて、その結果どういうことが起きたかというと、一番目の「見失った羊」の羊飼いと三番目の放蕩息子の父親のことはすごく心に残るのですが、銀貨をさがした女性のことはそれほど印象深くはないままに終わっていたのでした。そしてさらに、たとえ話を聞いた人は、一番目の羊飼いと三番目の父親から神をイメージすることができたのですが、二番目の女性から神をイメージするのは困難だったということがあったと思われるのです。
そして、その女性は神ではないのでということから、教会はこれを、ぼんやりしてるから無くした貨幣は大した額ではないのに大騒ぎして探すみっともない女のたとえ話のように説明するようになったのでした。いずれにしても、長い時代にわたって無視同然の扱いを受けて来た「無くした銀貨」だったのですが、最近になって風向きが変わってきたのでした。
それは、この女性を神のイメージでとらえる人が増え始めているということです。もっとも、神を女性のイメージで語るというのは、聖書の伝統にも見られるもので、たとえば旧約のイザヤ書ですが、42章の13には神の言葉として「私は陣痛の女のように叫ぶ」というのがあり、66章の10以下には「母が子を慰めるように私はあなたを慰めよう」というのが、また「巡礼者は母エルサレムの乳房から呑み、膝の上であやされる幼子だ」という言葉もあるほどです。
しかし、そのような聖書の伝統にもかかわらず、銀貨の持ち主の女が神のイメージに結びつかないのは、彼女があまりにもありふれた庶民の一人のように語られたからかも知れません。
けれどもそのことよりも、今見た聖書の伝統を無視するかのように、キリスト教が、神のイメージを女性で語ることを敬遠してきたため、キリスト教徒もこのたとえの女性に神を見ることが思い及ばなくなっていたこともあるのでした。
さて、それはさておきますが、ここであらためて見失った羊、無くした銀貨、放蕩息子の三つを並べてみれば、無くした銀貨だけの特殊性が見えてくるかと思われます。なお、見失った羊と放蕩息子の話の最大のテーマは悔い改めです。ただ迷い出た羊にしても見知らぬ土地をさまよう息子にしても、それを見ている立場の者としては、そのふらふらした姿に神の確かな救いを確かめることはまだ出来ません。したがって、間違いなく見つかり悔い改めに導かれるという確信は持てないのです。
ところが、銀貨の場合は話が違ってきます。これはワンルーム・マンションのような狭い空間の中だけで起きる話なので、誰だって念入りに探せば間違いなく見つかる銀貨の話だからです。もちろん、銀貨は死んだり生き返ったりしないし、悔い改めることもしません。また探す側の人間も、必ずこの部屋にあるという確信だけはゆらぐことがありません。
つまり、この三つを、神による救いのたとえ話という観点でとらえるなら、二番目こそがダントツに目立ってくるのです。というのも人はよく、わたしは迷える羊なのかもとか、オレの人生は放蕩息子そのものと言ったりしがちですが、その言葉を口にする時の心には救いの確信はおとずれてないと思われます。
もちろん、わたしは失われた銀貨よと言う人は一人もいません。銀貨は主人公にはなれないからで、スポットライトは最初から最後までこの女性に当てられ続けているたとえ話なのです。つまり、この話の女性は、失われても必ず見つけ出す神というイメージで登場していたキャラクターなのです。
以上のように、見失った羊・無くした銀貨・放蕩息子の三つはワンセットであり、それぞれの角度から神の救いを説明しているのです。そして、羊や息子がともすれば心もとないという印象を抱かせるのに対して、銀貨の話は、人々を神の救いという港に導き、確かな錨を降ろさせる役割を引き受けているのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)
次週 10月20日 聖霊降臨後第22主日
説教題:放蕩息子のたとえ ①
説教者:白髭義 牧師
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二日市教会主日礼拝説教 2024年10月13日(日)
「失われた銀貨」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
これまで、イエスのたとえ話を考えてきましたが、本日はルカ15章の「無くした銀貨」のたとえ話を考えたいと思います。
さてめずらしいことに、このたとえ主人公は一人の女性です。彼女は、持っていた10枚の銀貨の内1枚を無くしたので、部屋を必死になって探しました。その結果見つかったので、近所の人や友達を招いてお祝いをしたという話でした。
