まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.哲学に必要な視点はなんですか?

2010-05-22 12:14:59 | 哲学・倫理学ファック
これも難しい質問ですね。
哲学の先生によって答え方がいろいろと変わってくるだろうと思います。
私もどう答えようか迷っていたので回答が遅くなってしまいましたが、
今回は次のようにお答えすることにいたしましょう。

A.既成の答えを一度は疑ってみること、それが哲学の出発点です。

デカルトがその昔 「コギト・エルゴ・スム」 と言いました。
「我思う、ゆえに我あり」 なんて訳されたりしますが、
デカルトが 「コギト」 という言葉で表わそうとしたことに対して、
「思う」 という訳語の響きは軽すぎると思うので、
私はせめてこれを 「私は考える、ゆえに私は存在する」 と訳したほうがいいと思っています。

デカルトは方法的懐疑の末に、この唯一の拠り所に到達しました。
方法的懐疑とは、絶対確実なる真理を手に入れるために、
いったんすべてを疑ってみる試みです。
そうしてほんの少しでも疑わしいものはすべて排除していきます。
デカルトによれば、人間の感覚はもちろん、外界の存在や、数学的真理ですら、
すべては疑わしいということになります。
こうやってすべてをとことん疑い排除していった結果、
しかし、こうして私が一切を疑っているという事実だけは疑いえない、という結論に達します。
その事実をデカルトは、コギトと言い表したのです。

どうです、「我思う」 なんていう、
皆さんがぼーっと物思いにふけっているようなイメージとはまったく違うでしょう。
「私は考える」 でもまだ足りないくらいです。
ここははっきりと 「私は疑っている、ゆえに私は存在している」 と訳したいくらいです。
コギトというのはそれぐらい強靱な精神活動のことなのです。
以前に、哲学とは 「知への愛」 であるけれども、
その場合の 「知」 とはイコール 「疑」 なのであると書きました。
哲学にとってはこの 「疑う」 という営みが最も重要なのです。
何でも疑ってかかることができるようになったら、
あなたはもう立派な哲学者だと言えるでしょう。
そうなったときには下手するともう常識的な一般市民として生きていくことは、
難しくなってしまっているかもしれませんが、
みんなからヘンなオジサン、ヘンなオバサンとして一目置いてもらえることはまちがいないでしょう。

なお、ほかにもこんな質問↓を頂戴していましたが、

Q2.哲学の先生は普通の人とココが違うと自分で思うことは何ですか?
Q3.哲学者はどういう性格の人が向いているか?

これらにも同様のお答えを返しておこうと思います。

A2.何でも疑ってかかるところです。
A3.何でも疑ってみることのできる人が向いています。

ふぅ、看護学校の授業も終わってしまったというのに、
全部お答えし切れていない質問が山のように残っていて、ちょっと気がかりだったのですが、
一気に3つも片づけることができました。
みんなは今ごろ看護実習の真っ最中でしょう。
とりあえず哲学のことは置いておいて、
目の前に病気で苦しんでいる患者さんがいることを疑ったりせずに、
これまで看護学校で学んできた知識や技術や心構えをしっかりと信じて、
自分の理想の看護を実践してみてください。