まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

今さら地デジ対応

2010-05-16 12:07:29 | お仕事のオキテ
今日やっと地デジ対応を果たしました。
もうずいぶん前から、地上アナログ放送が2011年で終了し、
完全に地上デジタル放送に切り替わってしまうので、
早めに地デジ対応しておきましょう、という声があちこちから聞こえてきていました。
最近ではテレビをつけるたびに、上記のお知らせが出てきたり、
画面の右上にずーっと 「アナログ」 の文字が浮かび上がっていたり。
それゆえ、早いとこ地デジ対応しないとなあとは思っていたんですが、
ずっと先送りしていたんです。

ところで、今回別にテレビを新たに買ったわけではありません。
もうずいぶん前のことになりますが、それまで使っていたテレビが壊れてしまって、
買い換えなければいけなくなり、
ちょうど妻の弟さんが家電販売店に勤めていて、
テレビの販売を担当しておりとても詳しかったものですから、
彼に相談しながら新しいテレビを選んだのです。
当時、私はまだ地デジがなんのことかもわかっていませんでしたが、プロの助言を得て、
地デジ化は必至なのだからと、地デジに対応している最新の機種を買ったのでした。
保証書を見てみたら購買日はなんと2005年の2月となっています。
なんともう5年以上も前から地デジ対応のテレビを持っていたんですか、私は。
ツヨシ君が地デジ大使になったり辞めさせられたりするずっと前から、
私はちゃんと地デジ対応していたんじゃありませんか。

しかし、あまりに時代に先駆けすぎていて、
当時まだ福島では地デジ放送が開始されていませんでした。
そのためとりあえずアナログ放送の設定だけして、最新のテレビを使い始めていたのです。
そして、そのまま今日に至ってしまいました。
福島でいつから地デジ放送が始まったのか知りません。
テレビに 「アナログ」 の文字が浮かび上がってからもうずいぶん経つ気がします。
たぶんその頃から福島も地デジ化されていたのでしょう。
しかし、どうやったら地デジ放送が見られるのかわかりません。
リモコンのボタンをテキトーにいじって、
地デジ放送見られないかなあと試したことはありましたが、
何も映らないまま、けっきょくアナログ放送に戻ってしまっていたのです。
取扱説明書はちゃんと取ってありますから、それを見れば地デジの見方がわかる、
ということも頭では理解していたのですが、
「明日できることは今日やらない」 がモットーのぐうたらな私は、
すべてほったらかしにして今日に至ってしまいました。

で、今日たまたまいつも足を踏み入れない書斎に入らなければいけない用があり、
そこでたまたま取説をしまってある箱に目が行って、地デジ対応のことを思い出したのです。
取説を取り出して熟読してみると、やはり地デジ放送の設定をしていないのが、
見られなかった要因のようです。
書いてあるとおりにやってみたら、ほんの数分で設定は完了しました。
いよいよ待望の地デジ放送を視聴してみると、
なんだか画像がものすごくくっきりしているじゃないですか。
そういえば買うときに、いろんな機種の画像を見比べてみて、
弟さんイチオシのSONYのWEGAに決めたのでした。
このテレビの真価は、地デジ放送を見てこそ発揮されるのだったようです。
今、アナログ放送と地デジ放送を見比べてみると、
まるで写メで撮った写真と、ちゃんとデジカメで撮った写真くらい違っています。
アナログ放送ではけっこう二重映りとかしていたんだなあということが、
比べてみてやっとわかりました。
テロップの文字なんかものすごくくっきりはっきり読み取れます。
なんてもったいないことをしていたんでしょうか。
アナログ放送で録画しちゃった番組とかもけっこうあったじゃないですか。
なにやってるんだろう、私は。
「明日できることは今日やらない」
このモットーをなんとかしなきゃいけないようですね。

満腹感

2010-05-15 09:57:06 | がんばらないダイエット
3月あたりから始めた 「朝だけ断食」 = 「石原式基本食」 ですが、
未だに続いているんです。
もろもろの事情により、「昼食にざるそば」 というのができないことがたまにありますが、
「朝は生姜紅茶または野菜ジュース」 だけにするというのは完璧に続けています。
いろいろとがんばらずにすむダイエットに挑戦してことごとく失敗し、
どれ1つとして1ヶ月以上続いたことのなかった私としては、異例なことと言っていいでしょう。

この成功 (今のところという意味ですが) の要因を分析してみたところ、
ひとつのことが思い当たりました。
最近、私は満腹感を感じるようになっているのです。
これが 「朝だけ断食」 を続けられている最大の要因だと思うのです。
皆さん驚かれるかもしれません。
えっ、今まで満腹感を感じたことがなかったの?
まあ、まったく感じたことがないというわけではありませんが、
満腹感を感じたあとも食べ続けることができたのです。
それって正しい意味での満腹感ではありませんよね。

一番顕著な例はビールです。
食事時にビールを飲むとお腹いっぱいになっちゃう、ということを言う人がよくいましたが、
私にはその意味がまったくわからなかったのです。
私はビール大好きですから、ビールを延々と飲み続けることができました。
ビール好きだから延々と飲み続けることができるけど、
その代わりにおつまみはそんなに要らない、という人もいますが、
私はビール飲みながら、酒の肴もバンバン食べられました。
宴会のあいだ中、ずーっとビールとおかずを頼み続けたりすることができたのです。
ところが最近、たぶん今年のどこかの時点からだと思うのですが、
最初にビールを一杯飲んだら、それでもうけっこうお腹がふくれてしまい、
料理を食べ続けるためにこれでビールはやめておこうと、
あとは焼酎ロックに切り替えるなんていうことをするようになってしまったのです。

ほかにも、餃子とかカレーとか好きなものは無限に食べ続けられるような気がしていたものです。
「餃子会館」 とかに行ったら、焼、焼、水、焼、焼、みたいに、
ビールとともにいつまでも食べ続け、最後はラーメンで締めるという感じでした。
ところが最近では焼き餃子を2皿も食べたらもう死ぬほどお腹いっぱいになってしまい、
翌日にダメージが残るくらいです。
家でカレーを作ると後を引いてしょうがなくって、4杯も5杯も食べ続けたものでしたが、
これも最近では2杯食べるのがやっとです。

飲み会を一次会、二次会、三次会と楽しんで、
それぞれで最後は焼きうどんやチャーハンとかで締めていたにもかかわらず、
さあ解散しようかとなると、じゃあ締めにラーメンでも食べに行くかとなってしまい、
「一心亭」 とかに入っちゃうと、あろうことか替え玉までしてしまうという体たらくだったんです。
それはもう飲み会があったときの習慣と化してしまっていますから、
お開きとなるとなぜか足がラーメン屋のほうに向かってしまうのですが、
ベロベロに酔っぱらっているにもかかわらずそこで、
待てよ、別に今ムリしてラーメン食べなくてもいいんじゃない、
と店の前を素通りすることができるようになりました。
それは理性の力がついてきたというよりも、
現に満腹感を感じているので我慢できるようになったということにすぎないのです。