ところで、このたとえ話の前と後にはあと二つのたとえ話があります。前が「見失った羊」で、あとは「放蕩息子」ですが、この三つには共通点が認められます。それは、「見失った」「無くした」「死んでいた」という言葉が出てくるように、人間は失われたも同然の存在なので、神に見い出されることで救われるのだという考えで共通しているからです。
なお私たちが考えたい「無くした銀貨」は特に前の「見失った羊」とよく似ています。見つけ出すのは羊飼いと女性という違いはありますが、真剣になって探したこと、見つかってお祝いをしたという点は同じだからです。
このように、無くした銀貨は見失った羊の直後にあって話が似通っていたせいか、見失った羊ほどは大事にされない傾向がありました。それに「見失った羊」の話がとても印象的だったので、次の「無くした銀貨」は簡単に軽く読まれるか、あるいは読まれないで素通りされる傾向もありました。
さて、その結果どういうことが起きたかというと、一番目の「見失った羊」の羊飼いと三番目の放蕩息子の父親のことはすごく心に残るのですが、銀貨をさがした女性のことはそれほど印象深くはないままに終わっていたのでした。そしてさらに、たとえ話を聞いた人は、一番目の羊飼いと三番目の父親から神をイメージすることができたのですが、二番目の女性から神をイメージするのは困難だったということがあったと思われるのです。
そして、その女性は神ではないのでということから、教会はこれを、ぼんやりしてるから無くした貨幣は大した額ではないのに大騒ぎして探すみっともない女のたとえ話のように説明するようになったのでした。いずれにしても、長い時代にわたって無視同然の扱いを受けて来た「無くした銀貨」だったのですが、最近になって風向きが変わってきたのでした。
それは、この女性を神のイメージでとらえる人が増え始めているということです。もっとも、神を女性のイメージで語るというのは、聖書の伝統にも見られるもので、たとえば旧約のイザヤ書ですが、42章の13には神の言葉として「私は陣痛の女のように叫ぶ」というのがあり、66章の10以下には「母が子を慰めるように私はあなたを慰めよう」というのが、また「巡礼者は母エルサレムの乳房から呑み、膝の上であやされる幼子だ」という言葉もあるほどです。
しかし、そのような聖書の伝統にもかかわらず、銀貨の持ち主の女が神のイメージに結びつかないのは、彼女があまりにもありふれた庶民の一人のように語られたからかも知れません。
けれどもそのことよりも、今見た聖書の伝統を無視するかのように、キリスト教が、神のイメージを女性で語ることを敬遠してきたため、キリスト教徒もこのたとえの女性に神を見ることが思い及ばなくなっていたこともあるのでした。
さて、それはさておきますが、ここであらためて見失った羊、無くした銀貨、放蕩息子の三つを並べてみれば、無くした銀貨だけの特殊性が見えてくるかと思われます。なお、見失った羊と放蕩息子の話の最大のテーマは悔い改めです。ただ迷い出た羊にしても見知らぬ土地をさまよう息子にしても、それを見ている立場の者としては、そのふらふらした姿に神の確かな救いを確かめることはまだ出来ません。したがって、間違いなく見つかり悔い改めに導かれるという確信は持てないのです。
ところが、銀貨の場合は話が違ってきます。これはワンルーム・マンションのような狭い空間の中だけで起きる話なので、誰だって念入りに探せば間違いなく見つかる銀貨の話だからです。もちろん、銀貨は死んだり生き返ったりしないし、悔い改めることもしません。また探す側の人間も、必ずこの部屋にあるという確信だけはゆらぐことがありません。
つまり、この三つを、神による救いのたとえ話という観点でとらえるなら、二番目こそがダントツに目立ってくるのです。というのも人はよく、わたしは迷える羊なのかもとか、オレの人生は放蕩息子そのものと言ったりしがちですが、その言葉を口にする時の心には救いの確信はおとずれてないと思われます。
もちろん、わたしは失われた銀貨よと言う人は一人もいません。銀貨は主人公にはなれないからで、スポットライトは最初から最後までこの女性に当てられ続けているたとえ話なのです。つまり、この話の女性は、失われても必ず見つけ出す神というイメージで登場していたキャラクターなのです。
以上のように、見失った羊・無くした銀貨・放蕩息子の三つはワンセットであり、それぞれの角度から神の救いを説明しているのです。そして、羊や息子がともすれば心もとないという印象を抱かせるのに対して、銀貨の話は、人々を神の救いという港に導き、確かな錨を降ろさせる役割を引き受けているのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)
次週 10月20日 聖霊降臨後第22主日
説教題:放蕩息子のたとえ ①
説教者:白髭義 牧師