日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

ゆるしについて

2024-09-07 10:40:55 | ブログ
聖霊降臨後第15主日
エゼキエル33:7~11,ロマ13;8~14、マタイ5:38~48
主の祈り/ゆるしについて
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 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがた一堂にありますように

わたしたちは現在、主の祈りのことを考えています。先週は「罪について」を考えましたが、本日は「ゆるしについて」という題で考えます。
 ところで、最新号の『るうてる9月号』には、大阪の秋山牧師が「人を赦すこと」という説教を書いています。それによると、人が自分で犯した罪を罪としてなかなか認めようとしないのは、相手に対する優越感を保ちたいからである。だがそのままにしておいたら、その人の人生は怒りや恨みに支配されたままになるであろうということでした。

 ところで、本日は観点を変えて、幼い子どもたちの世界では「ゆるし」はどうなっているのかを考えてみたいと思います。その子たちは、大人から「あやまりなさい」と言われて初めて「ごめんんなさい」が言えるようになるのか。この問題を、『キリスト教保育』という雑誌の記事から、さぐってみることにしたいと思います。
そこで最初は、関西学院大学の先生で幼児教育が専門の橋本祐子さんが書いているものを読みます。こんな事例を紹介していました。ある園の4歳児のクラスで起きた出来事です。ある朝の自由時間、泣いているA子とそばで何かを訴えようとしているB子がいました。先生が聞いてみると、A子は積み木で何かを作ろうとしていたが、足りないものがあってそれを取りに行っている隙にB子が来て、その積み木で遊び始めた。戻ってきたA子は、自分のものが壊されたと知って泣いていたのでした。

 担任の先生はこの問題に介入しないと心に決めました。すると、A子もB子も、床に座ったまま、何も言わずに見つめ合っていました。どちらもそこを動こうとしません。しばらくすると、B子がA子のひざの上に手を置きました。けれどもA子は無言でB子の顔を見つめています。まったく言葉はありませんでした。しかし、このとき2人の間には何かが通い始めているようでした。するとそこにC子が現れ、「何してんの?」という感じで二人をおちょくり始めました。二人はたまらず「ぷーっ」と吹き出した。そのあと3人で仲良く遊び始めたのだった。

 橋本先生は書いています。この子たちの口から「ごめんなさい」はなかった。けれども、子どもたちの世界では、「こめんなさい」抜きで もめごとが収まるケースはかなり多いのである。ところが大人が「ごめんなさい」を言わせたら、子どもは従うであろう。だが以後子どもは、不誠実な行動の選ぶ人間となってゆくであろう。
 次は、東京の霊南坂教会付属幼稚園のレポートです。長い夏休みも終わって、二学期が始まった9月のこと。年中クラスに健ちゃんという男の子がいました。健ちゃんは年少のときから、自分の失敗をどう受け止めどう向き合うかに関してかなり問題がありました。してはならないことをした時、ぼくはやってないと言い張るのが彼だったからです。
ある日健ちゃんは砂場で遊んでいました。園庭には子どもが上に登る遊具があり、彼の目はそれに目が行ってしまいます。そこで、シャベルを手にしたまま遊具に登ってしまいました。しかし園の約束事では、登る時は手に何も持たないことになっていました。でも年少の子たちはなかなか守れません。ところが、年中以上になるとほとんどの子が守れるようになっていました。ところが健ちゃんは年中なのに守らなかったのでした。
すると、それを見た先生が、「シャベルを持ったまま遊具には登らないのよね。一度それを片づけてらっしゃい」と言いました。ところがその先生が目を離した隙に、健ちゃんはシャベルを上から落としたのでした。そして自分も降りたかと思うと、シャベルには見向きもしないでお部屋に入ろうとしました。すると別の先生が見ていて、彼にかなりきつく注意したので、健ちゃんは泣き出し、泣きながらシャベルをもとに戻したあと、お部屋に入ってゆきました。

お部屋では年長のゆうたとえいじが遊んでいました。彼らが見ると、健ちゃんは泣いていました。わけをきくと「先生にしかられた」。そこでえいじが先生のところに行き、叱った理由を聞いた。聞き終わって戻って来ると、それをゆうたにも話した。それから二人は健ちゃんと向かい合い言った。「遊具に登る時は何か手に持ってたらいけないんだよね。落としたら下にいる子に当たってけがをさせるからね」。ところが、健ちゃんは黙ったままだった。するとゆうたが言った。「間違いは誰にもあるよ。ぼくも間違えるし、先生だって間違えるんだ。でもそんな時は、ごめんなさいって言えば大丈夫になるんだよ」。でも健ちゃんは、なおも黙っていた。ゆうたは再び言った。「先生にごめんなさいをしておいでよ」。けれども健ちゃんはためらっていた。そこで二人はこう言った。「一緒に行ってあげようか」。すると健ちゃんは細い声で「うん」と言った。
そこで3人は歩き出しました。するとゆうたが一足先に先生の所に行き「先生、ちょっと来て」と声をかけた。「えっ、どうしたの」「あのね、健ちゃんが謝りたいんだって」。「わかりました」。そこに、えいじに手をつながれた健ちゃんが現れた。こうして健ちゃんは、ついに謝ることが出来ました。先生が見ると、その時えいじはけんちゃんの手を思い切り強く握りしめていました。その心細さをよく察しているかのごとく。

ところで、聖書の世界では、人々は挨拶する際、シャロームという言葉を交わしました。このシャロームは、子どもたちの世界ではもっと広い意味で用いられていました。たとえば駆けっこで走って転んだ子が起き上がって最後まで走った時は「よくやった」の意味でシャロームの声がかかりました。あるいは、嫌いな野菜をついに食べた子どもには、母親がシャロームと言ってほめました。熱を出していた子どもが治った時は、家族一同でシャローム。そして、子ども同士でもめごとがあって、そのあと仲直りをする時、日本の子どもなら「ごめんね」と言い合うのと同じように、シャローム、シャロームと言い合いました。ゆるす、ゆるされる の関係もシャロームなのでした。
さて最後になりますが、神奈川県の鵠(くげ)沼(ぬま)ルーテル幼稚園の事例です。年長の子どもたちが、外遊びを終えてお片付けを初めていました。そして、おもちゃなどを洗うため、たらいに水が張られました。するとそこに年少の子が現れて、いきなりザブンと飛び込んで、ジャブジャブ水遊びを始めました。全員あっけにとられましたが、注意する子も、やかましく言う子もいませんでした。あたかも、自分だってこんなに水が張られていたら飛び込みたいに決まっているという思いでいるかのように、笑いながら見つめていました。するとその子は、見られていることなどおかまいなく、マイペースで楽しむと、さっと立ち上がってたらいから出て、どこかに行ってしまったのでした。この園は、こういうことが日常茶飯事で、こんな感じでも ほとんどうまくまわるのでした。
以上見たように、子どもの世界のゆるしは、自然体で行われてゆきます。この世界では、「わたしはあの人がゆるせない」という声は、聞くことが出来ないのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師白髭義) 

白髭牧師、退院後の回復が遅く以前のものを代議員さんが代読する。


次週 9月8日 聖霊降臨後第16主日
説教題:種を蒔く人
説教者:白髭義 牧師

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