7月頭まで休眠と言いつつ、8月頭になってしまった。やっと終わったんで今日から復活します(笑)。てなわけで仕事から解放されてひさしぶりにブログ・サーフィン(?)してたら、びっくりしました。『ネットは新聞を殺すのかblog』の湯川さんが言う「参加型ジャーナリズム」って、「質を問わない」んですか? なんか団藤さんも驚いてるみたいだけど、いや私もびっくらこきました。
いきなりでわけわかんない人もいるだろうから、ちょっと説明しておこう。湯川さんはエントリー「第3の市民記者新聞」の中で、市民記者新聞「ツカサネット新聞」にふれ、こう書いている。
わたしの市民記者サイトに対する期待は団藤さんのそれとはちょっと異なり、個々の記事の質に関してはそれほど問題にはしていない。量の制約を質でカバーするのが既存メディアであり、個々の質の問題を量で圧倒するのが新しいネットメディアだと思っているからだ。
「ちょっと異なり」どころかえらいちがいだと思うんだけど、それについては気が向いたら回をあらためて書く。
まず上記のくだりで湯川さんは、記事の質はそれほど問題ではなく「個々の質の問題を量で圧倒するのが新しいネットメディアだ」としている。これはそっくりそのまま湯川さんが考える「参加型ジャーナリズム」を定義したものである、と解釈していいんだろうか? たぶんそうですよね。
ところが腑に落ちない点がある。えー? おかしいなぁ、と思って『ネットは新聞を殺すのかblog』のエントリー「参加型ジャーナリズムの時代」(2004年8月11日付)を読み直してみた。
するとやっぱりこのエントリーで湯川さんは、『Fireside Chat』さん、『あざらしサラダ』さんら複数のブログをあげ、「わたしよりも情報収集力、分析力、筆力に勝る人が数多くいるという事実」に「愕然とした」と書いている。で、こう結んでいる。
この経験はわたしの中に2つの感情を呼び起こした。
1つは、敗北感である。商業ジャーナリズムに身を置く自分が、報道を生業とする自分が、ブロガーに勝てなかったのだ。非常に残念ではあるが、どうしようもない事実である。
もう1つの感情は、希望である。ジャーナリズムがまさにこれから変わろうとしているという実感である。報道機関の入社試験にたまたま受かった者だけがジャーナリストになれるという、これまでの閉鎖的なジャーナリズムはやがて幕を閉じる。一般市民を巻き込んだ参加型ジャーナリズムの時代が今まさに来ようとしている。
つまりこのエントリーでは各ブログの質に驚き、「だからこれからは参加型ジャーナリズムの時代なんだ」と書いている。ところが一方、前述のエントリー「第3の市民記者新聞」では、「個々の記事の質に関してはそれほど問題にはしていない」と言う。矛盾しているのだ。
いや別に矛盾がけしからんというわけじゃない。でもいったいなぜこの矛盾が生まれてくるのか? ちょっと不思議な感じがする。で、ない頭を使ってあれこれ考えてみたのがこのエントリーである。
おそらく湯川さんの素朴な実感、出発点は、ライティングのプロではない一般ピープルが書いてるブログの質に驚いたことなんだろう。これは読んだとおりだ。「こういうレベルの文章がたくさん出てくれば、きっと世の中が変わるぞ」=参加型ジャーナリズムの時代になる、と感じた。たぶんこっちがナチュラルな本音だ。
とすると質に価値を感じながらも、戦略的には「質を問わない」という選択をしていることになる。それはなぜなのか? いくつか考えられる要素がある。
ほかのエントリーもふくめて読むと、湯川さんの中には質とは別のもうひとつの理想があるように感じる。それは「みんなが同じように参加できなきゃいけない」、「そこに分け隔てがあってはならない」みたいな一種の平等主義だ。ここで矛盾が起きるんじゃないかと想像できる。
質の高いブログがたくさんあるのは事実だけど、世の中のみんながみんな、一定水準をクリアした文章が書けるわけじゃない。当たり前の話だが、人間はいろいろだからクオリティにはばらつきが出る。となると一方ではブログの質に驚きながらも、質を尺度にしてしまうと「みんなが参加できる参加型ジャーナリズム」が実現できない。
だからホントは質が大事だと思ってるんだけど、掲げる戦略としては「記事の質に関してはそれほど問題にはしていない」という話になる。これが【仮定1】である。
