hideさんという方から、前回のエントリー『質を問わない「参加型ジャーナリズム」って意味あるの?』にご意見をいただいた。ちょっと長くなりそうなので、新しくエントリーを立てて私の意見を述べたいと思う。
まず私は前回のエントリーで、次のような問題提起をした。
湯川さんがもし本当に「ジャーナリズムという呼び方に問題がある」と考え、「ジャーナリズムだけが質が高くて、それ以外の言説は質が低いというようなイメージになりがちなのかも」と感じているのならば、なぜご自分で新しい言葉を作らないのか? と私は思う。それで私は前回のエントリーで、以下のように問題提起したわけだ。
で、私は上記のように、「人の心を動かしたり、他人に何らかのモチベーションを起こさせる文章、およびそれを書くためのなにがしかの活動」と長ったらしく書いたわけだ。
でもこんな長い表現を文章の中でその都度使うわけにはいかない。それなら「ジャーナリズムという呼び方に問題がある」と感じていながら「ジャーナリズム」に相当することを言いたい人は、新しい言葉を作る必要があると思うのだが、どうだろうか? なぜ湯川さんはそれをしないのか? これが第一の疑問である。
またhideさんに紹介していただいた湯川さんの文章を読み、さらに湯川さんには矛盾を感じた。再度、hideさんのコメントを引用しよう。
だから、それをなんでわざわざ誤解をはらみかねない「ジャーナリズム」という言葉でカテゴライズしてしまうのか? お願いだから「それ」を「ジャーナリズム」と呼ぶのはやめてほしいと私は思う。
ちなみに私は以前、エントリー「ライブドアのPJってマトモな人はいないの?」で、PJの小田光康氏を批判した。で、批判しながらも、ライブドアPJのもつ可能性について以下のように書いた。
で、2人はまるで同じことを考えていながら、湯川さんはそれを「立派なジャーナリズム」と「立派な」つき(これにも私はすごく違和感を感じる)で「ジャーナリズム」と呼ぶ。かたや私は「ジャーナリズム」と呼ぶ気はまったくない。私は「それ」は芸術活動・評論活動だと思う。だから私は「それ」を、ともすれば誤解されがちな「ジャーナリズム」という言葉でくくらないでほしいと切に願っている。
ここまでをまとめると、湯川さんは結局、「ジャーナリズム村」の人なんだなあ、と脱力感を感じてしまうというのが正直な心情だ。
さて私は「それ」を芸術だと考えている。そして「質を問わない芸術」なんてのはありえない。だから湯川さんのように「質を問わない」という発想が出てくること自体考えられないし、とても異様に感じる。
で、なぜ「質を問わない」というみょうな発想が出てくるのか無理やり想像すると、前回のエントリーに書いた以下の結論にたどりついてしまうのだ。3点だけあげよう。
それは自衛隊が存在するのはだれだってわかってるのに、内部的にはずっと自衛隊は「ない」ことになっていて、最後には自衛隊の「存在を直視する」と言って笑わせてくれた昔のどっかの党である。
念のために言っておくが、もちろんこれは湯川さんが特定の政治活動をしているという意味ではない。あくまで教条主義がいかにナンセンスかをしめすために、ある政党の例を出しただけだ。私は湯川さんを認めてないわけじゃない。だけど湯川さんには、ともすればそんな教条主義に走ってしまいそうな「あやうさ」を感じるのだ。
『山川草一郎ジャーナル』さんは湯川さんのそういうところを称し、「湯川氏のジャーナリズム観の持つ、ある種の青臭い民主主義思想には、それなりに好感が持てる」と言う。なぜ山川さんが「青臭い」とわざわざつけ加えた上で好感がもてると書いているのか、私にはよくわかる。
だけど私は山川さんのように、ゲタをはかせて甘く採点する気になれない。で、私は湯川さんのそれは「あぶない」とはっきり言っているのだ。
さてhideさんはコメントの最後をこう結んでいる。
くりかえしになるが、私は湯川さんを全否定してるわけじゃない。湯川さんが書いてることは、私とけっこう共通してるのだ。ただし湯川さんは自分をもっと客観視し、自分のはらんでいる「あやうさ」を見つめなおしてはどうかというのが私の意見だ。
まったくよけいなお世話だし、大変失礼な物言いだとは思うけれども。
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(追記)文章中、(3)の段落を一ヶ所、改行した。また文中の「ナンセンスなのかを」を「ナンセンスかを」に、「教条主義的に走って~」を「教条主義に走って~」に修正した。もちろん文意は変えていない(2005.8/7)
まず私は前回のエントリーで、次のような問題提起をした。
もうひとつ考えられる要素は、湯川さんが「ジャーナリズム」なる概念や定義に逆の意味でとらわれている可能性だ。【仮定2】である。で、おそらく上記の記述に対する反論として、hideさんはコメントの冒頭で以下のようにお書きになっている。
すぐれたジャーナリズムたるには、学歴がないとだめだ。エスタブリッシュメントでなければ、それは成し遂げられないはずである。だから仮にきのうまで市井の人だったとしても、その人がすぐれたブロガーとして頭角をあらわしたとすれば学歴があるにちがいない。そいつはエスタブリッシュメントに決まってる──。
こう解釈すれば湯川さんがガツーンと頭を殴られたと書くエントリーで、優秀なブロガーはみんな「エスタブリッシュメントの家に生まれ高等教育を受けた人だけ」だ、とする不可解な論理展開にも辻褄があう。
湯川氏はさてまず第一の疑問を提示しよう。湯川さんは上記のように「ジャーナリズム」という言葉が誤解を招くと感じていながら、今でも一貫して「ジャーナリズム」という言葉を使っている。いったいこれはなぜなのか?
