たしか去年の年末も年賀状のあと白河と郡山の看護学校のレポートや試験の採点をしていました。
本来なら2ヶ月くらい前にレポートや答案を届けられているのですから、
とっくの昔に採点も終わっていなければならないはずなのですが、
やはり学期中は毎日の授業に追われてなかなか採点まで手が回りません。
そんなわけで今年もまったく同じことをしているわけです。
というか、前期の相馬の看護学校のレポートの採点だって、
実はついこのあいだやっと終わらせたばかりなのです。
みんな力作を書いてきてくれるので、ついつい読むのと採点するのに手間取ってしまうのです。
今日は相馬の看護学校の 「哲学」 のレポートの中から、3人の力作をご紹介しましょう。
レポートの課題は、「哲学」 の授業で学んできたことの中で、
自分の考えが最も深まったと思えるテーマを1つ以上挙げ、
1.それについて当初どんな 「思い」 や 「感じ」 を懐いていたのか、
2.授業の中でどんなことを学んだのか、
3.それによってどのような 「考え」 へと深まったのか、詳しく述べてください。
さらに、4.今後の自分の人生にどう関わるかといった観点から書き足してもかまいません。
というものです。
たいていみんな1つのテーマだけでは規定字数を満たすことができないので、
3つから6つくらいのテーマを選んで書いてきてくれます。
今回はその中でも、「人間とは何か?」 と 「哲学とは何か?」
というテーマで書いてくれたものをピックアップしてみました。
Aさん
哲学の授業では、哲学とは何か?人間とは何か?というような基礎的なことから医療者として考える死生観について深く考え学ぶことが出来た。今回特に印象的で、授業を聞いて私の考えが変わったことは、人間の生きる意味と人間はなぜ他人を思うことが出来るのかである。授業を聞く前は、病気の人を看病し、病気を治そうとすることに何の疑問も抱いていなかった。それは人間の本能であるとすら思っていた。しかし、授業で人間の発達について考えると弱者を守ろうとするのは他の生物ではない概念であると知った。そもそも、人間とはこの地球上で一番発達している生き物であると思っていたが、別の見方では本能の壊れた生き物であるという見方もあり優れている部分だけではないと知ることができた。
小野原先生の考える人間の特徴で、昔、人類は樹上生活者である猿人類で、狩りを行うために言葉や道具を発達させるうちに脳が発達しさらに高度な言葉(理性)や道具を発達させた。また、狩りを行うスタイルから農耕・牧畜技術を身に付け、貯蓄や保存を行うことで狩りを行わなくても安定した食を保つことができ、時間に余裕を持つことが出来た人間は高度な文明・文化を築いたとある。この発達から、身を守る生存本能や種の繁栄のための性本能など自然界で生きるために必要な本能を失い、人間は生き延びるためにさらに文明・文化を築いた。また、脳の発達に伴い脳が大きくなったことで母親の体内に長くいることが出来なくなり、赤ちゃんは一人では何も出ないうちに生まれてくる。自然界であったら真っ先に標的となり餌食となるが文化によって守られている。このことから、人の生きる意味は、種の生殖繁栄だけでは伝えられない、非遺伝的な適応能力を次の世代に文化を伝えることではないかと考えられ、そのために学習が必要になると授業を通して学ぶことが出来た。
この授業を受けてからは、人間の一番の特徴は、言葉や理性を持っていることだけではなく文化を発展させたことにあると思った。元々は生きるために狩りをして食料を得るために発達させた知能がいつしか生存本能を壊していたのはとても不思議に思った。発達した本能で、人間には目に見えないものまで認識できるようになった。例えば、お腹一杯のライオンは目の前にシマウマが通っても明日生きるための狩りを行わない。しかし、人間は「未来」という存在を認識しているために明日生き続けるために備えるということをする。アリやリスといった生き物も冬を越すために貯蓄をしたりするものもあるが人間ほど長けている生き物はいないのではないかと思う。いつでも美味しい物が食べられる文化は、先人達が築き上げた文化の上に成り立っているのだと思うと、発達させた文明・文化を引き継ぎ、次の世代へと繋ぐことが人間の生きる意味の一つであると感じた。
