まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

老いるとは?

2010-05-24 16:04:39 | 生老病死の倫理学
先日、デカルトの 「コギト・エルゴ・スム」 の話をしましたが、
デカルトの 「私は考える、ゆえに私は存在する」 に対抗して、
20世紀のメルロ・ポンティという現象学者が次のようなことを主張しました。
デカルトのように思考や意識ばかりを強調してしまうと、
人間を歪んで捉えることになってしまいます。
人間は本来、身体をもって外界と関わり合いながら生きているのです。
彼はそうしたことの重要性を 『知覚の現象学』 という著作のなかで分析していきました。
そのなかでこんなことを言っています。

「私はできる、ゆえに私は存在する」

訳書ではもうちょっと古めかしい言葉で、
「我為し能う (なしあたう)、ゆえに我あり」 なんて訳されていますが、
英語で言うならば、 ”I can, therefore I am” です。
(『知覚の現象学』 はもともとフランス語で書かれた本ですが…)
つまり、身体を用いていろいろなことが1つずつできるようになっていく、
そうなってこそ初めて私はこの世界のなかに存在していると言えるのである、ということです。
デカルトの問題の立て方と、メルロ・ポンティの問いの立て方は全然違っていますので、
両者を一概に比較することはできないだろうと思います。
ただメルロ・ポンティの 「私はできる、ゆえに私は存在する」 という思想は、
具体的な人間のあり方を考えていく場合にいろいろと参考にできるだろうと思っています。

さて、このメルロ・ポンティの思索にインスパイアされて、
私は 「老いる」 とはどういうことであるのかについて考えたことがあります。
人間はたしかに成長段階においては、ひとつずつできることが増えていき、
それによって自分の存在を確かめていっています。
しかしながら中年期から老年期にさしかかってくると、
それと逆のことが起こってくるわけです。
つまり、今までできたことがだんだんできなくなっていく。
最初からできなければ、できないということに悲しみを感じたりはしないでしょうが、
若い頃にはできたことがしだいにできなくなっていくとしたら、
それは自らの存在が脅かされる感覚を伴うのではないでしょうか。
しかし、だからといって自分の存在を否定してしまうわけにはいきません。
そこで私は 「老い」 というものを次のように表現できるのではないかと考えました。

「私はもうできない、にもかかわらず私は存在する」
”I can’t any more, nevertheless I am”

これまでできたことをひとつずつ喪失していく悲しみ、
にもかかわらず、それに耐えて生きていかなければならない苦しみ、
それが 「老いる」 ということではないかと思うのです。
私もそろそろ 「老い」 に片足突っ込んで、
少しずつ喪失を味わいつつあります。
それについてはまたの機会に記したいと思います。