「ジャーナリズムという呼び方に問題があるのかと思います。ジャーナリズムだけが質が高くて、それ以外の言説は質が低いというようなイメージになりがちなのかも。わたしは東芝事件を評価します。別のエントリーで考察することにしようと思っていますが「日本型のジャーナリズム」とは東芝事件に似たものが中心になるように考えています。」(http://kusanone.exblog.jp/1960514コメント欄)
と述べています。
湯川さんがもし本当に「ジャーナリズムという呼び方に問題がある」と考え、「ジャーナリズムだけが質が高くて、それ以外の言説は質が低いというようなイメージになりがちなのかも」と感じているのならば、なぜご自分で新しい言葉を作らないのか? と私は思う。それで私は前回のエントリーで、以下のように問題提起したわけだ。
またそもそもジャーナリズムうんぬん的なややこしいことを考えるから、こういう論理になってしまうんじゃないか、とも推測できる。そうではなく、「人の心を動かしたり、他人に何らかのモチベーションを起こさせる文章、およびそれを書くためのなにがしかの活動」てな風に広く構えるのではダメなのか?私はジャーナリズムなる言葉を使うつもりはあんまりないし、その言葉にこだわる気もまったくない。だから私自身が新しい言葉を作る必要もない。
で、私は上記のように、「人の心を動かしたり、他人に何らかのモチベーションを起こさせる文章、およびそれを書くためのなにがしかの活動」と長ったらしく書いたわけだ。
でもこんな長い表現を文章の中でその都度使うわけにはいかない。それなら「ジャーナリズムという呼び方に問題がある」と感じていながら「ジャーナリズム」に相当することを言いたい人は、新しい言葉を作る必要があると思うのだが、どうだろうか? なぜ湯川さんはそれをしないのか? これが第一の疑問である。
またhideさんに紹介していただいた湯川さんの文章を読み、さらに湯川さんには矛盾を感じた。再度、hideさんのコメントを引用しよう。
松岡さんが気にかけておられる「質より量」の部分は、ちなみにカギかっこの中は湯川さんの文章だ。上記のように湯川さんは、「社会を変えたいと思いながら身の回りのささいなこと」を書く行為を、「それだって立派なジャーナリズムだと思う」と言う。
「NGO、NPO以外にも参加型ジャーナリズムは発展していくと思う。身の回りのささいなことでもいいから、社会を変えたいという思いをブログに書いていく。そして横の連携を築きやすいというブログの特徴を生かして、同じ思いのブログがつながって、1つの運動を形成していく。それだって立派なジャーナリズムだと思う。1つ1つは小さな記事でも数が集まることで、マスメディア以上に社会を変える原動力になるのではなかろうか。」
(同上)
と敷衍されています。
だから、それをなんでわざわざ誤解をはらみかねない「ジャーナリズム」という言葉でカテゴライズしてしまうのか? お願いだから「それ」を「ジャーナリズム」と呼ぶのはやめてほしいと私は思う。
ちなみに私は以前、エントリー「ライブドアのPJってマトモな人はいないの?」で、PJの小田光康氏を批判した。で、批判しながらも、ライブドアPJのもつ可能性について以下のように書いた。
せっかく新しいことをやるんだから、大新聞と同じ土俵で、同じフレームワークに乗って活動するんじゃ意味がない。つまり私と湯川さんはまったく同じことを考えているわけだ。どうでもいいことだが、私の上記のエントリーは2005年4月5日付、湯川さんのは2005年7月21日付である。
たとえばPJが力を発揮するとしたら、それは日常生活に潜む「ちょっとした違和感」や「ちょっとした不安」、「ちょっとした不服」、「ちょっとした輝き」を切り取ってくるときだろう。
身近な町の話題でもいいし、自分の生活感を通して見える日本の姿でもいい。PJからたくさんの「ちょっとした」が発信されれば、人を動かす点火装置になりそうな気配がする。
で、2人はまるで同じことを考えていながら、湯川さんはそれを「立派なジャーナリズム」と「立派な」つき(これにも私はすごく違和感を感じる)で「ジャーナリズム」と呼ぶ。かたや私は「ジャーナリズム」と呼ぶ気はまったくない。私は「それ」は芸術活動・評論活動だと思う。だから私は「それ」を、ともすれば誤解されがちな「ジャーナリズム」という言葉でくくらないでほしいと切に願っている。
ここまでをまとめると、湯川さんは結局、「ジャーナリズム村」の人なんだなあ、と脱力感を感じてしまうというのが正直な心情だ。