また、人間のもう一つの特徴として、弱者の世話をすることがある。冒頭で言った私の考えが大きく変わったのはこのことで、人間はなぜ他人を思うことが出来るのか、他人のために個人を犠牲にすることが出来るのか疑問に思っていた。人間の特徴の授業を通じて、他の人たちも人は理性や感情を持っていることが他の生物と違っている部分と思っていた。このことは脳の発達によって本能が壊れ、無くした本能を補うために文化ができたことによって、他の人間を守ることはイコール文化を守ることになることに繋がるのではないかと私は考える。だから、人間は他人を思い・守ることが出来るのだと思った。本能で身を守ることができなくなった人間はひとりで生きることが出来ない、そのために他の誰かと繋がって生きているのではないかと私は考える。また、人間の特徴についての授業の際に「ありがたい話」も聞いて他の誰かの存在の大きさに気付いた。転んだら誰かが手を差し伸べてくれる、消しゴムを落としたら拾ってくれるなどの当たり前と思ってしまうような行動も自然界の決まりではない。自分が生きていることすら当たり前ではない、従って他人のために何かすることは当たり前ではない、本当は他人が自分に何かをしてくれることは有り得る
ことが難しい、だから「ありがとう」は「有り難う」なのだと知ることが出来た。誰かのために何か出来ることは本当に素晴らしいことなのだと気付くことができた。
これまで、人間の生きる意味について考えたことはなかったが、今回の授業を通して考えることができた。私が考える人間の生きる意味とは、発達させた文明・文化を引き継ぎ、次の世代へと繋ぐことが人間の生きる意味の一つであると感じた。人間の生きる意味は、大昔に森を出た時から人間の生きる意味は無限大の可能性を持つようになり、その意味は人によって違っていて日々、変わっていくのだと思った。今回の授業を通して学んだことは、今後の人生において、自分の存在価値や違うライフステージに立った時により良い道を選択するための手段になるのではないかと思う。私は勉強はあまり好きではないが、人間が作り上げてきたこの高度な文化の中で生きるために学習は必要なことなのだと思う。今の私がここに居て、好きなことをして楽しむ生活は自由で素敵ですが、その生活を送るためにはその分の努力やリスクが必要となるのだと思った。そのために、私たちには学ぶことが必要なのだと思ったら、少しは勉強も自分の人生を彩るスパイスのようなものなのだと思うことが出来た。「看護」という文化を学び、次の世代へと繋ぐことは看護師を目指すものとしての使命でもあると思うので、一生学びながら自分も違う誰かにこの経験や知識、心を繋いでいける看護師を目指したいと思う。また、「ありがたい話」で気付いたように、誰かの支援を受けて、自分は助けられているという感謝の気持ちを忘れず、「ありがとう」をきちんと伝えられる人間になりたいと思う。
Bさん
テーマ:①人間とは
私が19歳のころ、すごく悩みが多かった時期がありました。人間って何だろう。なんでこんなに面倒くさいのだろう。何もかもが嫌でした。小学校からよく先生に言われていた、「みんなちがってみんないい」この考え方は何となくそうなのだろう、そう思わなきゃいけないのだろう、と思いながらも人の考えを受け入れることができなかったことも多くありました。
授業の中で、小野原先生の「人間とは」の話を聞いてから、人間は様々な工夫の中から今の人間になって、「本能の壊れた動物である」の説には衝撃を受けました。生きていくことが本能だとすれば、生きる意味を考えて死を意識したりするのは本能が壊れているというのが興味深く、本能を忘れてしまった、不器用な人間を愛しく思いました。また、人間が作り出したものはすべて非遺伝的適応能力で自然によって決定されていない、自由であることは無限の可能性があるというように考えられる、ということも学びました。
私は、自分が悩んでいた時のことを振り返って、とても人間らしい行動をしていたのだと思いました。最近は、人間とは何かを考えることも少なかったのですが、行き詰まって悩んだときには、この人間らしさを思い出して悩んでいる自分のことも好きになれそうな気がしました。また、今回学んだ「人間とは」の考え方は、私にとって人とかかわるときに必要な視点になると思います。まず、自分の知っている常識が世間一般の過半数が知っているものだとしても、必ずしも、その人の知っている常識とは同じではないのかもしれないと疑問に思うことができるからです。その方の学習してきたこと、伝達されてきたことは私と同じはずはないし、本能で獲得するものでないのなら、全く同じということのほうが難しいのではないかと思ったからです。小学校の先生の「みんな違ってみんないい」の言葉が今になってようやく、意味がわかった気がします。
