すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

ほりえもんで読み解く「ブログはアウトサイダー」か?

2005-04-01 14:10:39 | メディア論
 このブログで7回前に、「ほりえもんに見るメディアリテラシーの憂鬱」と題してメディアリテラシーについて書いた。えらく文章が長くなったが、まだまだ言い足りないことがある。そこで今回はあの文章が誤読されそうな部分について補足したい。「誰もが情報発信することの是非」についてだ。

 実はあの一文を書いてから知ったんだが、3月18日付の「産経抄」がほりえもんさんをネタにタコな言説をふりまいている。ところがよく読んでみると、一見、私が書いた文章と同種の主張をしてるように見えるのだ。

 あんなふうに高みから人を見下ろす不遜な一文といっしょにされちゃたまらないから、今回はちょっち釈明会見をさせていただきたい。

 端的に言えば私の主旨は、情報発信大いにけっこう、ただしそのとき必要になるのがメディアリテラシーである、ということだ。

 前回は「玉石混交」なんていう誤解されげな言葉を使ったが(なんと「産経抄」も同じ言葉を使ってる)、私はもちろん「産経抄」とはちがい(笑)、「石」の価値を否定してない。インターネットは玉から石までいろんなものがあるからこそ、おもしろいんだ。で、この点でほりえもんさんは実は自己矛盾してるんだが、これについては回をあらためて書く。

 さて私の見解と「産経抄」の主旨が唯一、一致してるのは一ヶ所だけだ。「流通する情報には当然まちがったものもあり、プロはその裏を取って確認した上で情報発信している」という点である。たとえばくだんの「産経抄」はこう書いている。

「玉石混交さまざまな情報の真偽を確認し、伝えるべき事柄を掘り起こす。それを読みやすい形に編集し提供するプロ集団が必要だと。思いは今も変わらない。新聞を殺せばその集団も消える。それはあり得ない」(一部を引用)

 真偽を確認するのがプロの常識であることはまちがいない。だから前段で言ってることは事実だ。だがよせばいいのにこの短文は、みょうに気負っている。裏を取り、読みやすく編集・提供する「プロ集団が必要だ」ときたもんだ。

 こやつを素直に読めば、以下のように翻訳できる。

「オレたちはそんだけ崇高な社会的使命を追ってるんだぜ。そうすることで(事実関係の確認もしない)無知な大衆に、「答え」を下知してやってるんだよお前らわかったか。そもそもライブドアなんかとは、社会的な存在価値がダンチなんだぜおれたちは」

 社会の木鐸だか木魚だか知らないが、ある種のいやらしさがミエミエだ。それは続く後段の「新聞を殺せばその集団も消える」にあからさまにあらわれている。つまり「われわれ新聞だけ」が情報の裏を取る機能を果たしてるんだ、「オレら新聞にしか」それはできないんだぞ、てな主旨である。んなアホな。

 だれもあんたに頼んでないよ、そんなこと。

 たしかに情報の裏を取るのがいかにむずかしいかは、私も前に説明した。「極論だが」とことわった上で、イラクのテロを例にあげ、「こういう種類の裏取りは一般の人にできるんですか?」といくぶん誇張して書きもした。

 だが新聞だけがそれをできるんだ、なんてのは傲慢以外の何物でもない。「新聞を殺せばその集団も消える」ってあなた、いったいどんな顔して書いてるんですかぁ? きっと鼻の穴が1.5倍くらいにふくらんじゃってるんだろうなあ。ああ、はずかしい。

 こないだ取り上げた共同通信といい、産経新聞といい、いったい新聞はどうなってるんだろう? だから新聞読むやつが減るんだよ。

 あの「産経抄」を読んだいま、私は安易に「玉石混交」なる言葉を使ったことを著しく反省している。「玉」=新聞に代表されるプロが作るもの、かたや「石」=アマチュアの情報発信、てなぐあいに誤読される可能性があるからだ。

