すちゃらかな日常 松岡美樹

積極財政などの政治経済をすちゃらかな視点で見ます。ワクチン後遺症など社会問題やメディア論、サッカー、音楽ネタも。

自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋

2005-04-04 00:19:28 | エッセイ
 前回は「自分探し」に明け暮れて、人生も脳もおかしくなっちゃう人がこの20年ほどふえている、って話をした。「目標をもつべきじゃない平凡な普通の人たち」なんて挑発的な書き方に、「オレのことかよ」と怒り心頭の人もいるだろう。だがまあ、ちょっと落ち着いてほしい。

 物書きなんてのは一種の「作話師」なんだから、そんなやつの言説をまに受けて怒るなんてエネルギーのムダだ。

「松岡ってやつはこう書いてるけど、実は別の意味があるんじゃないか?」

「こいつはわざと煽ってるんじゃないか?」

 てなぐあいにメディアリテラシーを働かせてほしい。私は手を変え品を変え、思考実験を仕掛けている。「自分が思ってること」をストレートに書いているとは限らない。なのに書いてあることをまに受けるのはとっても危険だ。何回か前に説明した通りね。

 で、書きっ放しじゃナンなので、自分探しから抜け出せない人のために処方箋も書いておこう。もちろん「答え」は自分の頭で考えるものだ。だから今から書くことは何かのヒントになればいい、程度の気持ちで読んでほしい。

 結論からいえば老子を読みなさい。ちゃんちゃん。

 うむ。これでおしまいにするのもまずいな。もうちっと説明しよう。

 たとえば家が魚屋さんをやってるA君がいるとする。自営業だからA君が家業を継いで魚屋さんになるのは規定路線だ。親にとっては「想定内」である。だがまだ20才の彼にはどうしても納得できない。他人に自分の人生を決められるのもイヤだし、そもそも家業に魅力を感じない。

「魚屋なんてダセエ商売なんかやる気ないよ。オレはオレのやりたいことをやる。東京に行ってミュージシャンになるんだ」

 ミュージシャン目ざして試行錯誤する過程が、彼にとっての自分探しなわけだ。

 こうしてA君は上京し、フリーターをしながらバンドに明け暮れる毎日を送る。だが世の中はなかなかにキビシく、彼のバンドは認められない。自分では最高の曲を作ってるとしか思えないのに、まったく反応がない。そこでA君はこう考える。

「世の中はオレの才能を見分ける目をもってない。悪いのは世の中だ」

 かくてA君は華やかなアーチストとして酒池肉林の生活を送る「理想」と、4畳半ひと間で毎日ラーメンをすするちっぽけな自分=「現実」のギャップに、いつも悩まされることになる。

 自分には輝くような音楽的才能があるのに、周囲に認めてもらえない。なぜだ? なぜなんだ? 現実の世界で自己実現できない自分。ちっぽけでつまらないオレ。満たされない自分に耐えられなくなっていく。いや、これは本当の自分じゃない。オレは絶対に否定するぞ。

 そんな自問自答をくり返すうち、5年もたてばA君は脳も人生もすっかりおかしくなっている。

「もしミュージシャンになれなかったら、オレの人生はゼロだ。まったく意味のないものになる」

 こんなふうに視野狭窄に陥って絶望し、自殺してしまう人もいる。冗談じゃなく、そういう人が今の世の中にはたくさんいるんだ。

 だが彼が30代の半ばにもなれば、だんだん考えが変わってくる。

 魚屋っていったい何者なんだ? それはオレを満たしてくれるのか? まったく考えようとしなかった可能性を考えてみる気になる。

 毎朝、早起きして朝日を浴びながらうまい空気を吸い、築地の市場で魚を仕入れる。仕入れはこの商売じゃ生きるか死ぬかの真剣勝負だ。彼は魚の目利きのプロフェッショナルとして、ずらりとならぶ商品を見る。で、「これは」と思ったものを買い付ける。

 店頭では毎日、近所のおばちゃんが声をかけてくる。

「Aさん、あんたんとこの魚はどれ買ってもおいしいねえ。あんたにまかせときゃ、安心だわ。毎日ありがとうね」

 彼はプロとして認められてる。だから自己実現できている。これって強烈な快感だ。しかも家にはホレた美人の女房がおり、5歳のかわいい娘がまとわりついてくる。目に入れても痛くない愛犬の新太郎もいる。