私は、これから看護師という職業に就こうとしています。そこでは異なる生育環境の様々な文化を獲得してきた人たちと出会います。今回学んだ視点を生かして、先入観なく対象となる方を見ていけたら、その人の言葉の意味や、感情をより理解していけるのではないかと思いました。
このテーマの中では私自身が母親という社会的役割を持っているため、母性本能についての話は特に興味深く感じました。「母性本能」とはよく聞く言葉で、母親になれば自然と芽生えるものだと思っていました。子どもは言葉では表せないほどに可愛く、愛しいという気持ちもあります。しかし、母親なのに、意見の対立やタイミングのズレで、瞬間的に子を憎く思うこともあります。自分が子どもを怒ってしまい、祖母のもとへ駆け寄って慰められていたり、「ママと保育園に行かない」といわれると、自分は母親失格ではないか、母性本能が芽生えなかったのではないかと自信を無くしてしまうときもありましたが、講義を受けてから、悩んだり迷ったりしながら、子どもに教えられながら、自分の中の母性観を育み、母親として成長していけばいいのだと思うようになりました。
3年次の母性看護学の実習では、私が受け持った患者さんは、家庭背景に複雑な事情があり、精神的な疾患も持っていました。産後も赤ちゃんよりも自分のことを考える傾向にあるとのことで育児放棄を不安視されていました。もちろん世の中にはそのような悲しいニュースも聞きます。子を持つ母親の立場としては、あってはならないことだと考えています。しかし、本能が芽生えなかったことが原因ではなく、母性本能という文化の環境に触れる機会が少なかったというだけで、生育歴や範囲の環境も大きく影響していると考えました。だからこそ、これからの可能性は無限であると考えました。看護師は患者にとって健康や正常な経過の知識・技術を伝え習得していくための重要な環境因子であるという意識を持って接することで問題点を把握しながらも、患者さんの母性観を育むチャンスを大切にする関わりができると考えました。実習で関わる5日間の中で私にできることは限られていましたが、コミュニケーションの中でその方の促進因子に注目した声かけや、指導の実施を行うことができました。
このテーマの全体を通して感じたことは、文化は自由で無限なものだからこそ文化を正しく理解することが大切だと思いました。正しく理解し、次の世代につなげていくことが人を傷つけることのない思いやりにつながっていくのだと思います。そして、自分なりにたくさん考え獲得した知識を、自分の子供にも時間をかけてしっかり伝えていかなくてはいけないと思いました。看護師としては、自分が患者さんにとっての環境の一部であるとう意識と責任感を持ちかかわっていくことを大切にしたいと思いました。
Cさん
テーマ:「哲学とは/看護と哲学」
1.看護学校で「哲学」の授業があることを何となく知っていて、哲学と看護の結びつきがあり、哲学が看護にどんな意味をもつのかわからなかった。スーツを着たおじいちゃん先生がお堅い授業をするイメージをずっと持っていた。哲学は学んだことがなかったので、多少興味はあったが、授業中絶対眠くなるだろうと覚悟はしていた。
2.「哲学」とは何かという問に対し、『哲学とは根本的に考えること』であることを学んだ。物事が成り立っている根本、土台、前提に対して疑問をぶつける、疑うこと(=発想の転換)だとわかった。あたり前と思っていることに対して、本当にそうなのかと疑い、考えていく学問であることがわかった。また、哲学の授業を受けて、看護師こそが哲学者であるということに衝撃を受けた。ソクラテスは「哲学とは魂の世話をすることである」と言っている。医者は身体の世話、哲学者は魂の世話、そしてその両方の世話をするのが看護師であることを学んだ。