「朝だけ断食」 = 「石原式基本食」 の場合、
夕食はなにをどれだけ食べても自由なので、まあそれも続いている要因のひとつだと思いますが、
それと同時に、夜にめいっぱい食べたものが翌朝も残っている感じで、まだ満腹感が続いているんです。
だから朝なにも食べなくても大丈夫なのです。
以前は、朝目覚めたらもうお腹が空いていて、
ここ10年近く、毎朝必ずカップラーメンか袋メンを食べていました。
こんなのゼッタイ身体に悪いと思い、ときどき、朝は納豆と豆腐にしようとか、
リンゴとかバナナとか果物を摂るようにしようと決意することがあったんですが、
それも3日ともたず、すぐにインスタントラーメンに逆戻りしていました。
せめて 「辛ラーメン」 とかにしてカプサイシンを摂取することによって、
この悪習を少しでも正当化しようなんて小賢しいことをしていたんですが、
今ではその必要もなくなりました。
朝、お腹が空いていないのでラーメンなんて食べなくても全然OKなのです。

それにしても、なぜ突然この満腹感がやってきたのでしょうか?
あるいは逆に言えば、今までなぜ満腹感がなかったのでしょうか?
ひとつの仮説は、私は胃下垂なのでそのせいで満腹感を感じることができなかった、
ということが考えられますが、
とすると、今はその胃下垂が治ったということなのでしょうか。
しかし胃下垂ってそんなに突然治ってしまったりするものなのでしょうか。
もうひとつの仮説は、まさおさまも老いたのだ、というものです。
加齢による身体の変調。
うーん、これはいかにもありそうですね。
お年寄りって皆さん小食ですからね。
喜ぶべきか、悲しむべきか。
とにかく、48年目にして初めて満腹感を覚えるようになった男の物語でした。

可逆的冬? or 不可逆的梅雨?

2010-05-14 17:47:42 | グローバル・エシックス
ちょうど先週の今日、「不可逆的春」 になったのかという話を書いていました。
あれから1週間経って今日、今年最後の相馬ドライブに行ってきたわけですが、
今日は先週と比べたらありえなく寒かったですね。
今週の火曜日くらいからでしょうか、
なんだかまた冷え込んできてしまっているではないですか。
暖かかったのは先週1週間だけでしたね。
やはりあれは 「可逆的春」 にすぎなくて、
ひょっとしてまた冬に戻ってしまうのでしょうか?
いくらなんでも、それはもうイヤですよ。
ゴールデンウィークも過ぎて、5月半ばだというのに、また雪が降ったり?
いやいや、まあさすがにそれはないでしょう (と思いたい)。
もともと福島は、梅雨にそうとう冷え込む土地柄ですから、
春がかけ足で過ぎ去って、不可逆的に梅雨に突入しつつあるのかもしれません。
冬に逆戻りするのに比べたら、季節が進んで入梅してくれたほうがいいですが、
しかし、春がたったあれっぽっちというのはさみしかったですね。

相馬看護学校にはこれまでもう7年通って、今年は8年目だったのですが、
これまでの7年間は必ず、相馬ドライブをしている2ヶ月のうちに、
カーエアコンの切り替えを行ってきました。
つまり、4月の最初のうちはまだまだ寒くてエアコンを暖房で使っているのですが、
ゴールデンウィーク明けぐらいになると、
行きは問題ないのですが、相馬に着いて授業をしているあいだ駐車場に停めておくと、
帰りはもう真夏と同じようにクルマのなかはものすごい高温になっていて、
窓を開けて走るくらいではどうしようもなくて、
エアコンを冷房に切り替えて使い始める、ということになっていたのです。
これはもう毎年必ずそうでした。
自宅や研究室ではまだまだ冷房を使うには早過ぎますが、
クルマでは一足先に冷房の季節がやってくるのです。
それによって季節の移り変わりというか、
ああ、不可逆的に春になったんだなあ、ということを感じていたのですが、
今年はとうとう相馬に通うあいだに冷房を使用することはありませんでした。
先週はそうとう暖かかったのですが、授業中に急に雷が鳴って雨がぱらつくなど、
太陽が隠れてくれたためか車内が高温になったりはしませんでした。
今日は冷房どころか、寒くて暖房を入れてしまいました。

こんなことは8年間で初めてですから、
今年の異常気象ぶりがわかるというもんです。
冬に逆戻りしたにせよ、もう春が終わって梅雨に突入していくにせよ、
今年のこの寒さは記録的といっていいでしょう。
しかも地球全体としては温暖化しているなかでの話ですから、
いずれこの冷え込みを取り返して余りあるくらいの暑さがやってくるのでしょう。
こう寒いなかだと、早く暖かくなってほしいと思ってしまいますが、
きっと 「暖かくて幸せ」 なんて言っていられないくらいの熱波が到来するのだろうと思います。
おお、くわばらくわばら。
地球はどうなってしまうことやら。
先日、地球だっていずれなくなってしまうし、
人類もいずれいなくなってしまうんだから、と書いたときには、
その 「いずれ」 は億単位のずっと先のことだと思っていましたが、
案外そんなに先のことではないのかもしれません。
おそるべしっ人類。
地球の寿命までも変えてしまうのかっ
いやいや他人事ではないな。
私が毎週クルマで相馬に通っていたのがいけなかったのかっ
地球、ならぴに、地球上の皆さん、すまんっ

Q.どんな番組を見ますか?

2010-05-13 20:24:12 | 哲学・倫理学ファック
長かったような短かったような、いよいよ明日で相馬看護専門学校の 「哲学」 の講義も終了です。
第1回目の授業のときに皆さんから頂戴した、哲学の先生への質問は、
この講義が終わるまでの2ヶ月の間に全部お答えしてしまいたかったんですが、
今年はミョーにたくさん質問を書いてくれた子が何人かいらっしゃいましたし、
しかもその質問が簡単には答えられないようなイタイ質問ばかりで、
慌ただしいなかで全部お答えすることはとうていできませんでした。
今後、いい解答を思いついたら順次ブログに書き込んでいくようにしますので、
講義が終わってからも 「哲学」 のことを思い出して、
たまにはここをのぞいてみるようにしてください。

さて、講義終了前に最後に取り上げる質問ですが、
今日も1日仕事に追われていて時間がなかったし、
明日はまた早起きして相馬までドライブしていかなければなりませんので、
軽めの質問をチョイスさせていただきます。

Q.どんな番組を見ますか?

