1994年のシーズンまで3年続いてコンストラクターズタイトルを獲得できたウィリアムズですが、1995年はシューマッハとベネトン・ルノーの前に敗れました。その後はD.ヒルやジャック・ビルヌーブらがタイトルを獲得するなど、ウィリアムズとルノーの組み合わせは黄金コンビであり続けました。事故から復帰し、車椅子姿となったフランク・ウィリアムズはチームを強くするためなら良いエンジン、デザイナー、ドライバーを確保するために力を尽くし、ドライバー達もそれに応えました。もう、かつての「小物然としたビジネスマン」ではなくなり「不屈の闘将」となっておりました。ただ、どういうわけかタイトルを獲得したドライバーが残留することが少なく、1987年のピケ、1992年のマンセル、1993年のプロスト、1996年のヒルなど、プロストのように引退などもありますが翌年は移籍、他カテゴリーに転戦、といったことが多いチームでもあります。マンセルについては多くの勝利をもたらしていますが「レースの前にヘリでサーキットに連れてきて、レースが終わったらそのままヘリで連れて帰りたい」と言っていましたので、なかなか扱い辛かったのかもしれません。
ルノーが撤退したのちは、BMW、トヨタ、再びルノーなどさまざまなエンジンサプライヤーと組み、このところはメルセデスと組んでおり、どちらかというとイキのいい若手を走らせるか、スポンサー持ち込みのドライバーを走らせるといったチームになっています。それでも、2009年のチャンピオン、ジェンソン・バトン、メルセデスでタイトルを獲得したN.ロズベルグ、現メルセデスのバルテリ・ボッタスなど、ここから羽ばたいたドライバーは数多いです。BMWと組んだ時の紺と白のカラーリングを覚えている、というファンも多いでしょう。
チームの優勝そのものが2012年を最後にありませんし、フランク・ウィリアムズ自身もその頃に第一線を退き、娘のクレア・ウィリアムズ氏が代表に就いておりましたが、昨年ウィリアムズ家はチーム運営からも撤退しています。チームの名前が存続していることは喜ばしいことではありますが、個性の強いオーナーが退場したことは寂しい思いでいっぱいです。
ウィリアムズチームと日本の関係、接点もホンダとの黄金時代以外にもあります。1976(昭和51)年に日本で初めて開催されたF1世界選手権・イン・ジャパン(この名称ですが立派な選手権戦であり、ハントとラウダの対決で知られていますので、今更説明の要もないでしょう)では、ウィリアムズが用意したマシンに、欧州で活躍していた桑島正美がエントリーする予定でした。しかし、予選初日を走ったところで降ろされてしまいます。桑島側が用意したスポンサーマネーを間に入った人物がウィリアムズ側に渡しておらず、それが原因だったとも伝えられています。
1980年代にホンダと組んだ折には、中嶋悟ら日本のF2ドライバーが鈴鹿でウィリアムズ・ホンダのマシンを操り、無人のサーキットで黙々とテストを行っていました。この時代はレース数が今よりも少ない分、シーズン中のテストが認められていましたので、ホンダもエンジンのアップデートなど、さまざまな場面でテストを行い、現場に投入していきます。
1994年シーズンにティレル・ヤマハで大健闘した片山右京にも「来年の契約はどうなってるんだ」とウィリアムズ側が「つばをつけた」ようです。フランク・ウィリアムズ自身はインタビューで「速ければドライバーの国籍は関係ない。それよりも本人がレーサーの資質があることに気がつかないまま、他の職業で一生を過ごすことの方が残念だ」とも言っています。国籍を問わない、ということではK.ロズベルグは当時は珍しかったフィンランドですし、2000年代以降はJ.Pモントーヤ、パストール・マルドナドといった中南米系のドライバーも活躍していました。
トヨタと組んだ2007年からは中嶋悟の長男、中嶋一貴がウィリアムズでF1デビューを果たしています。F3の生沢徹から始まり、その生沢に導かれて欧州=世界を目指した中嶋悟、さらにその息子の中嶋一貴と、線がこうしてつながっています。
思えばウィリアムズチームは二世ドライバーが多く在籍していました。ロズベルグは親子でお世話になっていますし、ヒル、ビルヌーブ、中嶋、さらにA.セナの甥のブルーノ・セナも在籍していました。兄弟ではありますが、シューマッハの弟も在籍していましたね。
