まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

変わらないものはないということは変わらない

2010-05-06 19:31:05 | 哲学・倫理学ファック
先日この 「哲学・倫理学ファック」 のカテゴリーのなかで、
「Q.変わらないものはないのか?」 という質問にお答えしました。
その問いに対して、
「A.変わらないものはありません。」
と答えさせていただきました。
よくよく考えた末に、そのようなお答えにさせていただいたのですが、
実を言うと、草稿段階では別の答えも用意していました。
しかし、けっきょくその草稿は収拾がつかなくなってしまったので、
答えを単純化して、前回のように答えることにしたわけです。
草稿段階の答えはこんな感じでした。

「A.変わらないものはありません。
   しかし、変わらないものはない、ということだけは永遠に変わらないのです。」

否定語ばかりでさっぱり意味が頭に入ってこない人もいるかもしれないので、
こんなふうに言い換えましょう。

「A.すべてのものは変わりゆく、ということだけは変わらぬ真理なのです。」

ちょっとはすっきりしたかもしれません。
この答えのほうがカッコイイかなあと思って、
これを中心にブログを書いていたのですが、
書き進めていくうちに暗礁に乗り上げてしまったのです。
暗礁に乗り上げてからやっと気づきました。
あ、これは 「クレタ島のうそつき」 のパラドクスだったのだ、と。

以前に、「アキレスと亀」 のパラドクスをご紹介しましたが、
それと似たような難問がギリシア時代から伝えられていて、
「クレタ島のうそつき」 の話もそのひとつです。
それはどういうものかというと、
クレタ島に住むクレタ人が 「この島の人間はみんなうそつきだ」 と言いました。
さて、彼のこのことばはうそでしょうか、本当でしょうか?
というものです。
彼がうそつきだとすると、彼が言ったこのセリフもうそということになり、
すると、クレタ島の人間みんながうそつきではない、ということになってしまいます。
逆に、彼が本当のことを言っているのだとすると、
彼のセリフはうそだったということになってしまいます。
どちらに転んでも矛盾が生じてしまうのです。

え、頭が混乱してなに言ってるかわからない?
ではもっと単純にしましょう。
「私はうそつきです」
この言明はうそでしょうか、真実でしょうか。
この言明がうそだとすると、私はうそをつかないということになりますが、
だとすると 「私はうそつきです」 と言ったことと矛盾してしまいます。
この言明が真実だとすると、私はうそつきなのですが、
その場合は、自分がうそつきであるとは言わないはずです。
やはり、どちらに転んでも矛盾が生じてしまうのです。

このパラドクスはラッセルという20世紀の哲学者が解決しました。
自己言及的な言明をする場合は階層を分けなければならない、
そうしないと真偽の判定ができなくなることがある、というものです。
階層分けの話はここではこれ以上しませんが、要するに、
自分自身を含めた話をしてしまうとパラドクスに陥ることがありますよ、ということです。

そこで元の答えに戻ってみると、
「変わらないものはない、ということは変わらない」 という答えは、
2段階から成る言明になっています。
「変わらないものはない」(=A) という第1段階の言明があり、
それを含めて、「Aという事実は変わらない」(=B) という第2段階の言明をしています。
Aが真だとすると、Bは偽になってしまい、
「変わらないものはない」 ということも変わらなければならなくなってしまいます。
しかしそうすると 「変わらないものがある」 ということになってしまい、
Aを真と仮定した出発点がまちがっていたことになってしまいます。
逆にBが真だとすると、Aは偽になってしまい、
「変わらないものはない」 なんて言ってはいけなかったことになってしまいます。

「クレタ島のうそつき」 のパラドクスにはまりこんでいることに気づいて、
そのパラドクスの説明を始めてしまい、
そうこうしているうちにどんどん話が逸れていって収拾がつかなくなったので、
いったん草稿を破棄して、もっと単純化したバージョンに書き改めたのです。
しかし、破棄した草稿は完全に破棄したわけではなくて、
「余滴ファイル」 として取っておいたので、
せっかくなのでこうして別稿として蘇らせることにしました。
こういった問題は、哲学のなかでも論理学と呼ばれる部門に属していて、
内田詔夫先生が得意としている分野です。
私はこの手の問題は苦手なので、できるかぎり近寄らないようにしていますが、
今回はいつの間にか自分で勝手にこの問題に踏み込んでしまっていました。
文章を書くって本当に難しいことですね。