軽いにもほどがあるという感じがするかもしれませんが、
まあ今日のところはこれで勘弁してください。

私はものすごいテレビっ子です。
1日中ずーっとボーッとテレビを見て過ごす、なんていうことが平気でできます。
うちの妻は広告代理店に勤めていて、テレビコマーシャルの制作なんかにも携わっていたんですが、
自身はテレビがキライです。
ぼくがボーッとテレビを見ているのも嫌がっていましたし、
自分でテレビをつけることなんてほとんどありませんでした。
そして、けっきょく数年前に引っ越ししたときにテレビを廃棄してしまったのです。
つまり、現在、東京にはテレビがまったくないのです。
週末くらいなら私もなんとか耐えられますが、
年末年始、1週間くらいなんにもテレビを見られなかったりすると、
最後のほうは気が狂いそうになります。
その反動でしょうか、福島に1人でいるときはずーっとテレビを見まくってしまうのです。

どんな番組を見るかという質問でしたね。
一番よく見ているのはお笑い系のバラエティ番組でしょうか。
特に深夜の番組はよく見ています。
ゴールデンタイムにはまだ家に戻っていないことが多いので、
勢い、見られるのは深夜番組ということになってしまうのです。
「ぷっすま」 とか 「アメトーク」 なんかはよく見ていますね。
最近はもう終わってしまったみたいですが、
大泉洋の 「水曜どうでしょう」 なんかも大好きでした。
「エンタの神様」 とか 「爆笑レッドカーペット」 とか 「爆笑オンエアバトル」 など、
漫才番組も大好きなので見られるときは見ていますが、
ちょっと放映時間が私には早いので見逃すことが多いようです。

次はドラマですかね。
これは講義のときに話のネタに使えるかもしれないという職業意識で見ることが多いです。
特に、医療系とか学校系のドラマはできるかぎり見るように心がけています。
ただし、先ほども言ったように時間帯が早いと見られないので、
見落としてしまうということが多いです。
「医龍」 はシーズン1もシーズン2も見ることができましたが、
「コードブルー」 は見逃してしまいました。
けっきょく地上波テレビのドラマは、放送開始前に番宣や広告で気がついて、
ちゃんと予約録画できたときは見ることができるのですが、
初回の放送を見逃してしまうと、そのままあきらめるという傾向が強いです。

今年一番悔やまれているのは、NHK大河ドラマ 「竜馬伝」 です。
大河ドラマっていつも始まるのもっと遅かったような気がするんですが、
今年は1月3日から始まってしまい、テレビのない東京では見ることはできず、
しかもそんな早くに始まると思っていなかったから録画予約もしておらず、
第1回目を見逃してしまいました。
まあ、知り合いに福山サマの大ファンがいるので、
きっと録画しているだろうと思ってタカをくくっていたのですが、
その方のDVDレコーダーがハイグレードなやつで、
私のDVDプレーヤーでは再生できず、
けっきょく、まったく一度も福山サマの坂本竜馬を見られていないんです。
これは大失敗でした。

また、録画はしたんだけれど、ちょっと見てみたら、
内容が重すぎて最後まで見られなかったというドラマも多いです。
「14才の母」 などは倫理学のテーマにも関連しており、
見なきゃいけないと思って録画したんですが、
つらくてつらくて、ちょっと見てはやめて、という感じで、
2話の途中まで行ったところで止まってしまっています。
映画なんかもそうですが、ドラマも軽いやつが好きで、
あんまりテーマや内容が重たいドラマは最後まで見ることができません。
倫理学者としていかがなものかとは思うのですが、
ダメなものはダメなのでしかたがありません。

見ていない番組の話になってしまいましたが、
それに比してちゃんと見ているドラマといえば、
スカイパーフェクTV!でやっている海外ドラマなんかはきちんと見ています。
スカパー!は同じ番組を1週間のあいだに何度も放映してくれるし、
時には週末に一気に7話くらいまとめて放送してくれたりもするので、
少々見逃しても取り返しがつくのです。
「LAW & ORDER」 とか 「LIFE」 などの警察ものや、
「デクスター」 という警察官が連続殺人犯であるというちょっと風変わりなドラマなんかは、
よく見ています。
あと 「BURN NOTICE」 というスパイものは最高に面白かったですね。
これはシーズン1、シーズン2とも全話録画までしてしまいました。
スカパー!では国内ドラマの再放送もしていたりしますので、
その機会にちゃんと録画して全話見るということもしています。
こないだは 「のだめカンタービレ」 をやっと全部ちゃんと見ることができました。

そういえばもともとスカパー!を買ったのは、
ヤクルトスワローズの試合を最後まで見るためで、
以前はソファのところにビールとビニール傘とメガホンを用意して、
試合開始から試合終了まで一生懸命応援していたものでした。
しかし、古田がやめさせられ、高田なんかを監督に連れてきたあたりから、
スワローズ愛が一気に冷めてしまい、
ここ数シーズンは、開幕しても 「プロ野球セット」 を申し込んでおらず、
(スカパー!は見たいチャンネルを申し込まないと見られない)
今年はまだ1試合も見ていません。
昔は開幕すると野球を見るためになんとか早く帰ったりしていたのに、
今日もこの時間に平気でブログを書いていられるなんて、まるで別人のようだ。
こんなこともあるんですね。
プロ野球熱が私のなかで再燃する日は来るのでしょうか?

おっと、またいつの間にか見ていない番組の話になってしまいました。
けっきょくまとめると次のようなお答えになるでしょうか。

A.お笑い系のバラエティや軽めのドラマなど、お気楽な番組ばかり見ています。

最後に選んだ質問が軽めのやつだったばかりでなく、
その答えも軽くってたいへん失礼いたしました
まったく哲学らしさも倫理学らしさも感じられないお答えになってしまいましたね。
いかにも私らしい答えになったと満足しています。
それでは明日、最後の授業でお会いしましょう。

Q.何故いじめがあるのか?

2010-05-12 15:59:24 | 教育のエチカ
これも看護学校の 「哲学」 の授業で頂戴した質問です。
なぜいじめがあるのか?
とても難しい問題ですね。
そして、これは哲学や倫理学の問いというよりは、
心理学や教育学や社会学の問いだろうと思います。
哲学や倫理学なら、そもそもいじめとは何かとか、
いじめはよいことか悪いことか、悪いとしたらなぜいけないのか、
といったふうに問いを立てます。
なぜあるのか、というような原因を問うのは、
心理学や教育学や社会学などのような人文・社会科学のほうでしょう。
それは私の専門ではありませんので、
私などがこの問いに軽々にお答えしてしまうわけにはいきません。
ただ、一昨日ご紹介した清水義範の 『幸せになる力』 の第5章で、
いじめについて触れられていましたので、
それを引用することによってお答えに代えさせていただきましょう。

まず最初に清水氏は次のように述べています。

「いじめ、というものは別に近頃になって出てきたものではなくて、昔からあった。
 つまり、人間には誰かをいじめてしまってそれをいくらか楽しむ、というところがあって、
 ずーっといじめをしてきているんだ。」(p.93)

清水氏のこういう冷徹な視線が好きです。
いじめなんてけっしてあってはならないことです、みたいな甘い道徳論が、
いじめを隠蔽する土壌を作ってしまうのだろうと思います。
人間はそもそもいじめをしてしまう動物なんだ、という人間理解から清水氏は出発します。
これが、いじめはなぜあるのか、の第1の答えだと言えるでしょう。
このような人間理解の上に立って、さらに次のような現状認識が付け加わります。