だとすれば質に価値を感じてスタートしたはずのそもそもの動機が、あれこれ思考をめぐらすうちに、自分の中に並存する平等主義というイデオロギーとコンフリクトしているように見える。
それは別のエントリー『団藤さんの「ネットジャーナリズム」とわたしの「参加型ジャーナリズム」』を読んでも感じる。ちょっと長くなるが、一部分では文意が正確に伝わらない可能性があるのでまとめて引用させていただく。
米国で一部ブロガーがプロのコラムニスト以上にすばらしい政治論評を続け高い評価を得ているが、団藤さんの考える市民ジャーナリズムはまさにこうしたものを指すのだと思う。
何度も言うが、それはそれですばらしいことだと思う。プロがジャーナリズムを独占するのではなく、広く一般の人が社会を変えるような言論活動に積極的に参加することが民主主義にとってどれだけすばらしいことか。
わたしもそうした観点で米国のブログジャーナリズムの現状を講演などで紹介することがある。ところがときどき「それって今のジャーナリズムとどう違うの」という質問というか、反発を受けることがある。「エリート気取りのプロの組織ジャーナリズムが、エリート気取りのアマチュアの個人ジャーナリズムに変わるだけでしょ」「組織か個人という違いはあっても、結局エスタブリッシュメントの家に生まれ高等教育を受けた人だけが社会をひっぱっていく資格を持つ、という考え方は変わっていないじゃないか」というような主張だと思う。頭をガツーンと殴られたような気がした。
いや別にガツーンと殴られるようなことでもなんでもない。
質の高いエントリーを書けるのはその人の能力なんだから、能力は正当に評価されて当たり前だ。
なのになぜ、いい文章が書けるブロガーは「エリート気取りのアマチュアの個人ジャーナリズム」だってことになるのか? 読んだ人に何かを感じさせるエントリーを書くブロガーはみんな、「エスタブリッシュメントの家に生まれ高等教育を受けた人だけ」なんですか?
いったいなんでこういう論理展開になるんだろう。私にはさっぱりわけがわからない。
エスタブリッシュメントであるかどうか。また高等教育を受けているかどうか。これらの要素と、その人がすぐれた文章を書けることとは、私にはまるで関係ないとしか思えないのだが。えっと、これ私がおかしいんでしょうか?
では、なぜこんな論理になるのか? 無理やり想像すると、ひとつはさっき書いた順位の問題が思い当たる。いいエントリーを書いて人から評価された時点で、その人はエリート化、エスタブリッシュメント化する。湯川さんの中ではこういう図式があるのかもしれない。
いくらすぐれたことを成し遂げても、そのことで順位がついてしまうと平等じゃない。きのうまで市井の人だったものが、その瞬間にエリートになってしまう。これでは「ジャーナリズム」は以前と変わらない。一部の人間が牛耳る閉ざされた世界のままだ──。そんなふうに発想してるのだろうか?
だけどくり返しになるが、質が高いなら他人から評価されて当然だ。その文章を読み、人が心を動かされるのも自然である。だからいいものを書けば、結果的にその人の声は大きくなるだろう。
しかし少なくともネット上では、質がイマイチだから「参加できない」なんてことはありえない。だれもが情報発信できるのが、インターネットの最大の特徴のひとつなんだから。ゆえにみんなが参加できるように質を問わないというのは、ナンセンスだ。また、もしそういうコンセプトなんだとしたら、機会平等ではなく結果平等を求めているようにも見える。
湯川さんは民主主義という言葉を使っているが、なんだか文章の優劣が選挙権の有無と同列に語られてるような違和感を覚えるのだ。
自分の子供が勉強できること(質)に誇りや価値を感じながらも、運動会になったらこの子は駆けっこでビリになっちゃう。だもんで教育委員会に「運動会で順位をつけるのは差別だ。民主主義に反する。子供が傷つくからやめてほしい」と訴えるダブルスタンダードな親みたいな感じがする。いや湯川さんがもしそう考えてるんだとしたらだけど。
駆けっこはだめでも、勉強で1番になる子供を認めちゃだめなんだろうか? 逆に勉強はできないけれど、駆けっこで1等賞になる子供を評価するのは悪事なのか? もっといえば勉強も駆けっこもダントツで1位を取っちゃう子供をほめると、「何をやってもダメな子」に対して差別になるからいけないんだろうか?