 文章を書くことのアマではあっても、プロの物書きよりグンバツに(死語?)いいものを書いてる人はたくさんいる。たとえば以前、気まぐれにキングクリムゾン(バンドね)を検索してたら、あるWebサイトを見つけた。それ書いてる人はもうとんでもなくて、世の中に存在するクリムゾン関連の音源をほとんど聞いてチェックしてる。

 しかも分析がまた細かい。アルバム「○○」の3曲目の頭から4小節目に出てくるジョン・ウェットンのベースのフレーズは、別のアルバム「●●」に収録されてる「△△」でも使われている、みたいなレベルなのだ。

 おまけにこの人は最近のジョン・ウェットンをけちょんけちょんにやっつけてるんだが、それ読むと「ああ、好きなんだなあ、この人はジョン・ウェットンが。だから怒ってるんだよねえ(わかるよおー、オレも同じだし)」と、対象に対する熱い想いがキリキリと伝わってくるいい文章だった。

 少なくとも私はチマタのプロの音楽評論家が、こんな緻密な分析をしてるのって読んだ記憶がない。「玉」はプロも作るし、アマだって作るのだ。(反対に「石」ばかり作ってるプロもいるから困ったもんだが)

 したがってプロからアマに至るまで、いろんな人がブログで情報発信するのは非常に意義がある。任意の分野についてプロの書き手よりくわしいアマの人には、じゃかすか書いてほしいと思う。もちろんくわしくない人だって、「オレはこう思う」風な感想を書くだけでも充分に意味がある。

 さてここからが本題ね。ただし自分の分析や主張を「文字にして世間に発表する行為」には、一定の重みがあるんだ、ってことをアマの人にも認識しておいてほしいと「私は」思う。

 前回書いたように、「アタシがこのサイトに書いたことに関しては、一切責任は負いません」なんて逃げを打つんじゃなく、「もしオレがまちがったこと書いてたら、自分のケツは自分で拭くよ」くらいのスタンスでいてほしい。と、「私は」願っている。

 世の中に書いたものを公知する以上、いったん書いた文章を推敲するくらいは常識だ。また最低限、事実関係にまちがいがないかどうかは、きっちり確認した上で書きたい。(まともな)プロならだれでもやってることだ。

 もちろんプロったってなかには「石」もいる。「あれはたしか○○さんが●●したときだったと思うが~」。こーんな書き方をしてるエッセイストやらがときどきいる。

 おいおい、あんたプロだろう? だったら文章に書く前に、事実関係くらい自分で調べなよ、と思ってしまう。ロクに裏を取らないこんなレベルの文章だったら、それこそだれだって書けるじゃん。

 あともうひとつは文章そのもののレベルだ。たとえばIT系の書き物によくある例をあげよう。

 書いてる人は技術者で、テーマについてはもちろんくわしい。「知識をもってるかどうか」に関してはプロである。だけど文章が致命的に下手クソで、もう見てらんない。わかりにくい上におもしろくもなんともない。つまりウンチクだけはプロなんだけど、「物書き」としては完全なアマチュアなわけ。

 あなた、原稿料もらって文章書くのは100年早いよ。ちっとは文章の書き方を勉強してからにしようね、と言いたくなる。

「知識がある」というだけで、金もらって原稿書いていいのかなあ。人が読むに耐える文章、読んで面白いと思わせる文章でもなんでもないのに、おアシを巻き上げるのっていったいアリなの? 要はこの人はあくまで技術者なんであって、プロの「物書き」じゃないわけだ。 

 まあブログだったら、文章のレベルが低いからって「その人には書く資格がない」なんてことにはならない。けど書いたものを世の中に流通させる以上、できれば事実関係の確認や、書くことの重みを感じていてほしい。と「私は」思う次第なんだが、どうなんだこれ?