「昔も今もいじめはあるんだけど、どうも近頃のいじめは、
 一度始まってしまったらとことん追いつめるところまでやってしまうというような、
 歯止めのない感じがする。
 昔はいじめていても、これ以上やったら相手がおかしくなってしまうな、とか、
 これ以上やったらケガしちゃうな、というところで、やめにしたものだ。
 つまり、いじめるにも限度がある、ということをなんとなく子どもが知っていた。
 ところが、新聞にのるような事件、事故になったケースを見ていると、
 いじめに歯止めがなくなっているんだね。
 やり始めてしまったら相手をこわすところまでエスカレートする、
 というような傾向があるらしい。
 そのことが、今のいじめ問題の深刻さなんだと思う。」(p.94-5)

現代のいじめは 「友だちとうまくやっていけない」 なんていう程度ののどかなものではなくなり、
歯止めのきかない、とことんまでエスカレートしてしまうようなものになってきている、
と清水氏は分析しています。
そして清水氏は、なぜ最近のいじめは歯止めがきかなくなっているのか、
その原因も考えています。

「どうしてそんなことになっちゃっているんだろうと考えて、
 子どもがなんだかイライラしているからのような気がするんだよね。
 どうしてイライラしているかというと、自分を自慢に思えないからなんだ。
 つまり、自己肯定ができてないんだよ。
 親からは勉強しろ、勉強しろとばかり言われて、
 でもどう考えても勉強が好きではなくて、
 少しぐらいやったってそう成績がよくなるとも思えず、
 要するに、自分の能力は何もないみたいな気がしてくるんだね。
 この世はお金に不自由しない上層の人と、一生貧乏な下層の人に分かれるんだそうで、
 自分は上層に入れるとはどうしても思えないなんて子は、どうして機嫌よく生きていけるだろう。
 おもしろくない世の中だ、という気がして、
 ついイライラして生きるのは当然のことじゃないか。
 そういうイライラの中から、歯止めのないいじめが出てくるんだよね。
 つまり、おもしろくない人生へのしかえしのように、
 とことんいじめちゃう、ということをしているんだ。」(p.95-6)

これが清水義範氏による、現代のいじめの原因に関する分析です。
この分析がどこまで当たっているのかわかりませんが、
私などはたしかにそうだろうなあと同意できました。

そして清水氏は、「なぜ」 ばかりでなく、
「ではどうするか」 ということに関しても答えを与えてくれています。
第5章のタイトルは 「人は自信が持てた時に優しくなれる」 です。
前回紹介した 「幸せになる力」 の1番目 「自己肯定感から持てる自信」 というのが、
現代のいじめの問題にも大きく関わっている、ということがおわかりいただけるでしょう。
そして、さらに清水氏がエライのは、
「すべての人が幸せで、自己肯定感が持てているならば、
 いじめもそんなにむちゃくちゃなものにはならないはずだ」
という基本主張はありながらも、
そんな世の中がくるのはいつになるかわからないので、
今、現にいじめの対象とされてしまっている子どもたちを助けるために、
5番目の力 「苦境から自分を守るための回避力」 を付け加えているところです。
助けを求め、それでもダメなら逃げる、
そういう具体的なところまで言及しています。
つまり、大きな目標と、当面の手段という2通りの答えを提示してくれているわけです。
たんなる現状分析や理想論を述べるだけでなく、
プラグマティックな具体的手段までちゃんと教えてくれるところが、
清水氏のスゴイところだと思います。
いじめ問題に興味がある方もぜひこの本を読んでみてください。

究極のがんばらないダイエット (その2)

2010-05-11 12:51:31 | がんばらないダイエット
先日、究極のがんばらないダイエット 「ドリーム・ダイエット」 をご紹介しましたが、
このブログとは別の場で、「そんな夢をどうやって見たらいいんだ」 とか、
「運動する夢を見たから心臓がバクバクしたのではなくて、
 寝てるときに心臓がバクバクしてたからそんな夢を見てしまったんじゃない、
 なんか病気なんじゃないの?」
といった反論を数多く頂戴してしまいました。
なるほど、皆さん冷静ですね。
たしかにそうかもしれません。
自分でも、「心臓がバクバクしていた → それに見合ったカロリーを消費したはず」
という推論の部分に若干の脆弱性を感じていた面もあるので、
ドリーム・ダイエットが究極のがんばらないダイエット法であるという結論は、
まだ保留にしておきたいと思います。

しかし、その失敗もさめやらぬうちに、
真に科学的な 「究極のがんばらないダイエット」 を発見してしまったのですっ
みんな喜べっ

以前からちょっと不思議に思っていたことがあったんです。
でも、機械のせいだろうとか、気のせいだろうと、
自分の疑問を封じ込めてしまっていたんです。
私は単身赴任で、福島と東京に住まいがあります。
で、昔 「体重を測るだけダイエット」 というものに挑戦していたころ、
週末に上京したときは当然、東京でも体重を測っていたんです。
ところが、東京で測ると必ず、福島で測ったときよりも体重が軽いのです。
東京に行ったときのほうが、外食とかして暴飲暴食するので、
体重が減る要素が少ないはずなのに、なぜか軽くなっているのです。
都内のほうが電車生活だし、歩く量が多くなっているのかなあ、
でも、それよりも美味しいイタリアンやビールとワインのほうが多かったはずなんだけどなあ、
なんて不思議に思いながら、まあ体重が減ってるのはいいことだから喜んでおこう、
と自分に言い聞かせて福島に戻ってくるわけです。
しかし福島に戻ってまた測ってみると、あれだけ減っていた体重が元に戻っているというか、
むしろ上京前よりも増えてしまっているのです。
なんだよ、東京で痩せたと思っていたのは気のせいだったのかよ、
やっぱあんだけ食ったからなあ、
ちくしょう 東京で使ってるタニタの体重計がいけなかったのか。
売り上げ伸ばそうと思って、体重が軽く出るように仕組んでんじゃねぇの?
などと口汚く機械のせいにしたりしていたわけです。

ところが先日ある方にものすごい情報を教えられてしまったのです。
昔 「トリビアの泉」 でやっていたそうですが、
体重って、測る場所によって増えたり減ったりしちゃうのだそうです。
それには地球の自転が関わっています。
回転すれば遠心力が加わります。
回転軸から離れれば離れるほど回転するスピードは上がり、
したがって加わる遠心力が大きくなります。
北極や南極は軸に近いので遠心力が最小になり、
赤道に近づけば近づくほど遠心力が最大化していくのです。
体重というのは地球の引力に引っ張られることによって生じますが、
それに遠心力が加わると引っ張られる力が減殺され、体重は軽くなるのです。
つまり、極に近ければ近いほど体重は増え、
赤道に近ければ近いほど体重は減るのです。
「トリビアの泉」 では、お地蔵さんを北海道と東京と沖縄に持っていって体重計に乗せ、
たしかに南に行けば行くほど軽くなっていることを実証していたそうです。
東京に行くと体重が減るというのは気のせいでも、機械のせいでもなかったんですね。
素晴らしいっ