質に意味を感じながらも、質をモノサシにしたら平等という大切なイデオロギーに抵触するからやめとこう。で、「質は問いません」と世間体モードになる。下衆のカンぐりかもしれないが、どうもそんな雰囲気を感じてしまう。
もうひとつ考えられる要素は、湯川さんが「ジャーナリズム」なる概念や定義に逆の意味でとらわれている可能性だ。【仮定2】である。
すぐれたジャーナリズムたるには、学歴がないとだめだ。エスタブリッシュメントでなければ、それは成し遂げられないはずである。だから仮にきのうまで市井の人だったとしても、その人がすぐれたブロガーとして頭角をあらわしたとすれば学歴があるにちがいない。そいつはエスタブリッシュメントに決まってる──。
こう解釈すれば湯川さんがガツーンと頭を殴られたと書くエントリーで、優秀なブロガーはみんな「エスタブリッシュメントの家に生まれ高等教育を受けた人だけ」だ、とする不可解な論理展開にも辻褄があう。
でもこれって概念というより、既成概念ですよね? インターネットにはその既成概念を打ち破る力があるから、プロではないけど筆力のある人がどんどん文章を発表しているわけだ。結論を言えば「質は問わない」とか人工的な細工を考えずに、ほっとけばいいのである。
またそもそもジャーナリズムうんぬん的なややこしいことを考えるから、こういう論理になってしまうんじゃないか、とも推測できる。そうではなく、「人の心を動かしたり、他人に何らかのモチベーションを起こさせる文章、およびそれを書くためのなにがしかの活動」てな風に広く構えるのではダメなのか?
ネットのおかげで、鋭い文章を書くのは実はプロだけじゃないとわかってきた。これは客観的事実である。ただしそのことと、みんなが参加できる平等な社会を作りたい的なイデオロギーとは別の次元の話だ。こっちは世直しみたいなレイヤーでしょう。
ところが前者の客観的事実をもとに、だから理想とするイデオロギーが実現できそうだ、あるいはこれらの事実をふまえて、イデオロギーを実現していく運動を起こそうという世直しレイヤーに落とし込もうとするから、矛盾が起きるんじゃないだろうか?
ちなみに『山川草一郎ジャーナル』さんもエントリー「2つの市民ジャーナリズム論」の中で、湯川さんのコンセプトはジャーナリズムそのものではなく「一種の社会改良運動だ」と分析している。
ただし山川さんは「社会の階層間対立を煽るような方法論は、個人的にあまり好ましく思わないのだが」としながらも、「湯川氏のジャーナリズム観の持つ、ある種の青臭い民主主義思想には、それなりに好感が持てる」と論じている。私はこの点には同意できない。
それは「参加型ジャーナリズム」なるものに対する万人の参政権を確保せんがために、人間個々がもつ自然な能力の差をも仮想的に平準化しようとしているように見えるからだ。これは民主主義というより、芸術に対するファッショ(笑)だと思う。ただこの話を続けるとゲージュツとは何か? みたいなたいそうな話になるのでここでは置く。
最後に、もうひとつ残る可能性をあげよう。【仮定3】だ。
私は以前、『JR西日本を恫喝した「髭記者」の実名にたかるブログ・スクラム』というエントリーを書いて地雷をふんだわけだが(笑)、これを書いた主旨のひとつは「みんなと同じことをして意味あるの?」だった。
私はそれまで、文章には人とちがう新しい視点、独創性が大事だと思っていた。人と同じことを書くなんてダサいじゃん、みたいな話だ。ところがこのエントリーを読んだ人から、そんな価値観にツッコミを入れるコメントをもらった。わかりやすくいうと、こんなふうだ。
ひとりひとりは他人とまったく同じ平凡なことを言ってても、それが1万人、10万人、100万人になれば世の中が変わるんじゃないの?
私にはこんな視点はまるでなかったので、とても驚いた。(ただし実名晒しの是非とは別の問題としてだが)。で、なるほどそんな考え方もあるのか、と教えられた気がした。ブログってこういうコミュニケーションができるからエライと思う。
さて湯川さんが言ってる「質を問わない参加型ジャーナリズム」というのも、この図式を当てはめれば成り立つかもしれない。ただ湯川さんがそういう構図を頭に描いているのかどうかは、わからないけれど。
じゃあ、お前はどう考えてるんだって? 私は湯川さんの考えとはあきらかにちがうけど、団藤さんとも同じじゃなくて……えっと、長くなったので気が向いたら別の回に書きます(笑) いやひさしぶりにブログ書いたんで疲れたんです、はい。
(追記)文中で、『ネットは新聞を殺すのかblog』のエントリー「参加型ジャーナリズムの時代」にリンクを張った。また前後関係をわかりやすくするため、当該エントリーが書かれた日付(2004年8月11日付)を加筆した(2005.8/7)