3.4.若い小野原先生が講義してくださり、イメージしていた堅苦しい授業ではなかったので、「哲学」への興味が湧いた。「哲学とは何か」の問いに対し根本的に考えること、すなわち発想の転換であることを学び、物事を少し柔軟に考えられるようになった。当たり前と思っていること自体が当たり前じゃなく、広い視野で物事を捉えるようになった。看護においても、病院が昔から今まで変わらず続けていることやこれにはこうであることに対し、ほんとうにこのままでいいのか、このケアでいいのかと常に考える必要があると考える。ケアを提供する私たちのためである以前に患者さんがより良くケアを受けられることが一番である。病院実習に行くと、ナースコールの呼び出しを受けるのは必ず新人看護師である。おそらく、新人が受けることが風潮で、それこそ当たり前になっている。新人は多くを経験し、学んでいかなければならない。風潮はなかなか変えることは新人の力では難しいかもしれないが、おかしい、なぜだろうという気持ちは持ち続けたい。看護をしていく上で、これでいいのかという視点をもって看護していくことは大切だと思う。また、患者の思いの表出を助けることも看護にとって重要である。患者さんが伝えたいことには看護のヒントが隠されているかもしれない。その人にとって「何をすべきか」を考えること、常に考えることは新しい発想の始まりである。日常のささいなことから発想の転換をして考えてみる。思いがけないひらめきが出てくるかもしれない。また考えを変えれば、イライラせずに楽になるかもしれない。辛いことを少しでもプラスに考えられるようになることも哲学で学んだことである。私自身、「~すべき」人間である。本当にそうかと哲学的思考で自分自身に問うことで、もう少し人生が楽に楽しくなると考える。哲学では考えることは楽しいことだと学び、他の人の意見を聴くことの大切さも学んだ。自分の思いを人に伝えること他の人の思いや考えを聴くことはコミュニケーションで重要になる。相手がどう考え、どう思っているかを聴くことは、より一層物事を根本的に考えられるようになる。私が思っている当たり前が、他の人にとって当たり前じゃないこと、様々な意見があること、人それぞれの価値観や個性があること、これらすべて看護につながると考える。
以上、3名のレポートからの抜粋でした。
いかがだったでしょうか。
どれも力作揃いですね。
私の授業でいろいろと自分に重ね合わせて考えてくれたんだなと嬉しくなります。
さて、こうしてまた逃避している場合ではない。
白河と郡山のレポート採点に取りかからねば!
本来なら2ヶ月くらい前にレポートや答案を届けられているのですから、
とっくの昔に採点も終わっていなければならないはずなのですが、
やはり学期中は毎日の授業に追われてなかなか採点まで手が回りません。
そんなわけで今年もまったく同じことをしているわけです。
というか、前期の相馬の看護学校のレポートの採点だって、
実はついこのあいだやっと終わらせたばかりなのです。
みんな力作を書いてきてくれるので、ついつい読むのと採点するのに手間取ってしまうのです。
今日は相馬の看護学校の 「哲学」 のレポートの中から、3人の力作をご紹介しましょう。
レポートの課題は、「哲学」 の授業で学んできたことの中で、
自分の考えが最も深まったと思えるテーマを1つ以上挙げ、
1.それについて当初どんな 「思い」 や 「感じ」 を懐いていたのか、
2.授業の中でどんなことを学んだのか、
3.それによってどのような 「考え」 へと深まったのか、詳しく述べてください。
さらに、4.今後の自分の人生にどう関わるかといった観点から書き足してもかまいません。
というものです。
たいていみんな1つのテーマだけでは規定字数を満たすことができないので、
3つから6つくらいのテーマを選んで書いてきてくれます。
今回はその中でも、「人間とは何か?」 と 「哲学とは何か?」
というテーマで書いてくれたものをピックアップしてみました。
Aさん
哲学の授業では、哲学とは何か?人間とは何か?というような基礎的なことから医療者として考える死生観について深く考え学ぶことが出来た。今回特に印象的で、授業を聞いて私の考えが変わったことは、人間の生きる意味と人間はなぜ他人を思うことが出来るのかである。授業を聞く前は、病気の人を看病し、病気を治そうとすることに何の疑問も抱いていなかった。それは人間の本能であるとすら思っていた。しかし、授業で人間の発達について考えると弱者を守ろうとするのは他の生物ではない概念であると知った。そもそも、人間とはこの地球上で一番発達している生き物であると思っていたが、別の見方では本能の壊れた生き物であるという見方もあり優れている部分だけではないと知ることができた。