さて私は「それ」を芸術だと考えている。そして「質を問わない芸術」なんてのはありえない。だから湯川さんのように「質を問わない」という発想が出てくること自体考えられないし、とても異様に感じる。
で、なぜ「質を問わない」というみょうな発想が出てくるのか無理やり想像すると、前回のエントリーに書いた以下の結論にたどりついてしまうのだ。3点だけあげよう。
(1)ほかのエントリーもふくめて読むと、湯川さんの中には質とは別のもうひとつの理想があるように感じる。それは「みんなが同じように参加できなきゃいけない」、「そこに分け隔てがあってはならない」みたいな一種の平等主義だ。ここで矛盾が起きるんじゃないかと想像できる。質に価値を感じながらも、イデオロギーにとらわれて別の行動を取ってしまう。これを教条主義という。意味のわからない人もいるだろうから、書いておこう。
質の高いブログがたくさんあるのは事実だけど、世の中のみんながみんな、一定水準をクリアした文章が書けるわけじゃない。当たり前の話だが、人間はいろいろだからクオリティにはばらつきが出る。となると一方ではブログの質に驚きながらも、質を尺度にしてしまうと「みんなが参加できる参加型ジャーナリズム」が実現できない。
だからホントは質が大事だと思ってるんだけど、掲げる戦略としては「記事の質に関してはそれほど問題にはしていない」という話になる。これが【仮定1】である。
(2)質に意味を感じながらも、質をモノサシにしたら平等という大切なイデオロギーに抵触するからやめとこう。で、「質は問いません」と世間体モードになる。下衆のカンぐりかもしれないが、どうもそんな雰囲気を感じてしまう。
(3)ただし山川さんは「社会の階層間対立を煽るような方法論は、個人的にあまり好ましく思わないのだが」としながらも、「湯川氏のジャーナリズム観の持つ、ある種の青臭い民主主義思想には、それなりに好感が持てる」と論じている。私はこの点には同意できない。
それは「参加型ジャーナリズム」なるものに対する万人の参政権を確保せんがために、人間個々がもつ自然な能力の差をも仮想的に平準化しようとしているように見えるからだ。これは民主主義というより、芸術に対するファッショ(笑)だと思う。
きょうじょう-しゅぎ けうでう― 5 【教条主義】本当はこれは書きたくなかったのだが、話をわかりやすくするためにひとつだけ教条主義の例をあげよう。
事実を無視して、原理・原則を杓子(しやくし)定規に適用する態度。ドグマティズム。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
それは自衛隊が存在するのはだれだってわかってるのに、内部的にはずっと自衛隊は「ない」ことになっていて、最後には自衛隊の「存在を直視する」と言って笑わせてくれた昔のどっかの党である。
念のために言っておくが、もちろんこれは湯川さんが特定の政治活動をしているという意味ではない。あくまで教条主義がいかにナンセンスかをしめすために、ある政党の例を出しただけだ。私は湯川さんを認めてないわけじゃない。だけど湯川さんには、ともすればそんな教条主義に走ってしまいそうな「あやうさ」を感じるのだ。
『山川草一郎ジャーナル』さんは湯川さんのそういうところを称し、「湯川氏のジャーナリズム観の持つ、ある種の青臭い民主主義思想には、それなりに好感が持てる」と言う。なぜ山川さんが「青臭い」とわざわざつけ加えた上で好感がもてると書いているのか、私にはよくわかる。
だけど私は山川さんのように、ゲタをはかせて甘く採点する気になれない。で、私は湯川さんのそれは「あぶない」とはっきり言っているのだ。
さてhideさんはコメントの最後をこう結んでいる。
湯川氏が「ジャーナリズム」をこのように捉えているのであれば、「第3の市民記者新聞」というエントリの記述は特に問題ではないように思いますが、いかがでしょうか。もうおわかりだろう。以上、述べてきたように、私の目から見れば依然として「問題大アリ」ってことになる。
くりかえしになるが、私は湯川さんを全否定してるわけじゃない。湯川さんが書いてることは、私とけっこう共通してるのだ。ただし湯川さんは自分をもっと客観視し、自分のはらんでいる「あやうさ」を見つめなおしてはどうかというのが私の意見だ。
まったくよけいなお世話だし、大変失礼な物言いだとは思うけれども。
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(追記)文章中、(3)の段落を一ヶ所、改行した。また文中の「ナンセンスなのかを」を「ナンセンスかを」に、「教条主義的に走って~」を「教条主義に走って~」に修正した。もちろん文意は変えていない(2005.8/7)