米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

ピアノを弾くということ

2013-06-20 07:37:51 | おもうこと

子供たちがステージでピアノを弾いている姿を見ると、とてつもないことをやっているんだなぁ・・・と思います。

ピアノを弾くというだけでなく、何か人前でパフォーマンスをするという事は、実は大変なことをやっているんです。

そもそも弾くという行為は、何なのでしょう?

「頭」「心」「体」この3つの要素がうまく働き合って成立する、きわめて繊細、かつダイナミックな行為なのだと思います。

人は目や耳で直接的に受け取る、単純な情報に流されやすい傾向にあるので、まず指がよく動いて、音量があることにすぐ意識がいってしまいます。

これは運動機能の側面です。

運動機能がトレーニングされていなければ、美しい音も、圧倒的な音量も、真珠の玉を転がすような輝きのある音も出せません。

非常に軽やかな音というのは、弱く弾くのではなく、むしろ筋力がしっかりしていなければ、実現しないのです。

おそらくバレリーナも同じでしょう。

体操選手やフィギュアスケートの競技にも言えているのではないでしょうか?

ですが、それだけでは成立しない「ピアノを弾く」という行為。。。

小さい時は、なんだか楽しそうに生き生き弾いていると、いい感じに見えます。

「楽しい」「生き生き」・・・これは大事なことです。

カンがいい子は、なーんとなく体の使い方とか真似るのが上手だったりするので、それらしく弾くのが上手です。

最近は録画する・・ということだってできますもんね。

「勘がいい」「真似をする」・・・これも実は大事です。

そもそも「学ぶ」は「まねぶ」・・・からきており、学ぶことは真似することだったのですから。。。

ただ、成長に伴い、これでは済まされないのが「演奏する」という事。

頭の中で、楽曲を理解し、作曲家が残した楽譜の意味を理解しようとする、音楽の語意を理解し、文章のように、文脈を理解し、言語を理解し、音楽の意味としての句読点や段落を見つけ、曲の山場を見つけて(感じ取って)作曲家の心情に沿うことができるのか。。

むろんそれは理解するにとどまらず、「共感」という事がなければ「感動」もないわけです。

非常に難しい「楽曲分析」ができなかったとしても、「感じ取る」ことはできると思います。

(むしろ楽曲分析に頼りすぎると、危険なことにもなり兼ねないともいえるでしょう。頭で理解することと心で感じることの相互作用がうまくなされていないなら、それはムダ以上に有害になる可能性も秘めているかもしれません。しかし感情に偏りすぎることも危険で、客観性と主観性の接点を探り出さなければ、本当の意味でのプロの演奏はできないのだと思います。)

ただ、「雑・・ザツ」な感覚では、作曲家の「心情」「心理」に迫ったり、「共感」することは難しく、ある程度大きくなった子たちには「心(耳)を研ぎ澄まして」という事を求めます。

楽しく弾ければ、そんなことはできなくても・・・

というお声も聞こえそうですが、ピアニストのようにスゴイことをしなくてもいいのです。

ピアノを習っている子供たちの大半は、音楽家になるわけでも音大に進むわけでもありません。

ただ、こういうことに触れておくことは、非常に頭の中の世界を広げると思います。

あえて「頭の中」

と書きましたが、これは「頭脳」「想像力」

どちらも意味します。

東大、京大に進学した人たちの「ピアノ」率は、高いですよ。

と、これらの大学に進んだ元生徒さんから教えてもらいました。

東大京大に進んだことが、エライとは思いませんが、ピアノを弾く行為は、脳を発達させることにはなると思います。

絵を描くという事を考えてみましょう。

私たちは、何気なく見ているものに意識を集中して、対象を観察します。

ただ「赤」と思っていたものに、複雑な色合いがあることを発見し、その形に「宇宙の法則」を見出すかもしれません。

優れた絵描きは、ただの「肖像画」には終わらず、対象の内面まで映し出し・・いや・・えぐり出します。

優れた写真家もそうです。

写真ですら、「本質」を写し取ってしまうのです。

上手とか下手とかでなく、この「物の本質」を見ようとするところに、「芸術」と言われるものの、大きな価値があるのだと思います。

うーん・・だんだん小難しい話になってきちゃいましたね。。

私、昔からこういうことを考えるのが「シュミ」なんで・・・

小学生の時は「死ぬときは、なんて言い残して死のうか・・」とか。。

小1の4クラス全員で白い体操服を着て(おそらく運動会の練習をしていた?)体操をしてピョンピョン飛び跳ねるのを見て、「この子たち全員の体の中には骸骨が入ってるんだな」と、自分も1年生なんだけど、妙に冷めた目で見てたり。。