というわけで、究極のがんばらないダイエット第2弾、もうおわかりですね。
そうです、名づけて 「南下ダイエット」。
正確に言うと赤道を越えて南下してはいけないわけですが、
まあ、北半球に住んでいる私たちにはこれで十分通じるでしょう。
運動も食事制限もまったく必要ありません。
今のままのあなたでいいんです。
できるだけ南下し、赤道に近づいていきましょう。
それだけで体重が減ってくれます。
北に戻ってきてしまうとリバウンドしてしまいますから、
行ったら行きっぱなしというのが条件です。
日本国内なら沖縄へ、
海外脱出もありならインドネシアやブラジル、スーダンなどに引っ越しましょう。
物理学によって裏づけられた絶対に失敗しない 「究極のがんばらないダイエット」。
今度こそ絶対の自信をもってオススメしますっ

幸せになる力

2010-05-10 21:21:33 | 幸せの倫理学
最近、私のブログの師匠である中間玲子先生がブログを毎日更新されていて、
どの記事も倫理学的観点からしてもたいへん興味深いのでオススメです。
そのなかで先日、清水義範の小説 『いい奴じゃん』 が取り上げられていました。
私はその小説を読んだことがないのですが、ぜひ読んでみたくなりました。
で、そのブログ記事を読んでいて思い出したのですが、
同じ清水義範の 『幸せになる力』 という新書がとてもいい本で、
いずれブログに書こうと思っていたのですが、ずっと忘れていたので、
この機会にご紹介させていただきたいと思います。

本書は、教え魔である清水義範氏が、
子どもたちに幸せになる方法を教えてあげようという意欲作です。
読者として想定されているのは、第1に小中学生。
第2に高校生・大学生。
そして最後に、その親である大人たちです。
小中学生を第1のターゲットとしているだけあって、とても読みやすい文章ですが、
内容はとても深いので、皆さんにもオススメです。

最近流行りの 「勝ち組―負け組」 みたいな二分法を排除して、
幸せになるためのごくごく真っ当なノウハウが披露されていきます。
清水氏は幸せになる力として5つの力を挙げていました。
①自己肯定感から持てる自信 (自分のよさを知って自分を好きになる)
②人の役に立つよろこびから出てくる意欲 (人の役に立つよろこびを知る)
③自分を正確に理解してこそ持てる希望 (自分を正しく知り、希望を持つ)
④社会を理解していってみがく想像力 (社会を知り、想像力をみがく)
⑤苦境から自分を守るための回避力 (本当にまずい状況では助けを求め、逃げる)
どれももっともです。
詳しくはぜひ本書を読んでみてください。

清水義範氏には以前から親近感を感じていたのですが、
本書を読んで、根っ子のところが自分と同じ人なんだということを確信しました。
子どもたちや、その親たちに、
人は誰でも幸せになるべきだし、幸せになることができるのだ、
ということをなんとか伝えようと努力しています。
世界中の子どもたちとその親たち、
そして教育者をめざしているあなたにぜひ読んでもらいたい一冊です。

愛車の新兵器

2010-05-09 19:32:23 | ドライブ人生論
相馬までの長距離ドライブも、残すところあと2回のみとなりました。

今年のドライブは昨年までとちょっと違っています。

私はクルマとタバコは自分でお金を出して買わない主義なので、

今ももらいモノのベンツに乗っているわけです。

これが相当古いクルマで、なんとカーステレオがカセットテープです。

しかたないので、学生の頃に、録音したり、自分で選曲して作ったテープを引っ張り出してきて、

いつも聴いていました。

そろそろCDとかMDのカーステレオに替えようかなあと考えたことはあったのですが、

もうこのクルマも長らく乗っているし、

そろそろ誰かからもっと新しいクルマもらえるんじゃないかなあなんて期待してしまって、

なかなかテープから脱却できずにいたのです。

ところが、ある人のクルマに乗せてもらったときに、

iPod に何かある装置を装着してFM電波に乗せてカーラジオに飛ばし、

カーラジオを通して iPod の音楽を流しているところを目にしました。

なにこれぇと驚喜して聞いてみたところ、

そういう装置がヤマダ電機とかで1万円もしないで売っているそうです。

私は iPod ではないんですが、

ソニーが出している類似商品 (その名もウォークマン) を持っていましたので、

それ用の似たような装置が絶対あるはずと思い、さっそくヤマダ電機に行ってみました。

案の定その手のものが存在し、1万円どころかほんの5、6千円だったので即座にゲットです。

というわけで、カーステレオを買い換えるまでもなく、

わずかな投資で、クルマでお気に入りのCDを聴けるようになってしまいました。

なんだか夢のようです。

でもウォークマンをいちいち外したり付けたりするのはそうとう面倒くさいです。

どなたかちゃんとCD対応のカーステレオがついた比較的新しいクルマが余っている方、

ぜひ私に譲ってください。

寿命が来るまでちゃんと使い倒してあげますよ。

そんなクルマがどこかから降ってくるまでのあいだ、

この新兵器で新しい音楽との接点をはかっていきたいと思います。

究極のがんばらないダイエット

2010-05-08 09:08:12 | がんばらないダイエット
昨夜、うちの大学の理工学類のG先生に連れられて街なかを歩いておりました。
G先生とはそんなに親しいわけではないのですが、なぜかそんなことになったのです。
G先生は、行政政策学類から理工学類に移られた、
すらっと細身で長身のむちゃくちゃカッコイイ方ですから皆さんご存じでしょう。
最近では学内のトイレでよく見かけるかもしれません。
そのG先生と街なかを歩いていたのですが、どこに行くのかわかりません。
黙って先生のあとをついていっておりました。
どこに行くんだろうなあと思っているうちに坂道にさしかかり、
その坂が見る間にものすごい急勾配になって、一歩一歩が苦しいほどになりました。
そうしたら何を思ったのかG先生は軽く走り始めて、どんどん先に行ってしまいます。
さっきまでトロトロ歩いていたくせになんでこんな急坂でジョギング始めるんだよと思い、
「どうしてこんなところで走り始めちゃうのぉ?」 と背中に向かって声をかけると、
軽く振り返りながら 「ここはきついからサクッと通り過ぎちゃいたくて」 と答えて、
どんどん坂を上っていってしまいます。
そりゃそうだけどと思いながら、私は彼のペースにまったくついていけず、
それでもできるかぎりのスピードでこの坂を上っていきます。
街なかになんでこんな急勾配の坂があるんだろう、
クルマはここを上れるんだろうかなどと訝しみながら、やっとゴールが見えてきました。
坂の上で待ってくれていたG先生のところまでフゥフゥ言いながらなんとかたどりつくと、
心臓がバクバクしていて、胸に手を当ててその動悸を確かめながら、
「これって本当に心臓破りの坂だね」 とG先生に向かってグチをこぼしました。



















という夢を昨晩見たのです。
グチをこぼしたところで目が覚めました。
目が覚めても一瞬なんのことかわからず、事態がつかめません。
急な坂を駆け足で上って心臓がバクバクして疲労困憊しているというイメージのままです。
で、起き上がって胸に手を当ててみると、本当に心臓がバクバクしていて、
ものすごく動悸が速くなっています。
ただ頭のなかで夢を見ていただけじゃなくて、その夢によって身体も影響を受けているのです。
映画 『マトリックス』 で、ネオがマトリックスのなかで戦って傷つくと、
現実の潜水艇のなかの本体も口から血を流したりしていたじゃないですか。
あの感覚がよーくわかりました。
運動するときは心拍がある程度以上に上がるように、
強度をコントロールして運動しなきゃいけないって言いますよね。
今回、夢を見ていただけで心拍数が上がっていたのですから、
ということは急な坂を駆け上ったのと同じカロリー消費ができていたのではないでしょうか?

