令和6年8月11日(日)
京都市嵯峨野: 落柿舎(らくししゃ)
<落柿舎出入口>

落柿舎は、
元禄の俳人向井去来の遺跡である。
<去来の庵>

去来は
芭蕉の門人にて師翁の言葉に、
「洛陽に去来ありて、
鎮西に俳諧奉行なり」
と称えられる。
去来が落柿舎を営んだのは、
貞享4年(1687)の前。
<去来の句>

芭蕉が初めて訪れたのは
元禄2年(1689)。
併て三度来庵す。
元禄4年には、
元禄4年には、
4月18日から5月4日迄滞留し、
その間に『嵯峨日記』を誌す。
現在の落柿舎は、
現在の落柿舎は、
蝶夢門下の井上重厚が、
明和7年(1770)に再建したもの。
当時すでに去来墓は
現在地にあったそうだ。
去来は蕉門第一の俳士にて、
去来は蕉門第一の俳士にて、
芭蕉の最も信頼した高弟である。
向井家の先祖は
向井家の先祖は
南朝の征西将軍懐良親王に
従って西下し、
肥後国に菊池向井里に住したが、
後肥前に転じ、
祖父の時長崎に移る。
<落柿舎制札>

去来は父元升の次男として
長崎で出生。(1651~1704)
元升は儒者で、
元升は儒者で、
長崎に聖堂を建て祭主となり、
傍医を業としたが、
天満神霊の夢の御告によって、
京へ上り、名医の誉を喧伝される。

去来の青年時代は、
武藝に専心し、
その名声鎮西に知られたが、
父の死後上京し、初め軍学、
有職故実、神道を学ぶ。
去来が俳諧に入ったのは
貞享初年という。
蝶夢は『去来発句集』、
蝶夢は『去来発句集』、
その序で、
「去来、
「去来、
丈艸は蕉翁の直指の旨を
あやまらず、
風雅の名利を深く厭ひて、
ただただ拈華微笑のこゝろを
よく伝へて、
一紙の伝書をも著あらわさず、
一人の門人をももとめざれば、
ましてその発句の書
集むべき人もなし。
この寥々たるこそ、
蕉翁の風雅の骨髄
いたるべければ、
予としごろ此の二人の風雅を
したひ……云々」
と語っている。
落柿舎の西隣は
落柿舎の西隣は
嵯峨天皇皇女有智子内親王の墓
に接す。
皇女は初代の賀茂齋院にて、
当代第一の漢詩人との名誉を
得られたのは、
十七歳の少女の時。
落柿舎の北、
落柿舎の北、
去来墓への道の傍の西行井戸は、
西行法師の出家当時の草庵の趾と、
古来より伝承されている。

落柿舎の名の由来は、
去来の『落柿舎記』によると、
「庭に柿の木40本有り。」
ということに因る。
~つづく。
~つづく。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます