最近つくづく「ピアノが弾けるって素晴らしい」と思っています。
綺麗な曲が弾けて心が癒されるとか、脳の発達に良いとか、そんなケチ臭い事(毒舌失礼)を言っているのではありません。
日頃、大人から子供まで、200年300年前の文献を教科書に使う・・なんて言うこと他にあるでしょうか?
「他にはないですよね」
と、お忙しい医師の仕事の傍ら練習を重ねていらっしゃる方とも確認したのですが、当たり前と思って、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、、などと言って弾いていますが、これってすごい事だと思うんです。
弾いている曲の難易度や表面的に達者に弾いていることなど、もうあまり意味がないんじゃないかと思う昨今です。
どれだけ作曲者と対話し、理解しようとしているかということ・・むろん大変な天才が書いたものですから、そんなに簡単に理解できるものではありません。だからこそ心を込め誠意をつくし持ちうる限りの力で思考し、更なる勉強を続け、何百回何千回と繰り返し練習や考察を重ね。。そんなものじゃないでしょうか?・・私たち凡人が出来る事というのは。。(私と一緒にしてすみません・・読者の方にはもっと素晴らしい能力をお持ちの方もいらっしゃるとは思いますが・・)
グローバリズム、戦後70年、、国際化、国際理解、、押し寄せる情報の波に飲まれそうになり、そのうち思考停止状態になりやすい。
人間の脳は自分をヒイキしやすい(養老先生談)らしく、その事が相手に対する理解の妨げになる事もあるように思います。
何百年前の異国の人が書いた楽譜を“尊敬の念”を持って日頃読む者にとって、人って何なのだろう。と、いつも考えてしまいます。
そこには普遍的な何かがあって、多くの属性を瞬時に取っ払ってしまうほどの力があるのではないかと思います。
日頃そういうところにしょっちゅうアクセスしている状態・・・だと思っています。
ですから、冒頭にも書いたように、「脳の発達に良い」(これも大切ですが)・・以上に、自分の考えをしっかり持って、しかも小さく固定化せず時空を超えて“人”というものの本質を考え続ける・・(これってどんな職業の人にも大切)・・―――そうして、国際的にもコミュニケーション能力の高い人になっていってもらいたい。。
これ、日本人としての大切な事や日本文化もしっかり持った上でやっていただきたいのです。
むしろそうでなければ、根っこの無い人だと思われるかもしれませんね。
ここからちょっと毒舌蛇足
最近は・・センスなんてクソくらえ(すみません…いささか~いやかなり、乱暴な表現)・・ぐらいに思っています。
センスよくお洒落に弾くことにどれだけの価値があるのか…子供の時は盆栽のように小さく刈り込まないで、輝く生命力をもっと大切に育てるべきではなかろうか?・・ましてやどんなにきれいでも呼吸をしていない造花ではダメなわけで、野に咲く花のように自然に息づいているものであってほしい・・
それと同じ思いで発言された(と思われる・・)のが
「アメリカナイズされた上手いダンスなんて見たくねぇんだよ。もっと不器用なヤツのダンスが見てぇ。そんな奴ら集めてワークショップしてぇなぁ」という世界的ダンサーの声。
「本当にそうですよね!」と、私なぞが言うのも恐れ多いほどすごい方なのですが、普段は地図にもかけないくらい山奥に住んで畑仕事をしていらっしゃるそうです。
これもすごく頷けるんです。。(オマエに何が分かるんだという声が聞こえてきそうですが・・(汗))
先日、兵庫県立美術館で観た“フェルディナンド・ホドラー展”・・スイスを代表する画家ですが、一般的に有名かどうかは分かりません。
倉敷の大原美術館にも収蔵されていて、大変印象深い「木を伐る人」というタイトルの作品があります。
「鼓動を打つように、描いた」「リズムの絵画へ―踊る身体、動く感情」「自然と響きあう生命―ホドラーの芸術」
等々ホドラーの作品群の核心をつくサブタイトルの数々ですが、身体そのもの、躍動する生命体としての体の動きそのものがリズムであり生きている事、、この「木を伐る人」の動きは、世界的なダンサーの目指すことそのものなのではないかと思います。
・・って、私直接お話したことは無いのですが、親しい人が直接何度もお話したことがある人で、ホントホント!と頷きあってしまいます。