どうです。
これこそ究極のがんばらないダイエットではありませんか。
名づけて 「ドリーム・ダイエット」 です。
「睡眠ダイエット」 にしようかなとも思いましたが、ただ眠っているだけではダメで、
運動する夢 (しかも現実に心拍数が上がるような夢) を見なければいけないので、
ドリーム・ダイエットにいたしました。
とにかく眠って運動する夢を見るだけです。
こんなにがんばらなくていいダイエットが他にあるでしょうか?
残る問題は、このダイエットをどうやったら続けられるかだけですね。

不可逆的春?

2010-05-07 18:20:10 | ドライブ人生論
このところの相馬看護専門学校の授業では、
「可逆的」 「不可逆的」 ということばが飛び交っています。
「可逆的」 とは、逆戻りがありうるという意味で、
すなわち、一時的な、という意味になります。
「不可逆的」 とは、逆戻りがありえないという意味で、
永遠にとか、回復不可能な、という意味になります。
「脳死」 は日本では 「全脳の機能の不可逆的停止」 と定義されていますが、
これはすべての脳の働きが停まってしまって絶対に回復不可能である、という意味です。
脳の機能が可逆的に停止するということはよくあって、
急性アルコール中毒になったり、麻酔をかけられたときなど、
脳の働きは一時的に停止してしまったりします。
可逆的停止であれば、それは回復可能なのでまったく 「死」 ではありませんが、
不可逆的停止となれば、「死」 と言ってもいいかもしれません。
それは、脳死にかぎらず、心停止や呼吸停止に関しても、
可逆的停止なら 「死」 ではなく、不可逆停止のみが 「死」 となるわけです。

おっと、今日はそんな話がしたかったわけではなく、
5月に入ってから暖かい日が続いていますね。
今日は相馬や福島では雨が降ってあいにくの天気でしたが、
それでも気温は20℃を超えています。
気になるのは、これは不可逆的に春になったと言えるのか、ということです。
3月や4月にもけっこう暖かい日が何回かあって、
ああ厳しい冬が去ってやっと春が来たなあ、なんて思っていたら、
その数日後にすぐにまたものすごく冷え込んで、
雪まで降ってしまうということが何度もあったじゃないですか。
そのたびに、なんだ可逆的な春にすぎなかったのか、と落胆したものです。
4月も後半に入って今度こそと思っても、やっぱり可逆的だったり。

しかし、今回はそうとう長持ちしています。
もう1週間以上、暖かい日が続いていますね。
とうとう不可逆的春が来てくれたのでしょうか?
やっとあの厳しい冬は跡形もなく消え去ってくれたのでしょうか?
以前のような地球であれば、これはもう完全に春だと言えると思いますが、
なんせ人類の手によって壊れてしまった地球ですので、
異常気象がどんな現れ方をするか予測不可能です。
私はまだ冬の逆戻りを恐れて、スタッドレスタイヤを替えることができずにいます。

可逆的か、不可逆的かを判断するのに、
時間経過だけでは確実に判定することはできません。
全脳の機能が停止して、6時間経っても戻ることがなければ 「不可逆的停止」 と言えるのか、
あるいは12時間経てばもう絶対に 「不可逆的」 なのか、
それとも24時間経てばさすがにもう 「死」 と呼べるのか、
いくら時間を延ばしてみても、不可逆性は保障されないのです。
この暖かい日々も、1週間続けばもう 「不可逆的」 と言えるのか、
もうちょっと待って10日経てば絶対に春と言えるのか、
やはり、何日続いたから不可逆的に春だと保障することはできないでしょう。
気象学者や気象予報士の皆さんは、気圧配置や寒気団の位置などを見て、
春の訪れを判断なさるのでしょう。
最近、天気予報を見ていないのですが、これはもう不可逆的春なんでしょうか?

どなたか天気予報をチェックしていらっしゃる方、タイヤの替え時を教えてください。
例年は相馬看護学校に通っているあいだの4月のどこかの時点で、
夏タイヤに交換していたのですが、
相馬までの山越えのドライブを考えると、まだ冬の揺り戻しが恐くてタイヤ交換ができません。
あと2回で相馬看護学校の講義も終わりです。
こうなったら最後までスタッドレスで通すべきなんでしょうか?
可逆的かもという心配でタイヤを替えられずにいるチキンな私のお話でした。

変わらないものはないということは変わらない

2010-05-06 19:31:05 | 哲学・倫理学ファック
先日この 「哲学・倫理学ファック」 のカテゴリーのなかで、
「Q.変わらないものはないのか?」 という質問にお答えしました。
その問いに対して、
「A.変わらないものはありません。」
と答えさせていただきました。
よくよく考えた末に、そのようなお答えにさせていただいたのですが、
実を言うと、草稿段階では別の答えも用意していました。
しかし、けっきょくその草稿は収拾がつかなくなってしまったので、
答えを単純化して、前回のように答えることにしたわけです。
草稿段階の答えはこんな感じでした。

「A.変わらないものはありません。
   しかし、変わらないものはない、ということだけは永遠に変わらないのです。」

否定語ばかりでさっぱり意味が頭に入ってこない人もいるかもしれないので、
こんなふうに言い換えましょう。

「A.すべてのものは変わりゆく、ということだけは変わらぬ真理なのです。」

ちょっとはすっきりしたかもしれません。
この答えのほうがカッコイイかなあと思って、
これを中心にブログを書いていたのですが、
書き進めていくうちに暗礁に乗り上げてしまったのです。
暗礁に乗り上げてからやっと気づきました。
あ、これは 「クレタ島のうそつき」 のパラドクスだったのだ、と。

以前に、「アキレスと亀」 のパラドクスをご紹介しましたが、
それと似たような難問がギリシア時代から伝えられていて、
「クレタ島のうそつき」 の話もそのひとつです。
それはどういうものかというと、
クレタ島に住むクレタ人が 「この島の人間はみんなうそつきだ」 と言いました。
さて、彼のこのことばはうそでしょうか、本当でしょうか?
というものです。
彼がうそつきだとすると、彼が言ったこのセリフもうそということになり、
すると、クレタ島の人間みんながうそつきではない、ということになってしまいます。
逆に、彼が本当のことを言っているのだとすると、
彼のセリフはうそだったということになってしまいます。
どちらに転んでも矛盾が生じてしまうのです。