小野原先生の考える人間の特徴で、昔、人類は樹上生活者である猿人類で、狩りを行うために言葉や道具を発達させるうちに脳が発達しさらに高度な言葉(理性)や道具を発達させた。また、狩りを行うスタイルから農耕・牧畜技術を身に付け、貯蓄や保存を行うことで狩りを行わなくても安定した食を保つことができ、時間に余裕を持つことが出来た人間は高度な文明・文化を築いたとある。この発達から、身を守る生存本能や種の繁栄のための性本能など自然界で生きるために必要な本能を失い、人間は生き延びるためにさらに文明・文化を築いた。また、脳の発達に伴い脳が大きくなったことで母親の体内に長くいることが出来なくなり、赤ちゃんは一人では何も出ないうちに生まれてくる。自然界であったら真っ先に標的となり餌食となるが文化によって守られている。このことから、人の生きる意味は、種の生殖繁栄だけでは伝えられない、非遺伝的な適応能力を次の世代に文化を伝えることではないかと考えられ、そのために学習が必要になると授業を通して学ぶことが出来た。
この授業を受けてからは、人間の一番の特徴は、言葉や理性を持っていることだけではなく文化を発展させたことにあると思った。元々は生きるために狩りをして食料を得るために発達させた知能がいつしか生存本能を壊していたのはとても不思議に思った。発達した本能で、人間には目に見えないものまで認識できるようになった。例えば、お腹一杯のライオンは目の前にシマウマが通っても明日生きるための狩りを行わない。しかし、人間は「未来」という存在を認識しているために明日生き続けるために備えるということをする。アリやリスといった生き物も冬を越すために貯蓄をしたりするものもあるが人間ほど長けている生き物はいないのではないかと思う。いつでも美味しい物が食べられる文化は、先人達が築き上げた文化の上に成り立っているのだと思うと、発達させた文明・文化を引き継ぎ、次の世代へと繋ぐことが人間の生きる意味の一つであると感じた。
また、人間のもう一つの特徴として、弱者の世話をすることがある。冒頭で言った私の考えが大きく変わったのはこのことで、人間はなぜ他人を思うことが出来るのか、他人のために個人を犠牲にすることが出来るのか疑問に思っていた。人間の特徴の授業を通じて、他の人たちも人は理性や感情を持っていることが他の生物と違っている部分と思っていた。このことは脳の発達によって本能が壊れ、無くした本能を補うために文化ができたことによって、他の人間を守ることはイコール文化を守ることになることに繋がるのではないかと私は考える。だから、人間は他人を思い・守ることが出来るのだと思った。本能で身を守ることができなくなった人間はひとりで生きることが出来ない、そのために他の誰かと繋がって生きているのではないかと私は考える。また、人間の特徴についての授業の際に「ありがたい話」も聞いて他の誰かの存在の大きさに気付いた。転んだら誰かが手を差し伸べてくれる、消しゴムを落としたら拾ってくれるなどの当たり前と思ってしまうような行動も自然界の決まりではない。自分が生きていることすら当たり前ではない、従って他人のために何かすることは当たり前ではない、本当は他人が自分に何かをしてくれることは有り得る
ことが難しい、だから「ありがとう」は「有り難う」なのだと知ることが出来た。誰かのために何か出来ることは本当に素晴らしいことなのだと気付くことができた。
これまで、人間の生きる意味について考えたことはなかったが、今回の授業を通して考えることができた。私が考える人間の生きる意味とは、発達させた文明・文化を引き継ぎ、次の世代へと繋ぐことが人間の生きる意味の一つであると感じた。人間の生きる意味は、大昔に森を出た時から人間の生きる意味は無限大の可能性を持つようになり、その意味は人によって違っていて日々、変わっていくのだと思った。今回の授業を通して学んだことは、今後の人生において、自分の存在価値や違うライフステージに立った時により良い道を選択するための手段になるのではないかと思う。私は勉強はあまり好きではないが、人間が作り上げてきたこの高度な文化の中で生きるために学習は必要なことなのだと思う。今の私がここに居て、好きなことをして楽しむ生活は自由で素敵ですが、その生活を送るためにはその分の努力やリスクが必要となるのだと思った。そのために、私たちには学ぶことが必要なのだと思ったら、少しは勉強も自分の人生を彩るスパイスのようなものなのだと思うことが出来た。「看護」という文化を学び、次の世代へと繋ぐことは看護師を目指すものとしての使命でもあると思うので、一生学びながら自分も違う誰かにこの経験や知識、心を繋いでいける看護師を目指したいと思う。また、「ありがたい話」で気付いたように、誰かの支援を受けて、自分は助けられているという感謝の気持ちを忘れず、「ありがとう」をきちんと伝えられる人間になりたいと思う。