素敵な事は悪いことではありません。素敵な事は素敵・・だけど、そこで満足していたら深いところに入ってゆけないので、更にその先の世界があるのだということ。
子供たちには「研ぎ澄ませ」(これはかなり大きくなった子)、「ミクロとマクロの視点を持て」、そして「音符の向こうの世界を感じ表現しよう」・・そんなことを言っています。
簡単に知った気になってはいけません。
ちょっとカッコよく弾けたり、賞をもらったことで慢心するよりは、自分ってダメだなぁ、まだまだだなぁ、と感じている人の方が、理解というか悟ることが近付いていると思います。
表面上の上手さではないのです。
ソクラテスが言うように「無知の知」・・知らないということを知っている人の方がよほど知っていて賢い・・そう思っています。
―――ちょっと寄り道ですが、ソクラテス・・そんなに深く知っているわけだはありませんが、「無知の知」「ただ生きるな。より善く生きよ」「人生の目的は魂の世話をすることである」・・もうこれだけで、ほんとうに‼‼・・と、頷いてしまう私って単純な理想主義と言われるかもしれないけど、歳とればとるほどにそう思えます。やっぱりソクラテス大好き!宮沢賢治くらい好きだわ。河合隼雄先生も! そんなこと考える毎日(笑)―――
「楽譜を表面上達者に弾くことにどのような意味があるのだろうか。そこに縛られてしまっては本当に見るべきもの聴くべきものから遠ざかってしまうのではなかろうか?」また「コンクールにおいて評価基準となるものの中に、そういった深い思考に基づいたものを聴きとって貰っているのだろうか?」「型押しされた一見綺麗な一見良い音の演奏に評価が偏ってはいないだろうか?」
人の前で演奏する訳ですから、お料理と同じで誠意をつくし、見た目も美しくなければなりませんが、果たしてそれだけで良いのか?
思い違いをしないで頂きたいのですが、楽譜を適当に読むということとは全く違います。
むしろもっともっと楽譜を深いところまで読めるようになりたい・・もちろんそんな簡単なことではありません・・自分自身もそんなにできている訳ではないです・・表面的な字面ではないということ。。
分析もしなくてはなりません。時代背景。人物像。同時期の他の芸術活動や政治情勢。影響を与えた作品や人物。
多くの考察は大切です。
しかしまた、子供たちの演奏に生気がないことを感じる事も多々あるのも事実です。
子供たちも方法論に頼って演奏しようとする子が増えてきています。
そうではなくまず味わう。
しっかり食らいつく。咀嚼する。
それから考える。分析し秩序立てる。
最終的にはその向こうの世界を見る地点に立つ。
心を開放する。
何だかね・・・色々感じてしまいます。
「流暢に英語が話せる事よりも、何を語っているかと言う内容が大切」
海外に留学したり、国際線のCAさんだったり、そんな方々も、これは凄く頷かれます。
語るべき内容のともなわない言葉では相手にされません。
多少まずい英語(他の言語も)でも、その人となりが大切で、人としてどうあるのか、人として何が語れる人物なのか、そこが重要なのです。
音符の向こうにある世界―――ちょっと補足します。分かりにくいかも知れないので。。
作曲者が何かに感動し、ああ!~そう思ったものを音符として表現したらそうなった~それが楽譜として表現されている世界。
作曲者が違えばまた違うものになるでしょう。もちろん国籍にもよります。ドレミファソラシド・・を使ったらこういう表現となった。その世界観を追体験しているということ。
では、国も違い楽器も違ったら、、お琴なら、バラライカなら、ガムランなら、バグパイプなら、、表現したいものに適した楽器による特性もあるでしょうが、とにかく
「その心は?」
なのだと思います。
あらら、、言葉の芸である“なぞかけ”みたいですね。
一番大切なのは「その心」だと、みんなずーーっと長いあいだ思ってきたのでしょう。
103歳の医師、日野原先生も「いちばん大切な贈り物は“心”である」、と、講演会の冒頭でスクリーンから語りかけていらっしゃいました。
楽譜から「その心」を読む。。でしょうかね
綺麗な曲が弾けて心が癒されるとか、脳の発達に良いとか、そんなケチ臭い事(毒舌失礼)を言っているのではありません。
日頃、大人から子供まで、200年300年前の文献を教科書に使う・・なんて言うこと他にあるでしょうか?
