貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

福島市文字摺・普門院前③芭蕉の句碑!

2024-12-09 15:07:04 | 日記
令和6年12月9日(月)
福島市文字摺・普門院前③

 元禄2(1689)年、
芭蕉と曾良は福島町に宿をとる。
 翌朝二人は岡部の渡しを渡り、
文知摺観音を訪れる。 
<芭蕉句碑>

 この地で
芭蕉は一句詠んでいることが、
曾良の「日記」でわかる。
「五月女に 
  しかた望ん 
   しのぶ摺り」
(この句はふくしま南幼稚園南側
の句碑に残っている)
とあり、それが
「早苗とる 
  手もとや昔 
   しのぶ摺り」
となり、
「ほそ道」の句になったという。
 若々しい芭蕉の立像も
生きているようだったが、

周囲が工事中で
ゆっくり偲ぶことはできず。
 残念!
~つづく。

福島市文字摺・普門院②虎女と融の悲話と歌!

2024-12-08 15:35:40 | 日記
令和6年12月8日(日)
福島市文字摺・普門院②

 その悲恋物語とは!
 「遠い昔の貞観年中
(9世紀半ば過ぎ)のこと。
 陸奥の地を訪れた源融は、
村の長者の娘・虎女と出会う。
 日ごとに二人の情愛は深まり、
融公の滞留はひと月にも及び、
再会を約し、
遂に都へと戻る日がやってくる。
 再開を待ちわびた虎女は、
慕情やるかたなく
「もちずり観音」に
百日参りの願をかけた。
 満願の日を迎えたが、
都からの便りはなし。
 嘆き悲しんだ虎女が
ふと目を遣ると、
「もちずり石」に慕わしい
融公の面影が彷彿と
浮かんで見える。
 しかし、
近づくとそれはすぐに消えてしまう。
 虎女は遂に病の床につく。
 その後、
一辺の歌が都の使いの者により
虎女のもとに届けられる。
 届いた歌には
「みちのくの
  忍ぶもちずり
     誰ゆえに 
  みだれ染めにし
   我ならなくに」
と、
融が遠く都で恋の思いに
心乱れている様子が記されていた。 
<甲剛碑等>
   
 故事にちなんでもちずり石は、
別名「鏡石」とも呼ばれている。 
 境内の奥には
虎所と源融
(京都嵯峨の清涼寺より土を移す)
の墓が建立され、
当時の歴史を今に伝えている。 
 元禄2(1689)年、
芭蕉と曾良は福島町に宿をとる。
翌朝二人は岡部の渡しを渡り、
文知摺観音を訪れる。 
<芭蕉立像>

~つづく。

福島市: 文字摺観音:普門院①その由緒と歌枕の地として!

2024-12-07 14:34:36 | 日記
令和6年12月7日(土)
福島市: 文字摺観音:普門院         
 文知摺観音は
小倉百人一首の歌枕の地。
 松尾芭蕉、正岡子規などの
文人墨客が多数訪れた場所
でもある。
<文字摺観音・普門院前>

 全域が
福島市の文化財に指定され、
日本最北端といわれる多宝塔は
福島県の重要文化財指定。
 資料館「伝光閣」には
美術資料とともに古文書や
歴史資料が展示されている。

 行基菩薩作
といわれる秘仏観音像のご開帳は
33年に一度行われ、
次回は2049年の予定。
 平成28年10月より、
文知摺観音は曹洞宗寺院・普門院
として新たな歴史を歩み始める。

 新緑と秋の紅葉の時期の
幾重にも重なるモミジの
グラデーションは特に見事。
 かつてこの地は、
綾形石の自然の石紋と綾形。
 そして、
しのぶ草の葉形などを
摺りこんだ風雅な模様の
「しのぶもちずり絹」
の産地だったという。

 その名残を
今に伝える文知摺石は、
都からの按察使(巡察官)、
源融(みなもとのとおる)と
長者の娘・虎女の悲恋物語
の舞台となり、
小倉百人一首にも詠まれている。
 「陸奥の 
  しのぶもぢずり 
   たれ故に 
  乱れそめにし 
   我ならなくに」
と。
 その悲恋物語とは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
~つづく。

二本松市観世寺③鬼婆岩手の妄念は因果応報の結果に!