え、頭が混乱してなに言ってるかわからない?
ではもっと単純にしましょう。
「私はうそつきです」
この言明はうそでしょうか、真実でしょうか。
この言明がうそだとすると、私はうそをつかないということになりますが、
だとすると 「私はうそつきです」 と言ったことと矛盾してしまいます。
この言明が真実だとすると、私はうそつきなのですが、
その場合は、自分がうそつきであるとは言わないはずです。
やはり、どちらに転んでも矛盾が生じてしまうのです。

このパラドクスはラッセルという20世紀の哲学者が解決しました。
自己言及的な言明をする場合は階層を分けなければならない、
そうしないと真偽の判定ができなくなることがある、というものです。
階層分けの話はここではこれ以上しませんが、要するに、
自分自身を含めた話をしてしまうとパラドクスに陥ることがありますよ、ということです。

そこで元の答えに戻ってみると、
「変わらないものはない、ということは変わらない」 という答えは、
2段階から成る言明になっています。
「変わらないものはない」(=A) という第1段階の言明があり、
それを含めて、「Aという事実は変わらない」(=B) という第2段階の言明をしています。
Aが真だとすると、Bは偽になってしまい、
「変わらないものはない」 ということも変わらなければならなくなってしまいます。
しかしそうすると 「変わらないものがある」 ということになってしまい、
Aを真と仮定した出発点がまちがっていたことになってしまいます。
逆にBが真だとすると、Aは偽になってしまい、
「変わらないものはない」 なんて言ってはいけなかったことになってしまいます。

「クレタ島のうそつき」 のパラドクスにはまりこんでいることに気づいて、
そのパラドクスの説明を始めてしまい、
そうこうしているうちにどんどん話が逸れていって収拾がつかなくなったので、
いったん草稿を破棄して、もっと単純化したバージョンに書き改めたのです。
しかし、破棄した草稿は完全に破棄したわけではなくて、
「余滴ファイル」 として取っておいたので、
せっかくなのでこうして別稿として蘇らせることにしました。
こういった問題は、哲学のなかでも論理学と呼ばれる部門に属していて、
内田詔夫先生が得意としている分野です。
私はこの手の問題は苦手なので、できるかぎり近寄らないようにしていますが、
今回はいつの間にか自分で勝手にこの問題に踏み込んでしまっていました。
文章を書くって本当に難しいことですね。

地元で働くということ

2010-05-05 23:50:47 | お仕事のオキテ
九州で生まれ、横浜で子ども時代と青年時代を過ごし、

福島に就職してきた私には望むべくもないことですが、

自分が生まれ育った地元で働くというのはきっと楽しいことなのでしょうね。

たまに自分の知り合いと一緒に仕事をすることになったり、

あるいは昔の友だちがお客さんとしてやってきてくれたり。

先日、行きつけの天ぷら屋さん 「ひら井」 で食事をしていたら、

店主のしんさんがこんなことを言ってました。

「地元で長年働いていると、知り合いに支えてもらえるのがありがたいですね。」

なるほど、きっとそうなんでしょう。

しかし、みんな学校時代や駆け出しの頃の知り合いはたくさんいるでしょうが、

だからといってみんながみんな知り合いに力を貸してもらえるとはかぎらないでしょう。

支えてもらえるのは、一所懸命働いて、

みんなが支えてあげたいと思えるような仕事をしているからではないでしょうか。

しんさんはこんなことも言ってました。

「ぼくを知ってる人間が自慢に思ってくれるような人間になりたいですねぇ。」

カッコよすぎるよぉ、しんさん

全東北学生競技ダンス春大会 at 盛岡

2010-05-04 23:59:59 | ダンス・ダンス・ダンス
今日は全東北学生競技ダンス連盟の春大会でした。
この大会はゴールデンウィーク中に開催されるので、
なかなか観戦に来られなかったのですが、
メーデーに参加できたのと同じ理由で、久しぶりに岩手までやってまいりました。

昨日の夕方、盛岡入りしました。
岩手はどんな気候なんだろうと思って警戒してきましたが、
とても暖かくて驚きました。
スーツを着ていると汗ばむほどです。
しかもなんと、盛岡は桜が満開でした。
もう5月だというのにどういうことでしょう。
聞くところによると、やはり今年の桜は遅れていたようで、
例年だとゴールデンウィーク前に桜のピークがきて、
今ごろはもう散りかけているそうです。
福島では桜のピークの時期に雪も降るぐらい寒かったので、
とてもお花見という気分ではありませんでしたが、
これだけ暖かいとお花見もサイコーでしょう。
しかもゴールデンウィーク。
とんだ異常気象でしたが、
盛岡の人々にとっては願ってもないお花見日和になったのではないでしょうか。

さて、昨晩はあちこちと店を替えてえんえんと飲み続けていましたが、
朝はなんとか起きることができました。
珍しくホテルでは朝食つきのプランだったので、
(ダンスの試合のときはたいてい朝食がついていないので、
 前日にコンビニで買っておいた物を食べたりするのですが…)
7時の営業開始とともに朝食バイキングを食べに行きました。
すると、試合の支度を整えた福大の学生たちが大挙して押しかけています。
髪の毛をピッチリ固め、男子はドーラン、女子は厚化粧でメイクアップしており、
さらに女子はラテン用のドレスを着た上にスーツを羽織っているという、
およそ浮世離れしたいでたちです。
(こんな感じ → 男子女子
いくら奇抜とはいえ、彼らだけなら見慣れたものなのでどうということはないのですが、
今朝のバイキングには一般の宿泊客の方々も大勢訪れており、
朝のさわやかな旅行客の皆さんに混ざって、
学生ダンス集団が、お盆をもって行列を作りおかずを取っている様は、
シュールのひとことでした。

試合は9時に開会し、17時まで熱戦が繰り広げられました。
午前中はラテン、午後はモダン
私も全東北学生競技ダンス連盟会長として、
表彰状を渡したり、最後の挨拶をしたりと、そこそこ働きましたが、
基本的にはずーっと人が踊っているのを見ているだけですので、
昨日の暴飲暴食のせいもあって、途中、睡魔が訪れることもありました。
しかし、今日のブログになんて書こうか考えたり、
ブログ用の写真 (できるだけ個人が特定されないような遠景の写真) を撮ったりして、
なんとか睡魔をやりすごしました。
今日は開幕戦ですので、今シーズンの行方を占う大事な試合です。
結果は、一方では下馬評通りの順当な優勝者を出したのですが、
他方では下級生が上級生のお株を奪う下克上な荒れた試合でもあって、
この1年まだまだどうなるかわからないという期待も抱かせてくれました。
シーズン入りしてからの各選手の精進を楽しみにしたいと思います。

さて、帰りは福大の学生たちのバスに同乗させてもらいました。
ところがよく考えてみると、5月4日に岩手から福島まで上りの東北自動車道に乗るなんて、
Uターンラッシュのど真ん中に突っ込んでいくようなものじゃないですか。
案の定、途中、45㎞の渋滞や16㎞の渋滞に巻き込まれ、
5時間超もバスに揺られることになりました。
帰りのバスのなかでブログを書き上げようと思っていましたが、
けっきょく学生の人生相談に乗ったり、
「2012年」 のDVDを見てしまったりしたので、
試合中に頭のなかで組み立てておいた文章をパソコンに打ち込むことはできませんでした。
なんとか家に帰り着いて、大急ぎでブログを書き上げましたが、
4日のうちにアップすることはできませんでした。
でも日付操作して、4日のうちに書いたことにしようと思います。

フゥー、長い1日であった。
学生の皆さんもさぞや疲れたことでしょう。
明日1日ゆっくり休んで、ゴールデンウィーク明けの授業に備えてください。
皆さん、本当にお疲れ様でした。

Q.変わらないものはないのか?

