1876年(明治9年)1月30日、花岡山にてキリスト教を信じる熊本洋学校の35名が、奉教趣意書にサインをしました。
熊本洋学校は、生徒の自主性を重んじる学校で、途中で女生徒も入ってきました。
アメリカ人の教師ジェーンズを通して、キリスト教に出会い生徒たちが信じたのです。
初め、バイブル研究会は英語で行われていたので、他の者たちにはわかりませんでしたが、公然と礼拝が行われるようになり、だんだん家族たちにも分かってきました。
明治8年になると、家族からキリスト教の研究禁止が言い渡されるようになったのです。
奉教趣意書にサインした者の中には、キリスト教だと誤解されて暗殺された横井小楠の息子である伊勢時雄や、従兄弟の徳徳富猪一郎(蘇峰)もいました。
そのため、家族から棄教するように迫られましたが、誰一人棄教しなかったのです。
伊勢の母親は、信仰を捨てなければ自害するとまで言って迫ったのです。
キリスト教の書籍は、焼かれ実家の座敷牢に入れられた者や、石を投げられた者もいました。
親族会議が開かれ、伊勢は、キリスト教の坊主にさえならなけれが、精神的なものだから、 信仰を 許すと言う許可が出たのです。
ジェーンズの任期が切れるとともに、熊本洋学校は閉鎖され、多くの者たちが京都の同志社に入りました。
彼らを、熊本バンドと言います。
伊勢時雄は、明治12年同志社を卒業して今治で、伝道者として活躍しまし、後に、同志社の社長や政治家になりました。