フランク・ウィリアムズというと、危なげないレースを制した後、傍らのチームスタッフと白い歯を見せて握手をするシーンを覚えています。ガッツポーズをするわけでもなく、本当にうれしいのかな、というくらいでしたが、マクラーレンのロン・デニスしかり、常勝チームの監督、オーナーというのは一つ勝ったくらいでは大騒ぎしないものなのだな、と思いました。厳しい表情でレースの行方を見つめる姿とともに、忘れることはない「静かな闘将」の姿でありました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


前回と今回の写真は、2017年にウィリアムズのコンストラクターズ40年を記念して鈴鹿の日本GPに合わせて実施されたイベントでのものです。
ルノーが撤退したのちは、BMW、トヨタ、再びルノーなどさまざまなエンジンサプライヤーと組み、このところはメルセデスと組んでおり、どちらかというとイキのいい若手を走らせるか、スポンサー持ち込みのドライバーを走らせるといったチームになっています。それでも、2009年のチャンピオン、ジェンソン・バトン、メルセデスでタイトルを獲得したN.ロズベルグ、現メルセデスのバルテリ・ボッタスなど、ここから羽ばたいたドライバーは数多いです。BMWと組んだ時の紺と白のカラーリングを覚えている、というファンも多いでしょう。
チームの優勝そのものが2012年を最後にありませんし、フランク・ウィリアムズ自身もその頃に第一線を退き、娘のクレア・ウィリアムズ氏が代表に就いておりましたが、昨年ウィリアムズ家はチーム運営からも撤退しています。チームの名前が存続していることは喜ばしいことではありますが、個性の強いオーナーが退場したことは寂しい思いでいっぱいです。
ウィリアムズチームと日本の関係、接点もホンダとの黄金時代以外にもあります。1976(昭和51)年に日本で初めて開催されたF1世界選手権・イン・ジャパン(この名称ですが立派な選手権戦であり、ハントとラウダの対決で知られていますので、今更説明の要もないでしょう)では、ウィリアムズが用意したマシンに、欧州で活躍していた桑島正美がエントリーする予定でした。しかし、予選初日を走ったところで降ろされてしまいます。桑島側が用意したスポンサーマネーを間に入った人物がウィリアムズ側に渡しておらず、それが原因だったとも伝えられています。
1980年代にホンダと組んだ折には、中嶋悟ら日本のF2ドライバーが鈴鹿でウィリアムズ・ホンダのマシンを操り、無人のサーキットで黙々とテストを行っていました。この時代はレース数が今よりも少ない分、シーズン中のテストが認められていましたので、ホンダもエンジンのアップデートなど、さまざまな場面でテストを行い、現場に投入していきます。
1994年シーズンにティレル・ヤマハで大健闘した片山右京にも「来年の契約はどうなってるんだ」とウィリアムズ側が「つばをつけた」ようです。フランク・ウィリアムズ自身はインタビューで「速ければドライバーの国籍は関係ない。それよりも本人がレーサーの資質があることに気がつかないまま、他の職業で一生を過ごすことの方が残念だ」とも言っています。国籍を問わない、ということではK.ロズベルグは当時は珍しかったフィンランドですし、2000年代以降はJ.Pモントーヤ、パストール・マルドナドといった中南米系のドライバーも活躍していました。
トヨタと組んだ2007年からは中嶋悟の長男、中嶋一貴がウィリアムズでF1デビューを果たしています。F3の生沢徹から始まり、その生沢に導かれて欧州=世界を目指した中嶋悟、さらにその息子の中嶋一貴と、線がこうしてつながっています。
思えばウィリアムズチームは二世ドライバーが多く在籍していました。ロズベルグは親子でお世話になっていますし、ヒル、ビルヌーブ、中嶋、さらにA.セナの甥のブルーノ・セナも在籍していました。兄弟ではありますが、シューマッハの弟も在籍していましたね。
フランク・ウィリアムズというと、危なげないレースを制した後、傍らのチームスタッフと白い歯を見せて握手をするシーンを覚えています。ガッツポーズをするわけでもなく、本当にうれしいのかな、というくらいでしたが、マクラーレンのロン・デニスしかり、常勝チームの監督、オーナーというのは一つ勝ったくらいでは大騒ぎしないものなのだな、と思いました。厳しい表情でレースの行方を見つめる姿とともに、忘れることはない「静かな闘将」の姿でありました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


前回と今回の写真は、2017年にウィリアムズのコンストラクターズ40年を記念して鈴鹿の日本GPに合わせて実施されたイベントでのものです。