中学生の時は「この広大な宇宙に、人が生きる、その存在の意味は・・?・・」とか。。

「この両親が結婚して私という子供を無まなければ、この宇宙を認識することはできない・・・という事は、宇宙は存在しないという事で、無。。。ではないか??。。無とは何であるか??」とか。。

学校の帰り道に、一人で歩いているとき、そんなことを考えることもありました。

ぁ・・・もちろん「おやつ」のことだって・・ね。。

生徒さんに聞くと、全く・・塾の勉強のこととかしか考えません。。という子がいる一方。

あ・・・私もそんなようなこと思うことあります。。と、たまーにですが、いう子もいなくはないです。

それが素晴らしいこととは言いませんが、それが「哲学」などの入り口なのかな~とも思います。

きっと皆さんの中にも、そんな経験ないですか?

さて、「ピアノを弾く」という行為。

この、心の中、、、脳、、、と、言い切ってしまうことのできない「何か」が働き、「おどろき」「せつなさ」「浮遊感」「ふしぎさ」「エネルギーが増加、あるいは減少する感じ」等々。。。

楽曲への「理解」や「共感」となって、舞台上でライブでそれが繰り広げられるわけです。

それは一つの「旅」にも似ていて、バイクに乗る知り合いが、

そんなにすごいスピード出して怖くないですか?と若い人から尋ねられるから、

「そりゃ怖いよ。誰よりその怖さを知ってるから、誰より準備をするよ。バイクの整備はもとより、次の曲がり角で倒木などないかとか、いろいろなことを常に想定し、シュミレーションして臨むよ」と、言うんですよ。。と。。彼らは命がかかっていますからね。。ヘタすりゃ死が待ってるわけですよ。。。

普通の旅だって、楽しさや感動はもちろんあるけど、思わぬアクシデントだってあるわけで、そういうこともしのいで、無事に家にたどり着く・・・までが、「旅」なんですよね。

「心の旅」

とでも言いましょうか。。

そういうことを、ライブでやっているのだと思います。

最高の準備をして。。

この「こころ・・・仮想」の世界と「脳」について、茂木健一郎さんの「脳と仮想」めちゃめちゃ面白かったです。

非常に柔軟な心の持ち主で、音楽や文学にも非常に精通している、素敵な方だな~と、改めて思いました。

しばらくは「茂木健一郎ワールド」と「吉田秀和ワールド」に入りそうです。

あれ~~平野健一郎さんの「葬送」はどうしたって??

ちょっと休憩です。

2冊目の途中で、ほかのものに浮気しちゃって~~

今のところ、ジョルジュ・サンドとショパンもある程度は出てきて、語らせていますが、主にドラクロアの口を借りた形で、平野さんの「芸術における客観性」について述べている・・と言う感想と、非常に賢い方で、かつよく調べ上げて書かれている小説・・と言う印象を受ける一方、少し説明的に感じることもなくはないです。。。とはいえ、1800年代の前半のパリの様子が、なんとなく感じられ・・それは風景だけでなく、上流階級を中心とする人々の心の風景・・と言うほど暢気なものでもないのですが、垣間見ている気がします。まだ3分の1しか読んでません。。4冊ものの2冊目途中。。

そんなこんなで、また「脳と仮想」については、書きます。

難しい本のようですが、非常にわかりやすく書かれています。

ピアノを弾くという事・・・

「脳」の中で行われている活動が、「音」という形に・・目には見えませんが、確かな形になって、表現されていると思います。

この、素晴らしい「脳」の活動

「脳」活動で「心」はすべて説明できるのか・・という命題・・今のところ説明がつかないようです。多くの学者が命がけで研究してるんですがね。。いっとき、立花隆さんの「臨死体験」「脳死再論」等、私も読み漁りましたが、もう20年も昔のことになります。

「心」・・・「優しさ」だったり「思いやり」「想像力」だったり、そういうことの始まりに「リトミック」や「幼児グループ」での活動もあるわけで、バッハのフーガとリトミックは、無関係ではないと、大真面目に思いながらやっているんですよ。。

今日は、ちょっと理屈っぽい込み入った話になっちゃってスミマセン

ではまた~

コメント
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