Bさん
テーマ:①人間とは
私が19歳のころ、すごく悩みが多かった時期がありました。人間って何だろう。なんでこんなに面倒くさいのだろう。何もかもが嫌でした。小学校からよく先生に言われていた、「みんなちがってみんないい」この考え方は何となくそうなのだろう、そう思わなきゃいけないのだろう、と思いながらも人の考えを受け入れることができなかったことも多くありました。
授業の中で、小野原先生の「人間とは」の話を聞いてから、人間は様々な工夫の中から今の人間になって、「本能の壊れた動物である」の説には衝撃を受けました。生きていくことが本能だとすれば、生きる意味を考えて死を意識したりするのは本能が壊れているというのが興味深く、本能を忘れてしまった、不器用な人間を愛しく思いました。また、人間が作り出したものはすべて非遺伝的適応能力で自然によって決定されていない、自由であることは無限の可能性があるというように考えられる、ということも学びました。
私は、自分が悩んでいた時のことを振り返って、とても人間らしい行動をしていたのだと思いました。最近は、人間とは何かを考えることも少なかったのですが、行き詰まって悩んだときには、この人間らしさを思い出して悩んでいる自分のことも好きになれそうな気がしました。また、今回学んだ「人間とは」の考え方は、私にとって人とかかわるときに必要な視点になると思います。まず、自分の知っている常識が世間一般の過半数が知っているものだとしても、必ずしも、その人の知っている常識とは同じではないのかもしれないと疑問に思うことができるからです。その方の学習してきたこと、伝達されてきたことは私と同じはずはないし、本能で獲得するものでないのなら、全く同じということのほうが難しいのではないかと思ったからです。小学校の先生の「みんな違ってみんないい」の言葉が今になってようやく、意味がわかった気がします。
私は、これから看護師という職業に就こうとしています。そこでは異なる生育環境の様々な文化を獲得してきた人たちと出会います。今回学んだ視点を生かして、先入観なく対象となる方を見ていけたら、その人の言葉の意味や、感情をより理解していけるのではないかと思いました。
このテーマの中では私自身が母親という社会的役割を持っているため、母性本能についての話は特に興味深く感じました。「母性本能」とはよく聞く言葉で、母親になれば自然と芽生えるものだと思っていました。子どもは言葉では表せないほどに可愛く、愛しいという気持ちもあります。しかし、母親なのに、意見の対立やタイミングのズレで、瞬間的に子を憎く思うこともあります。自分が子どもを怒ってしまい、祖母のもとへ駆け寄って慰められていたり、「ママと保育園に行かない」といわれると、自分は母親失格ではないか、母性本能が芽生えなかったのではないかと自信を無くしてしまうときもありましたが、講義を受けてから、悩んだり迷ったりしながら、子どもに教えられながら、自分の中の母性観を育み、母親として成長していけばいいのだと思うようになりました。
3年次の母性看護学の実習では、私が受け持った患者さんは、家庭背景に複雑な事情があり、精神的な疾患も持っていました。産後も赤ちゃんよりも自分のことを考える傾向にあるとのことで育児放棄を不安視されていました。もちろん世の中にはそのような悲しいニュースも聞きます。子を持つ母親の立場としては、あってはならないことだと考えています。しかし、本能が芽生えなかったことが原因ではなく、母性本能という文化の環境に触れる機会が少なかったというだけで、生育歴や範囲の環境も大きく影響していると考えました。だからこそ、これからの可能性は無限であると考えました。看護師は患者にとって健康や正常な経過の知識・技術を伝え習得していくための重要な環境因子であるという意識を持って接することで問題点を把握しながらも、患者さんの母性観を育むチャンスを大切にする関わりができると考えました。実習で関わる5日間の中で私にできることは限られていましたが、コミュニケーションの中でその方の促進因子に注目した声かけや、指導の実施を行うことができました。