 もちろん素朴な感想文や身辺雑記のたぐいなら別だ。だがブログで一定以上に踏み込んだ自分の主張なり、おのれの目で見た独自の分析なりを書くならば、みんながプロと同レベルの意識でいてほしい。だってそのほうが世の中が「おもしろくなる」じゃん。

 たとえばアマの人がプロと同じ意識をもち、ブログで緻密な情報発信をバンバンやるとするよね? それらの情報には事実誤認もなく正確無比。しかも下手なプロより視点が鋭かったり、ユニークだったりする、と。

 そしたらさ、もう「産経抄」みたいなプロの勢力は、アマのブロガーに対して「恐れ入りました」って沈黙するしかなくなるよね。もう彼らは、「オレたち『新聞だけ』が正確に情報発信できるんだ」なんてこと言えなくなっちゃう。アマがプロを駆逐する状況にすらなるかもしれない。

 するとさっき例にあげたような、いいかげんなエッセイストみたいのには、もう仕事がこなくなる。で、代わりにアマではあるけど文章がおもしろく視点もユニークな人が認められ、原稿料もらってどんどん書くようになる。プロ、アマ問わず、本当の意味での「実力勝負」になる。これってすごいおもしろい社会状況だと思いませんか? 

 これが「私の主張@その1」である。

 ブログがこれだけ広がる中、たぶんこの論点は今後の大きなテーマになるんじゃないかな。ホントにむずかしい問題なんだよね、これ。

「そんな『縛り』をかけちゃったら、ブログで気楽にモノが言えなくなるじゃないか」って反対意見もあるだろう。ブログがジャーナリズムの代替になる必要なんてあるのか? みたいな疑問も提起されるにちがいない。(ちなみに私は、「ブログはジャーナリズムたれ」なんてコト言ってるわけじゃないよ。念のため)

 あるいは、

「ブログはあくまでプロが書いたものにツッコミ入れたり、プロのまちがいを指摘するところに意味があるんだよ。プロの言説をもっとくわしく補足するのも、ブログの社会的存在価値だ。いわばブログは『補完物』であって、ブログ自体が『主体』になったらブログの意義がなくなるのでは?」

 ……とかね。

 いわばブログは「社会的物言い」のメインストリームじゃなく、既存のメディアに対する一種のアウトサイダーとして存在するからおもしろいんだ。だからこそ意味があるんじゃないか? そんな考え方もできるだろう。(ブログじゃないけど、この方向を徹底させたメディアが2ちゃんねるだ)

 まあとにかく賛否両論いろいろ出てくるにちがいない。なわけで今後そのテの議論が発生すれば、私も遠い末席から観察を怠らずにいようと思う。

 さて「私の主張@その2」は、前回書いたのでカンタンにすませよう。「その1」で述べた「裏取り」その他に関する私の主張と同じ考えの人が、一定数、実践したとする。でもこの人たちは一部にすぎない。

 そんなのめんどくさいよ、って人もいるだろう。あるいは事実をわざとねじまげ、恣意的な情報や主張を書く人もいるはずだ。ゆえにみんながメディアリテラシーを働かせ、そこに書いてあることを「自分の脳みそ」で考えて、きっちり目利きしていく審美眼をもたなきゃね。これが「私の主張@その2」である。

 以上、ご清聴ありがとうございました。

 いやまあ、たまたま気が向いて2週間ほど前に私はブログを作ったわけだが、自分がこんなにハマるとは想像もしなかった。

「そんなん書いても原稿料もらえないやん」

「オレはプロなんだから、書く以上は商業媒体でなきゃ。日記に独り言書いてマスこいてどうするんだよ」

 そんなふうに事態をナメていた。しかしいまや、ブログ上で繰り広げられるコミュニケーションの圧倒的な密度に、もう「お代官様、参りました」な状態になり果てている。

 おい、仕事の原稿たまってんのに、こんなん書いててどうするんだよ? 編集者様もこれ見てるぞやばいぞ、おまい。

 いままさに私の頭部の右上方には、もくもくとフキダシが湧き上がっている。で、そのフキダシの中では、白い天使と黒装束の悪魔がさかんに戦ってる。2週間目にしてこのありさまだ。きっとみなさんも同じでしょ? やばいよまじでこれ。

 だがしかし最後に勝つのは、決まって黒装束の悪魔なのだ。少なくとも私の人生においては。でもそんな反省を踏まえた上で、あらためて自分に問おう。

 こんなことしてていいんですかぁ?

 いーんですっ。

(川平慈英風にカツゼツよく)
コメント (19)
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