2024-12-06 13:48:33 | 日記
令和6年12月6日(金)
二本松市観世寺③
 すると、
菩薩像が空へ舞い上がり、
光明を放ちつつ破魔の白真弓に
金剛の矢をつがえて射ち、
鬼婆を仕留めることとなる。
<芭蕉と子規の参詣記念>
<子規の句碑>

 鬼婆は命を失ったものの、
観音像の導きにより成仏する。
 祐慶は
阿武隈川のほとりに塚を造って
鬼婆を葬り、
その地は「黒塚」と呼ばれるようになる。     
 鬼婆を得脱に導いた観音像は、
「白真弓観音(白檀観音)」と呼ばれ、
後に篤い信仰を受ける。

 その昔、
岩手という女性が京の都の公家屋敷に
乳母として奉公している。   
 だが、彼女の可愛がる姫は、
生まれながらにして不治の病に
おかされており、5歳になっても
口がきけないほど。

 姫を溺愛する岩手は
何とかして姫を救いたいと考え、
妊婦の胎内の胎児の生き胆が
病気に効くという易者の言葉を信じ、
娘を置いて旅に出る。

 奥州の安達ヶ原に辿りついた
岩手は岩屋を宿とし、
標的の妊婦を待つ。
 長い年月が経ったある日、
若い夫婦がその岩屋に宿を求める。
 女の方は身重である。
 ちょうど女が産気づき、
夫は薬を買いに出かける。
絶好の機会である。

 岩手は
出刃包丁を取り出して女に襲い掛かり、
女の腹を裂いて
胎児から肝を抜き取る。
 だが、
女が身に着けているお守りを目にし、
岩手は驚く。
 それは自分が京を発つ際、
娘に残したものだ。
 今しがた自分が殺した女は、
他ならぬ我が子だったのである。
 あまりの出来事に
岩手は精神に異常を来たし、
以来、
旅人を襲っては生き血と肝をすすり、
人肉を喰らう鬼婆と
成り果てたのだという。

 これらの話を、
宝物資料館に設置されたビデオで、
唯ひとり鑑賞。
凄惨な因果応報?


二本松市観世寺②能の黒塚鬼婆伝説をひもとく!

2024-12-05 13:55:03 | 日記
二本松市観世寺②
 黒塚は、
福島県二本松市(旧安達郡大平村)
にある鬼婆の墓、
及びその鬼婆にまつわる伝説。  
<本殿>
 
 安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。
安達太良山東麓)に棲み、
人を喰らっていたという
「安達ヶ原の鬼婆」
として伝えられる。


 黒塚の名は正確には
この鬼婆を葬った塚の名を指すが、
現在では鬼婆自身をも
指すようになったという。
 能の『黒塚』も、
長唄・歌舞伎舞踊の『安達ヶ原』、
歌舞伎・浄瑠璃の『奥州安達原』も
この黒塚の鬼婆伝説に基くもの。

 神亀丙寅の年(726)の頃、
紀州の僧・東光坊祐慶が、
安達ヶ原を旅している途中に
日が暮れ、一軒の岩屋に宿を求める。
 岩屋には一人の老婆が住んでいる。

 祐慶を親切そうに招き入れた
老婆は、薪が足りなくなったので
これから取りに行くと言い、
奥の部屋を絶対に見てはいけないと
祐慶に言いつけ、岩屋から出て行く。
<鬼婆石像>


 しかし、
祐慶は好奇心から戸を開け、
奥の部屋をのぞく。
 そこには人間の白骨死体が
山のように積み上げられていた。
 驚愕した祐慶は、
安達ヶ原で旅人を殺して
血肉を貪り食うという
鬼婆の噂を思い出し、
あの老婆こそが
その鬼婆だと感付き、
岩屋から逃げ出す。
 しばらくして
岩屋に戻って来た老婆は、
祐慶の逃走に気付くと、
恐ろしい鬼婆の姿となり、
猛烈な速さで追いかける。 
 
      
 祐慶のすぐ後ろまで迫る鬼婆。
絶体絶命の中、
祐慶は旅の荷物の中から
如意輪観世音菩薩の像を
取り出して必死に経を唱える。
~つづく。