工作台の休日

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車椅子の闘将 逝く つづき

2021年12月02日 | 自動車、モータースポーツ
 1994年のシーズンまで3年続いてコンストラクターズタイトルを獲得できたウィリアムズですが、1995年はシューマッハとベネトン・ルノーの前に敗れました。その後はD.ヒルやジャック・ビルヌーブらがタイトルを獲得するなど、ウィリアムズとルノーの組み合わせは黄金コンビであり続けました。事故から復帰し、車椅子姿となったフランク・ウィリアムズはチームを強くするためなら良いエンジン、デザイナー、ドライバーを確保するために力を尽くし、ドライバー達もそれに応えました。もう、かつての「小物然としたビジネスマン」ではなくなり「不屈の闘将」となっておりました。ただ、どういうわけかタイトルを獲得したドライバーが残留することが少なく、1987年のピケ、1992年のマンセル、1993年のプロスト、1996年のヒルなど、プロストのように引退などもありますが翌年は移籍、他カテゴリーに転戦、といったことが多いチームでもあります。マンセルについては多くの勝利をもたらしていますが「レースの前にヘリでサーキットに連れてきて、レースが終わったらそのままヘリで連れて帰りたい」と言っていましたので、なかなか扱い辛かったのかもしれません。
 ルノーが撤退したのちは、BMW、トヨタ、再びルノーなどさまざまなエンジンサプライヤーと組み、このところはメルセデスと組んでおり、どちらかというとイキのいい若手を走らせるか、スポンサー持ち込みのドライバーを走らせるといったチームになっています。それでも、2009年のチャンピオン、ジェンソン・バトン、メルセデスでタイトルを獲得したN.ロズベルグ、現メルセデスのバルテリ・ボッタスなど、ここから羽ばたいたドライバーは数多いです。BMWと組んだ時の紺と白のカラーリングを覚えている、というファンも多いでしょう。
 チームの優勝そのものが2012年を最後にありませんし、フランク・ウィリアムズ自身もその頃に第一線を退き、娘のクレア・ウィリアムズ氏が代表に就いておりましたが、昨年ウィリアムズ家はチーム運営からも撤退しています。チームの名前が存続していることは喜ばしいことではありますが、個性の強いオーナーが退場したことは寂しい思いでいっぱいです。
 ウィリアムズチームと日本の関係、接点もホンダとの黄金時代以外にもあります。1976(昭和51)年に日本で初めて開催されたF1世界選手権・イン・ジャパン(この名称ですが立派な選手権戦であり、ハントとラウダの対決で知られていますので、今更説明の要もないでしょう)では、ウィリアムズが用意したマシンに、欧州で活躍していた桑島正美がエントリーする予定でした。しかし、予選初日を走ったところで降ろされてしまいます。桑島側が用意したスポンサーマネーを間に入った人物がウィリアムズ側に渡しておらず、それが原因だったとも伝えられています。
 1980年代にホンダと組んだ折には、中嶋悟ら日本のF2ドライバーが鈴鹿でウィリアムズ・ホンダのマシンを操り、無人のサーキットで黙々とテストを行っていました。この時代はレース数が今よりも少ない分、シーズン中のテストが認められていましたので、ホンダもエンジンのアップデートなど、さまざまな場面でテストを行い、現場に投入していきます。
 1994年シーズンにティレル・ヤマハで大健闘した片山右京にも「来年の契約はどうなってるんだ」とウィリアムズ側が「つばをつけた」ようです。フランク・ウィリアムズ自身はインタビューで「速ければドライバーの国籍は関係ない。それよりも本人がレーサーの資質があることに気がつかないまま、他の職業で一生を過ごすことの方が残念だ」とも言っています。国籍を問わない、ということではK.ロズベルグは当時は珍しかったフィンランドですし、2000年代以降はJ.Pモントーヤ、パストール・マルドナドといった中南米系のドライバーも活躍していました。
 トヨタと組んだ2007年からは中嶋悟の長男、中嶋一貴がウィリアムズでF1デビューを果たしています。F3の生沢徹から始まり、その生沢に導かれて欧州=世界を目指した中嶋悟、さらにその息子の中嶋一貴と、線がこうしてつながっています。
 思えばウィリアムズチームは二世ドライバーが多く在籍していました。ロズベルグは親子でお世話になっていますし、ヒル、ビルヌーブ、中嶋、さらにA.セナの甥のブルーノ・セナも在籍していました。兄弟ではありますが、シューマッハの弟も在籍していましたね。
 フランク・ウィリアムズというと、危なげないレースを制した後、傍らのチームスタッフと白い歯を見せて握手をするシーンを覚えています。ガッツポーズをするわけでもなく、本当にうれしいのかな、というくらいでしたが、マクラーレンのロン・デニスしかり、常勝チームの監督、オーナーというのは一つ勝ったくらいでは大騒ぎしないものなのだな、と思いました。厳しい表情でレースの行方を見つめる姿とともに、忘れることはない「静かな闘将」の姿でありました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