「こいつらのためにがんばろう。彼らのよろこぶ姿を見るのがなによりの楽しみだ」

 オレはなんでミュージシャンになろうなんて考えたんだろう? 結婚もせずに、たったひとりでささくれ立ち、心の空腹をずっと抱えてたなあ。本当にバカだったよ……。

 もちろんここにあげた2つのストーリーは、どっちの道が「正しい」なんて性質のもんじゃない。一種のサイコドラマにすぎない。

 20代のA君みたいにミュージシャン目ざして活動し、あげくに彼が飢え死にしたって世の中から見れば大いにプラスだ。

「就職=企業に頼るんじゃなく、自分の能力を売り歩く生き方もアリなんだ。今まで自分は就職するのが普通だと思ってたけど、そんな方法も許されるのか」

 A君の「死」によって、彼の生き方の思想は次世代に受け継がれる。彼と同じような同士たちの「無数の失敗と死」が澱のように降り積もり、やがては既成概念が崩れていく。新しい生き方が常識になる。社会革命とは、「多くの屍と多大なる失敗」の上にしか成し遂げられない。犠牲が必要なわけだ。

 フリーターという社会思想は、必ず多くの犠牲を伴う。だが人生を棒に振るフリーターたちが何代にもわたるうち、10年もたてば就職して企業におんぶに抱っこだった世の中の方がだんだん変わってくる。

 たとえA君は自分の人生を思うようにまっとうできなくても、長いスパンで国家単位、あるいは地球規模で見れば彼の死は充分に意味がある。

 こんなふうに改革の旗手として敵弾に倒れて死ぬのも、また一興である。だがその気になれば、A君は別の生き方もできる。それが稼業を継ぐ道だ。

 ひとつ言えるのは、20才だったA君は「家業を継ぐ」という社会システムに反発していたってことだ。そのため父親に意味のないレジスタンスを試み、ものごとを一面的にしか見られなかった。

 彼はとにかく「ぶっ壊したかった」んだ。くだんのほりえもんさんみたいに。

 20才当時のA君から見れば、魚屋さんって稼業は実に色あせていた。いったいそんなものになんの価値があるんだ? そんなふうに否定的にしか見られなかった。だが30代半ばのA君には、まったく新しい別の価値を伴って見えるようになっている。

 要は「ものの見方」の問題なのだ。「魚屋はダサイ」と直感すれば、そうとしか思えなくなる。だが角度を変えて眺めれば、見えなかったものが見えてくる。

「待てよ。魚屋になると、どんないいことがあるんだろう? ひょっとしたらオレを満たしてくれる何かがあるのかもしれない。それを探してみよう」

 こんなふうに視点を変えて考えれば、彼の人生はまったく変わる。「認知が歪んだ人」の目には映らないものがキャッチできる。

 練炭を買い込んでるそこのあなた。死ぬのは個人の自由だし、私は別に取り立てて止めようとは思わない。私だって小学3年のときに、あることがきっかけでさんざん人生について考えた。

「自分は何のために生まれてきたんだろう?」

 毎日思案し、でも答えが見つからなくて、もう自殺するしかないと思ったことがある。子供だからカッターナイフで腹を切ろうと計画してたよ。そんなもんで死ねるわけないのに。風呂に入りながら、「ああ、明日のこの時間には、おれはもう生きてないんだな」って思ったりした。

 でも時間がたてば、そんなもんはただの笑い話だ。だからあなたが「死ぬことしか見えない袋小路」にハマってる状況がとてもよくわかる。「それ」しか見えないんだよね? すごくわかるよ。

 でも、もし私が書いた20代のA君のエピソードを読んで何か感じることがあったなら、ちょっとだけ立ち止まって深呼吸してみてもいいんじゃないか?

 あなたはきっと、何か偉大なことを成し遂げようとしてたんだろう。とてつもなく高い理想を掲げて。私にはあなたの気持ちが痛いほどよくわかる。そして今はつらいだけの人生だ、と感じてるんだよね?

 でも人間の幸せは「世界一になる」ことや、「天才だ」と呼ばれることだけじゃない。かわいい奥さんの顔を毎日見られたり、子供をおんぶするのもちっぽけではあるが幸せの仲間だ。

 人はそんな小さな喜びを1つづつ束ね合わせて、「大きな幸せ」にすることだってできるんじゃないか?

 練炭に当たればあったまるでしょう。せっかく買ったんなら死ぬ道具にする前に、そいつで心をあっためてみたらどうだろう? で、ちょっと気持ちが落ち着いたら、視点を変えて自分の人生をもう一度よく観察してみようよ。 

 ほら。

「魚屋ってかっこいいなあ」と思えてきませんか?

【関連エントリ】

『人生をスルーした人々』

『自分探しシンドロームを超えろ』

『「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん』
コメント (15)
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