「他にはないですよね」
と、お忙しい医師の仕事の傍ら練習を重ねていらっしゃる方とも確認したのですが、当たり前と思って、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、、などと言って弾いていますが、これってすごい事だと思うんです。
弾いている曲の難易度や表面的に達者に弾いていることなど、もうあまり意味がないんじゃないかと思う昨今です。
どれだけ作曲者と対話し、理解しようとしているかということ・・むろん大変な天才が書いたものですから、そんなに簡単に理解できるものではありません。だからこそ心を込め誠意をつくし持ちうる限りの力で思考し、更なる勉強を続け、何百回何千回と繰り返し練習や考察を重ね。。そんなものじゃないでしょうか?・・私たち凡人が出来る事というのは。。(私と一緒にしてすみません・・読者の方にはもっと素晴らしい能力をお持ちの方もいらっしゃるとは思いますが・・)
グローバリズム、戦後70年、、国際化、国際理解、、押し寄せる情報の波に飲まれそうになり、そのうち思考停止状態になりやすい。
人間の脳は自分をヒイキしやすい(養老先生談)らしく、その事が相手に対する理解の妨げになる事もあるように思います。
何百年前の異国の人が書いた楽譜を“尊敬の念”を持って日頃読む者にとって、人って何なのだろう。と、いつも考えてしまいます。
そこには普遍的な何かがあって、多くの属性を瞬時に取っ払ってしまうほどの力があるのではないかと思います。
日頃そういうところにしょっちゅうアクセスしている状態・・・だと思っています。
ですから、冒頭にも書いたように、「脳の発達に良い」(これも大切ですが)・・以上に、自分の考えをしっかり持って、しかも小さく固定化せず時空を超えて“人”というものの本質を考え続ける・・(これってどんな職業の人にも大切)・・―――そうして、国際的にもコミュニケーション能力の高い人になっていってもらいたい。。
これ、日本人としての大切な事や日本文化もしっかり持った上でやっていただきたいのです。
むしろそうでなければ、根っこの無い人だと思われるかもしれませんね。
ここからちょっと毒舌蛇足
最近は・・センスなんてクソくらえ(すみません…いささか~いやかなり、乱暴な表現)・・ぐらいに思っています。
センスよくお洒落に弾くことにどれだけの価値があるのか…子供の時は盆栽のように小さく刈り込まないで、輝く生命力をもっと大切に育てるべきではなかろうか?・・ましてやどんなにきれいでも呼吸をしていない造花ではダメなわけで、野に咲く花のように自然に息づいているものであってほしい・・
それと同じ思いで発言された(と思われる・・)のが
「アメリカナイズされた上手いダンスなんて見たくねぇんだよ。もっと不器用なヤツのダンスが見てぇ。そんな奴ら集めてワークショップしてぇなぁ」という世界的ダンサーの声。
「本当にそうですよね!」と、私なぞが言うのも恐れ多いほどすごい方なのですが、普段は地図にもかけないくらい山奥に住んで畑仕事をしていらっしゃるそうです。
これもすごく頷けるんです。。(オマエに何が分かるんだという声が聞こえてきそうですが・・(汗))
先日、兵庫県立美術館で観た“フェルディナンド・ホドラー展”・・スイスを代表する画家ですが、一般的に有名かどうかは分かりません。
倉敷の大原美術館にも収蔵されていて、大変印象深い「木を伐る人」というタイトルの作品があります。
「鼓動を打つように、描いた」「リズムの絵画へ―踊る身体、動く感情」「自然と響きあう生命―ホドラーの芸術」
等々ホドラーの作品群の核心をつくサブタイトルの数々ですが、身体そのもの、躍動する生命体としての体の動きそのものがリズムであり生きている事、、この「木を伐る人」の動きは、世界的なダンサーの目指すことそのものなのではないかと思います。
・・って、私直接お話したことは無いのですが、親しい人が直接何度もお話したことがある人で、ホントホント!と頷きあってしまいます。
素敵な事は悪いことではありません。素敵な事は素敵・・だけど、そこで満足していたら深いところに入ってゆけないので、更にその先の世界があるのだということ。
