工作台の休日

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あの日、俺たちは佐藤琢磨の初優勝を願っていた BAR006と2004年のF1シーズン

2024年10月12日 | 自動車、モータースポーツ

 今日からしばらくジオラマの話は横に置き、別のネタになりますがご了承ください。

 いつもならこの時期はF1日本GPのお話を書いているわけですが、ご存じのとおり日本GPは今年から春開催となりました。今日はちょうど20年前の2004年シーズンに活躍したマシンとドライバーの話です。

 三栄のGPCar Storyが夏にBAR006というマシンを特集しました。こちらはホンダ第3期にホンダエンジンを積んで好走したマシンです。BARというのは「ブリティッシュ・アメリカン・レーシング」のことでラッキーストライクや「555」といったタバコでおなじみの「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ」がスポンサーとなり、当初はジャック・ビルヌーブ(1997年年間王者)のためのチームでした。ホンダの第三期参入の際では、こちらとジョーダン・チームと組んでおりましたが、2003年時点ではジョーダンとのジョイントは外れ、ホンダがエンジン供給をBARに一本化しています。

 ドライバーはジェンソン・バトンと佐藤琢磨でした。琢磨は2002年にジョーダンでデビュー、2003年は「浪人中」でしたが、最終戦からビルヌーブの代わりにBARに加入、日本GPで6位に入る活躍をしています。バトンは20歳で鳴り物入りのデビューから5年目でしたが、この時点では表彰台に上がることはありませんでした。

 果たしてBAR006ですが、開幕前からなかなかの好調ぶりが伝えられ、シーズン入りしてその実力が証明されます。シーズン序盤のマレーシアを皮切りにバトンが10回の表彰台、佐藤琢磨も9度の入賞、そのうち1回はアメリカGPでの3位表彰台ということで、優勝こそありませんでしたがバトンはランキング3位、佐藤琢磨は8位で、コンストラクターズでも2位ということで、フェラーリ(シューマッハが18戦13勝と圧倒しました)に次ぐ成績で締めくくりました。

 本書ではいつものように、ドライバー、チーム関係者らの証言から、このマシンを紐解いています。バトンは「優勝できてもおかしくないくらいのマシン」と評していますし、佐藤琢磨にとってもリタイアが多いとは言え(しかもエンジンが理由と言うことがバトンよりも多く、ファンはそのたびに落胆したものです)、勝利を狙える位置でのレースはやはり充実したものだったことがうかがえます。マシンが良くなった理由に、空力面などの車体開発、エンジンの改良、ミシュランタイヤへの変更など、さまざまな要因が上手く重なったことが挙げられます。確かに車体は奇をてらわず、オーソドックスなつくりではありますが、見えないところでの工夫も随分となされていたようです。また、ミシュランへの変更については、ブリヂストンが事実上フェラーリの「ワークス」だったこともあり、このままでは勝てない、という思いがあったようです。個人的には「オールジャパン・パッケージ」に憧れたのですが・・・。テストドライバーりアンソニー・デビッドソンもミシュランとのマッチングの良さを挙げています。

 ジェンソン・バトンに対しては「俺が俺が」というタイプのドライバーではないところがあったとは言いますし、この時点ではタイヤの「使い方」は後にタイトルを獲ったアロンソなどに比べると上手ではなかった、という声もあります。しかし、バトンにとってはキャリア初の表彰台から表彰台の常連へあっという間、ということで大きな飛躍の1年となりました。ただ、このチームで優勝するのは2006年まで待つことになりますし、さらにタイトルを獲るのは2009年のことになります。

 佐藤琢磨のエンジンばかりが壊れる、というのは、ホンダのスタッフのインタビューなどではシフトアップ、シフトダウンでエンジンに悪影響を与える「魔の共振域」があり、その回転数でエンジンをホールドすると壊れてしまうということで、琢磨がその回転数を使うことが原因だったのでは、という分析もあるようですが、明確な答えにはなっていないようです。それでも、ニュルブルクリンクでは予選2位、インディアナポリスでは予選3位、決勝3位ということで、それ以外にも予選でトップ10以内が当たり前になっていましたので「今日はもしかしたら勝つかも」とか「今日はだめだったけど次はきっと」という期待を抱かせてくれるのでした。1994年の片山右京もそんな場面がありましたが、それ以上に表彰台、優勝が「夢ではない」と思わせてくれたのでした。日本人が表彰台に立ったのが1990年日本GPの鈴木亜久里以来ということで、日本GP以外での日本人の表彰台というのも2024年10月時点では唯一となっています。佐藤琢磨が表彰台に立ったインディアナポリスですが、琢磨が後にインディカーに参戦して二度の優勝を遂げたインディ500のコースの一部を拝借し、インフィールドにコーナーを配したつくりとなっていましたので、あまり高低差はありませんでした。それにしてもインディアナポリスと縁があるようですね。

 このシーズンを振り返ると、改めて「ジャパン・パワー」が何らかの形でサーキットにあふれていた時代だな、と思いました。ホンダだけでなく、トヨタはコンストラクターとして参戦していますし、ルノーはマイルドセブンの水色をまとっていました。タイヤにはブリヂストンがミシュランと「もう一つのバトル」を繰り広げていました。また、本書で興味深かったのは、ホンダのエンジニア、メカニックの中にその後も何らかの形でF1に関わっている人が多いことで、第4期で苦労の末、レッドブルと共に頂点に立った田辺豊治氏をはじめ、ハースの現代表・小松礼雄氏も当時はこのチームに関わっていました。

 その後のBARとホンダの関係ですが、最終的にホンダがBARのチームの株式を取得して、オール・ホンダが1968年以来誕生しました。2006年には一勝を挙げることができましたが、リーマンショックに端を発した恐慌もあり、ホンダは2008年で一度撤退します。BARではエンジン側と車体側の融合というか、開発の方向性でもなかなか足並みがそろわなかったのですが、車体もエンジンも、となった後も同じでした。2008年にロス・ブラウンがチームに加入、ここでみんなの方向性を一つに擦り合わせることが行われ、それがホンダ撤退後の「ブラウンGP」の成功に繋がっていくのが何ともやるせない感があります(ブラウンGPについては拙ブログでも書きましたが)。

 チームを指揮しながら、ホンダにすべて渡すことになったデビッド・リチャーズチーム代表のインタビューも一読の価値ありです。ビルヌーブのチームだったはずが、そのビルヌーブをクビにして、というくだりが「そういうことして追い出したのね」と思いましたし、それはビルヌーブとしばらく口を聞かなかったのもむべなるかな、という感じがしました。

 このシーズンはシューマッハ13勝、バリチェロ2勝、モントーヤ、トゥルーリ、ライコネンが各1勝ではありましたが、未勝利のBARがコンストラクターズ2位に入ったということは、チームのドライバー2人がいかによく頑張ったかを示しています。

 さて、このシーズンと言いますと、どうしても日本GPのことを書きたくなります。続きは次回に書きましょう。

1/43のミニカーです(ミニチャンプス製)。鈴鹿サーキット別注のものを購入しています。ラッキーストライクの「赤丸」部分がバーコードになっています。サーキットでタバコ広告を見かけることができたのはこの頃までです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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