このテーマの全体を通して感じたことは、文化は自由で無限なものだからこそ文化を正しく理解することが大切だと思いました。正しく理解し、次の世代につなげていくことが人を傷つけることのない思いやりにつながっていくのだと思います。そして、自分なりにたくさん考え獲得した知識を、自分の子供にも時間をかけてしっかり伝えていかなくてはいけないと思いました。看護師としては、自分が患者さんにとっての環境の一部であるとう意識と責任感を持ちかかわっていくことを大切にしたいと思いました。
Cさん
テーマ:「哲学とは/看護と哲学」
1.看護学校で「哲学」の授業があることを何となく知っていて、哲学と看護の結びつきがあり、哲学が看護にどんな意味をもつのかわからなかった。スーツを着たおじいちゃん先生がお堅い授業をするイメージをずっと持っていた。哲学は学んだことがなかったので、多少興味はあったが、授業中絶対眠くなるだろうと覚悟はしていた。
2.「哲学」とは何かという問に対し、『哲学とは根本的に考えること』であることを学んだ。物事が成り立っている根本、土台、前提に対して疑問をぶつける、疑うこと(=発想の転換)だとわかった。あたり前と思っていることに対して、本当にそうなのかと疑い、考えていく学問であることがわかった。また、哲学の授業を受けて、看護師こそが哲学者であるということに衝撃を受けた。ソクラテスは「哲学とは魂の世話をすることである」と言っている。医者は身体の世話、哲学者は魂の世話、そしてその両方の世話をするのが看護師であることを学んだ。
3.4.若い小野原先生が講義してくださり、イメージしていた堅苦しい授業ではなかったので、「哲学」への興味が湧いた。「哲学とは何か」の問いに対し根本的に考えること、すなわち発想の転換であることを学び、物事を少し柔軟に考えられるようになった。当たり前と思っていること自体が当たり前じゃなく、広い視野で物事を捉えるようになった。看護においても、病院が昔から今まで変わらず続けていることやこれにはこうであることに対し、ほんとうにこのままでいいのか、このケアでいいのかと常に考える必要があると考える。ケアを提供する私たちのためである以前に患者さんがより良くケアを受けられることが一番である。病院実習に行くと、ナースコールの呼び出しを受けるのは必ず新人看護師である。おそらく、新人が受けることが風潮で、それこそ当たり前になっている。新人は多くを経験し、学んでいかなければならない。風潮はなかなか変えることは新人の力では難しいかもしれないが、おかしい、なぜだろうという気持ちは持ち続けたい。看護をしていく上で、これでいいのかという視点をもって看護していくことは大切だと思う。また、患者の思いの表出を助けることも看護にとって重要である。患者さんが伝えたいことには看護のヒントが隠されているかもしれない。その人にとって「何をすべきか」を考えること、常に考えることは新しい発想の始まりである。日常のささいなことから発想の転換をして考えてみる。思いがけないひらめきが出てくるかもしれない。また考えを変えれば、イライラせずに楽になるかもしれない。辛いことを少しでもプラスに考えられるようになることも哲学で学んだことである。私自身、「~すべき」人間である。本当にそうかと哲学的思考で自分自身に問うことで、もう少し人生が楽に楽しくなると考える。哲学では考えることは楽しいことだと学び、他の人の意見を聴くことの大切さも学んだ。自分の思いを人に伝えること他の人の思いや考えを聴くことはコミュニケーションで重要になる。相手がどう考え、どう思っているかを聴くことは、より一層物事を根本的に考えられるようになる。私が思っている当たり前が、他の人にとって当たり前じゃないこと、様々な意見があること、人それぞれの価値観や個性があること、これらすべて看護につながると考える。
以上、3名のレポートからの抜粋でした。
いかがだったでしょうか。
どれも力作揃いですね。
私の授業でいろいろと自分に重ね合わせて考えてくれたんだなと嬉しくなります。
さて、こうしてまた逃避している場合ではない。
白河と郡山のレポート採点に取りかからねば!