前回と今回の写真は、2017年にウィリアムズのコンストラクターズ40年を記念して鈴鹿の日本GPに合わせて実施されたイベントでのものです。
 

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車椅子の闘将、逝く

2021年12月01日 | 自動車、モータースポーツ
 F1のウィリアムズチームの創設者だったフランク・ウィリアムズ卿が先日亡くなりました。私のようにF1ブームの頃からのファンですと、車椅子姿でピットガレージで戦況を見つめる姿を覚えているという方も多いでしょう。
 ウィリアムズ卿はもともと自身もレーサーでしたが、ほどなくしてチーム運営の側に回り、1960年代にはF3などのカテゴリーから若いドライバー達を出走させていました。その中には日本から欧州に飛び出したパイオニアでもある生沢徹もおりました。しばらくはチームの経営面も安定せず、生沢氏は「未払いのウイリアムズの小切手をいまだに(1990年代初頭)持っている」ということで、ホンダF1の初代監督だった故・中村良夫氏は「小物的ビジネスマンのイメージ」とその頃の印象を記しています。
 1970年代にはF1に参戦しますが、他の企業・メーカーとスポンサー契約を結んだり、マーチのマシンをレンタルしたり、といった形で不安定なものでした。

(1975年のマシン。スポット参戦した女性ドライバー、レッラ・ロンバルディ仕様のようです。コクピットサイドの「LAVAZZA」はコーヒーの会社ですから「飲むF1」ですね) 
ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングという名前で改めて参戦した1977年からが、コンストラクターとしてのウイリアムズの歴史となっています。ようやく資金にも恵まれ、1980年にはアラン・ジョーンズの手でタイトルを獲得しています。このころのウィリアムズのスポンサーの多くがサウジアラビアの企業で、リアウイングにはサウディア航空の名前が見えますし、あのビン=ラディンの一族もスポンサーに名を連ねていたことがあります。当時のイギリスはオイルマネーで豊かになったサウジ系の企業が我が物顔だった時代でもあり、ちょうど1980年に欧州を旅した私の亡父も「ロンドンのホテルやお店がサウジ系の企業に買われている」と話してくれたことがあります。余談になりますが故・海老沢泰久氏の小説「F2グランプリ」にも、鈴鹿にいる日本のF2ドライバーの会話の中でA.ジョーンズがタイトルを獲ったという話が出てきて「サウジ航空がスポンサーだから、資金面でも潤沢」といったセリフが出てきます。

1982年のチャンピオンマシン。FW08。K.ロズベルグが混戦を制し、わずかシーズン1勝でタイトルを獲得しています。
 1980年代に入りますと、ターボエンジンをどのチームも搭載するようになり、ウイリアムズチームはホンダと組みます。なかなか結果が出なかったのですが、1984年ダラスGPでホンダの復帰後初優勝が成し遂げられました。

 いよいよホンダの快進撃が始まったのが1985年終盤からで、1986年にスタートダッシュを決めてタイトル獲得をもくろんでいたところに、シーズン前のテストの帰路でフランク・ウィリアムズの乗っていた乗用車が事故に遭い、ウィリアムズは一命をとりとめたものの半身不随・車椅子の生活を送ることになりました。留守を託された盟友、パトリック・ヘッドの指揮のもと、マンセル、ピケが優勝争いを演じ、この年はホンダにとっても念願だったコンストラクターズタイトルを獲ることができましたが、ドライバーズタイトルはマクラーレンのプロストに最後の最後で奪われました。コンストラクター、ドライバーの両方のタイトルを獲得したのは翌1987年でした。ウイリアムズとホンダが時にはぶつかりながら、いかに戦ってタイトルを獲得したかについては前述の海老沢素久氏の「F1地上の夢」、「F1走る魂」に詳しく記載されています。

(1986年のマシン、FW11 N.マンセル車。マンセルと僚友ピケの二人の間は決してうまくいっていなかったようです)
1987年でホンダとのジョイントが解消されると一時低迷しますが、ルノーと組んだ1990年代にはまた優勝戦線に復帰します。ブーツェン、パトレーゼといったいぶし銀たちが好走しましたし、1992年にはマンセルがシーズンを席巻、念願のタイトルをもたらします。翌1993年はマンセルの代わりに加入したプロストがタイトルを獲得して引退、1994年にはセナが加入し、カラーリングも紺とキャメルタバコのイエローからロスマンズタバコの明るい青主体の色になりましたが、サンマリノGPでセナが事故死というF1界全体にとっても大きな悲劇も起きました。この年はヒル、クルサード、スポット復帰のマンセルらによってようやくコンストラクターズタイトルを獲得します。しかしそれはとても苦い栄光でした。
 チームの歴史を書き続けていたらだいぶ長くなり、しかも途中ですのでこの稿はつづきます。


 

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