子供たちには「研ぎ澄ませ」(これはかなり大きくなった子)、「ミクロとマクロの視点を持て」、そして「音符の向こうの世界を感じ表現しよう」・・そんなことを言っています。
簡単に知った気になってはいけません。
ちょっとカッコよく弾けたり、賞をもらったことで慢心するよりは、自分ってダメだなぁ、まだまだだなぁ、と感じている人の方が、理解というか悟ることが近付いていると思います。
表面上の上手さではないのです。
ソクラテスが言うように「無知の知」・・知らないということを知っている人の方がよほど知っていて賢い・・そう思っています。
―――ちょっと寄り道ですが、ソクラテス・・そんなに深く知っているわけだはありませんが、「無知の知」「ただ生きるな。より善く生きよ」「人生の目的は魂の世話をすることである」・・もうこれだけで、ほんとうに‼‼・・と、頷いてしまう私って単純な理想主義と言われるかもしれないけど、歳とればとるほどにそう思えます。やっぱりソクラテス大好き!宮沢賢治くらい好きだわ。河合隼雄先生も! そんなこと考える毎日(笑)―――
「楽譜を表面上達者に弾くことにどのような意味があるのだろうか。そこに縛られてしまっては本当に見るべきもの聴くべきものから遠ざかってしまうのではなかろうか?」また「コンクールにおいて評価基準となるものの中に、そういった深い思考に基づいたものを聴きとって貰っているのだろうか?」「型押しされた一見綺麗な一見良い音の演奏に評価が偏ってはいないだろうか?」
人の前で演奏する訳ですから、お料理と同じで誠意をつくし、見た目も美しくなければなりませんが、果たしてそれだけで良いのか?
思い違いをしないで頂きたいのですが、楽譜を適当に読むということとは全く違います。
むしろもっともっと楽譜を深いところまで読めるようになりたい・・もちろんそんな簡単なことではありません・・自分自身もそんなにできている訳ではないです・・表面的な字面ではないということ。。
分析もしなくてはなりません。時代背景。人物像。同時期の他の芸術活動や政治情勢。影響を与えた作品や人物。
多くの考察は大切です。
しかしまた、子供たちの演奏に生気がないことを感じる事も多々あるのも事実です。
子供たちも方法論に頼って演奏しようとする子が増えてきています。
そうではなくまず味わう。
しっかり食らいつく。咀嚼する。
それから考える。分析し秩序立てる。
最終的にはその向こうの世界を見る地点に立つ。
心を開放する。
何だかね・・・色々感じてしまいます。
「流暢に英語が話せる事よりも、何を語っているかと言う内容が大切」
海外に留学したり、国際線のCAさんだったり、そんな方々も、これは凄く頷かれます。
語るべき内容のともなわない言葉では相手にされません。
多少まずい英語(他の言語も)でも、その人となりが大切で、人としてどうあるのか、人として何が語れる人物なのか、そこが重要なのです。
音符の向こうにある世界―――ちょっと補足します。分かりにくいかも知れないので。。
作曲者が何かに感動し、ああ!~そう思ったものを音符として表現したらそうなった~それが楽譜として表現されている世界。
作曲者が違えばまた違うものになるでしょう。もちろん国籍にもよります。ドレミファソラシド・・を使ったらこういう表現となった。その世界観を追体験しているということ。
では、国も違い楽器も違ったら、、お琴なら、バラライカなら、ガムランなら、バグパイプなら、、表現したいものに適した楽器による特性もあるでしょうが、とにかく
「その心は?」
なのだと思います。
あらら、、言葉の芸である“なぞかけ”みたいですね。
一番大切なのは「その心」だと、みんなずーーっと長いあいだ思ってきたのでしょう。
103歳の医師、日野原先生も「いちばん大切な贈り物は“心”である」、と、講演会の冒頭でスクリーンから語りかけていらっしゃいました。
楽譜から「その心」を読む。。でしょうかね
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