2010-05-03 13:05:21 | 哲学・倫理学ファック
どう答えていいのか難しい問題ですね。
質問してくれた方は、この問いのうしろにカッコで、
次のような質問も付け加えてくれていました。

(人の気持ちは何故変わるのか?)

たぶん質問者は、人の気持ちがどんどん変わっていってしまうことに悩んでいて、
それで 「変わらないものはないのか?」 と質問してくれたのではないでしょうか。
答えるときには、ただ質問に答えてしまうのではなく、
問いを問い直さなければならない
その一環として、質問者がなぜその問いを発したのかも考えてみなければならず、
それがわかったら、その質問の動機を満たせるような答えを探す必要があります。
しかし、ここでは質問者の本意はわかったうえで、
まずは冒頭の問いに、自然科学的に答えてみることにしましょう。

A.変わらないものはありません。

ビッグバン理論が明らかにしてくれたことは、
この私たちが住む宇宙そのものが、
その始まり (=ビッグバン) 以来ずっと膨張拡大を続けている、
ということでした。
つまり、宇宙はどんどん変わり続けているのです。
ほんの一昔前までは、宇宙や自然というものは、
自然法則に従ってずっと変わらずにあり続けていると思われていたのですが、
ビッグバン理論は、宇宙や自然は人間の目から見ると不変であるように見えていたけれども、
実は刻一刻と変わっていたのだということを解明してくれたのです。
地球が太陽のまわりを回り、四季が繰り返されて時が過ぎてゆくということは、
永遠に変わらないかのように私も昔は信じていましたが、
長い時のなかでそうしたことも変わってしまう可能性があるのです。
こんな質問をしてくれた人もいました。

Q.人間が地球にいなくなることはこの先あるのか?

この問いも自然科学的には簡単に答えられるので答えてしまいましょう。

A.人間は必ず地球からいなくなります。

それがいつになるのか、どういう形でいなくなるのかはまだわかっていませんが、
いなくなることだけははっきりしています。
だってそもそも地球がなくなってしまうのですから。
星にも寿命があって、ガスが集まって星が生まれ、だんだんと成長を遂げ、
最後はまたガスに戻っていくということが明らかになっています。
地球がなくなってしまうのですから、そこに住んでいる人間は必ずいなくなります。
まあ、地球がなくなってしまう日まで人類が無事に生き残っているかどうか疑問ですが、
その日まで生き残っていたとしても、地球がなくなれば人類もいなくなるでしょう。
あるいは、その頃までには地球の代わりの星が見つかり、
そこに移住する手段も開発されているかもしれませんが、
その場合も人間が地球からいなくなることに変わりはありません。
というわけで、人間は必ず地球からいなくなるのです。

地球があるとか、人類がそこに住んでいる、ということですら変わってしまうのですから、
それはやっぱり変わらないものなんてなにひとつないということになるでしょう。
このことから、カッコのなかの問いに対する答えも見えてくるように思えます。

Q.人の気持ちはなぜ変わるのか?

世界が変わり、地球が変わり、宇宙が変わりつつあるのですから、
そこに住む人間が、世界や地球や宇宙に適応するためには、
人間もどんどん変わっていかなければならないのでしょう。
だから人の気持ちも変わっていくのではないでしょうか。
というわけでカッコの問いに対する答えはこうなります。

A.変わりゆく世界に適応していくために、人の気持ちは変わってゆくのです。

こんなふうに考えるのは寂しいですか?
気持ちだけは変わらずに持ち続けたいと思ってしまいますか?
しかし、自然や宇宙ですら変わってしまうのだとしたら、
人間の生み出したもの (=文化) なんてどんどん変わって当然です。
人間関係なんて、人間が生み出したもののなかでも、
最も儚くて変わりやすいものでしょう。
その変わりゆく人間関係を反映したものが人の気持ちなのでしょうから、
人の気持ちが刻一刻と変わっていったとしても、
私はさほど驚きはしませんし、むしろその変化を楽しみたいと思います。
昔アン・ルイスの 「Four Seasons」 という曲がありましたね。
私もそんな気分なので、最後に引用しておくことにいたしましょう。

人の心は変わるものさ
  変わるから美しいとも云えるよ
  四季即是空
  空即是色
  深いね 不思議だね

外来語の覚え方 (その2)

2010-05-02 20:12:11 | 教育のエチカ
先日、「レシピエント」 という派生語を覚えるために、
元の 「レシーブ」 に戻りましょうという話をしました。
それと似たような話を思い出したので忘れないうちに。
前回の授業では 「パターナリズム」 という単語もご紹介しました。
倫理学ではけっこう大事な概念です。
親が子どもの面倒をみるように専門家がなんでもしてあげることだと説明しましたね。
paternalism の元は pater というラテン語です。
このラテン語について、かの石原結實氏があの本のなかで説明されていましたので、
引用しておきましょう。

「「pater」 は、ラテン語でもギリシャ語でも、「父」 を意味する。
 「pa-」 には 「守護する」 「庇護する」 など 「守る」 という意味があり、
 その中には 「模範を示す」 という意味も含まれている。
 たとえば、
 patron (後援者、保護者)
 patrol (パトロール)
 patent (特許 = 発明者の技術を守る)
 の 「pa-」 は 「守る」 の意味であり、
 pattern (手本、模範)
 の 「pa-」 は 「模範を示す」 の意味となる。」

石原先生はいろいろなことに詳しい方ですね。
このなかで、patrol はただ (パトロール) と書いてあります。
男の子の大好きな 「パトカー」 の 「パト」 は 「パトロール」 の 「パト」 なわけで、
「パトロール」 だけでもなんとなく意味はわかるかもしれませんが、
ちゃんと日本語に訳すなら、「巡視、巡回」 となります。
つまり、見守りながら見回るのがパトロールなわけです。
やはり、「守る」 という意味が含まれているのですね。
このように考えると 「パターナリズム」 という語は、
「父親のように相手を庇護しようとする考え方」、
すなわち 「温情主義」 を意味するということがわかってくるわけです。
patriotism (愛国主義) との関連も見えてくるでしょう。

今回は、派生語の発生源の単語 (pater) に戻るだけでなく、
さらにそのなかの部品 (pa-) がどういう意味かということまで遡ることによって、
ボキャブラリーを増やしていく方法を紹介しました。
記憶を定着させるためには 「関連づけ」 が大事ですので、
一個ずつ覚えるのではなく、関連するものはいっぺんに覚えるようにいたしましょう。