バンドをやってた頃のドラムたたいていた仲間が、クラリネットやってたんだけど隠岐の島に高3の夏に行った時の美しさに魅了され、美術専攻に鞍替えしたっていう面白いヤツで、未だに美術教員しながらブラスの指導してるらしいって聞いたけど、頑張ってるんでしょうかね。
この、ドラムをやってたK君から当時、松本きみ子さんの3原色の本(今はもう売ってないかも・・)赤青黄いろの3つの色を組み合わせることで、自然のものならすべて表現できる、、という本など、おもしろいものを教えてもらいました。
今は全く交流ないですけど、「それですべては表現できるのか?」みたいな議論をした覚えがあります。
その後も、シュタイナーの講座に行ったとき、この3原色を使って表現するんですが、3つの色で遊ぶ・・現れた形にこだわってはいけない・・と・・面白い体験でした。
こうした体験の数々が、今の私の発想の源になっているのかな。。と思います。
先日もリトミックのレッスンで「おえかき」タイムがあったんですが、あめがぽっつんぽっつん、ざーざー、びゅーびゅー、カミナリ・イナズマ~~そして虹~~のようなことをやって遊んだんですが、こういった体験が原型になって、想像の源になってる気がします。。そう。。形にこだわらず、体験するってこと。。
さて、前おきが長くなっちゃいました。
藤井勉さんの画文集「白い山脈」
大変美しい絵と、考えさせられる画家の視点から書かれた文、そしてわが子や家族への愛にあふれた画文集です。
そうとう昔のものですが、今でも購入可能なようです。
序にかえて・・
花に笑む子
しおれた花に泣く子
子供たちの笑顔や涙が
足元を照らし
それぞれの季節
ひかりや風のちがいを
教えてくれた
無知にひとしいまま
父になり
ふり向けば青春は彼方
だが この掌に残る
子らの重み
これらはもう冒されることのない
確かなものだ
。。
当時まだ若かった藤井勉さんが書き綴った言葉の数々は、まだ20代だった私の心に響きました。
この画文集から、少し引用させてください。
。。。
「由希子」
・・・(略)・・・
言葉にならない言葉を聞きわけるのも、わたし以上に正確だし、何をほしがっているのかもすぐわかるらしい。
どちらかを強くしかると、互いにかばってなぐさめあう。幼くたどたどしい抱擁を見ていると、腹立ちも消えて楽しくなってしまう。
こんな光景も間もなく見られなくなるだろう。小学校に入ったその日から、子供たちは家庭を抜け出して、学校の生徒になりきってしまうのだから。通学も遠足も、修学旅行も、その旅行の寝間着さえも、おそろいの運動着を着せられて、給食に馴らされ、動作も言葉も、それにつれて情緒までも粗雑になってしまった子供たち。
幼い頃、あんなにも豊かだったものを、次々と捨てなければ対応できない学校生活を、とても不幸だと思いながら、ほとんど何もしてやれない自分を棚に上げて、由希子にはせめて今だけでも、のびのびと豊かな絵をたくさん描き、おしゃべりをし、美しく、ごく自然に日々生きてほしいと希う(ねがう)。
学校教育の批判をする気はさらさらありません。
先生方の苦労も、いかばかりか・・とお察しします。
でも子供たちに言うんです。
「今から100年前の教科書って、使えると思う?」
「ううん」
「じゃあ今から100年後に、今の教科書使えるかな?」
「使えないとおもう」
「たぶんね。今習っていることでも塗り替えられることはたくさんあると思う。新しい歴史的発見。。とか言ってね。。政治も変わってゆくし、国境さえ変わる。。今勉強してることは、もちろんしっかりやりなさい。。でも、それだけが全てじゃない。。むしろ、最先端でやっていることは、日々塗り替えられたり、まだまだ解明されていないことだらけ。。まだまだ学ぶことはたくさんある。。学校や塾で習ってることが全てと思っているかもしれないけど、そうじゃないんだよ。」
異論もあるかとは思いますが、私のスタンスはこのようなものです。
まだまだ未知の広い世界が待っている。
教育方針の考え方そのものが大きく変わることもありうることだと思います。
わたし最近、ちょっと毒付いていますかね~~
もうちょっと毒を盛ります!!
古今東西の芸術作品には、非常に真理が描かれ、先人の知恵に唸ることもしばしばです。
シェイクスピアの文章を引用した、河合隼雄先生の文から、またまた引用・・また河合先生って言わないで~~
一連の少年の連続殺傷事件をはじめとして、思春期の子供による事件が相次いで起こり、日本の親たちを不安に陥れている・・という状況の中から、非常に読みやすい河合先生の本を、さらに噛み砕いた形で書かれた、「こころの子育て」の序文より・・・
・・・(略)・・・
日本の親は教育熱心な人が多いが、熱心のあまり固く考えすぎたり、肩に力が入りすぎたりして、そのために自分の子供も不幸になっているように感じられる。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の中で、二人の主人公が死んだ後に、ヴェローナの大公が、二人の両親に対して、「喜びを愛によって殺す」ことをしたのではないかと論するところがある。この言葉を私は日本の教育熱心な親や教師に捧げたいと思う。子供に対する「愛」と思って、大人が一生懸命していることが、結果的には、大人の喜びも、子供の喜びも殺してしまっていることになっていないだろうか。日本の大人は、この点についてよくよく考えなおしてみる必要がある。
・・・(略)・・・
シェイクスピアを大人になって熟読したことがないのですが、シェイクスピアのほかの作品からも、この矛盾した人の心、真理に迫る作品が多くあること・・深く読み直してみる必要がありそうですね。
人生とは深く味わい深いものだな。。
そう思います。。。
では。。