何でもない日々

優しさの素は幸せ
幸せの素は楽しい
楽しく生きる人は優しい

スーツと手袋と深淵

2022-03-19 14:15:25 | 詩はあいまいな哲学
頭は勇気を知らない。
 勇気は微笑みと誇りしか知らない。

自由を欠くとは、自分が自由であると信じない事。
私は先ず、自由を欠く愛は愛ではないと気付いた。
愛に関する劇で、心臓と脳のどちらかを選択しなければならない場合
それはその諸段階の何れにも停止することが出来ずに
それが上昇しないのであれば低落させてもならぬ。

喜劇に表題を与える機構は明らかである。
愛することの自由な、もはや強制されることからも自由で、
自分を自分に還す場所が信仰で
人の気に入る事にも、尊敬することにも関心を持たず
どう考えてもそこには何の愛もなく、
他を解放する弾道は高く上がらず最底辺で
問題全体が抹殺されて睡眠の深淵(しんえん)が見出される。

アルセストは自分が自由であることを知ろうとして出来ない。
この問題は彼の全生活の問題だからで、
迷信によって説明するのは極めて不当だからである。

無は非存在のことで、豊穣な産みをもたらす海は
命の源であり、媒体としても万物を循環させる。

罪人がいて泣く人を存在させる。
記憶されて時間も空間も本能も共謀罪。
悲しみに同情するなら両者負け。
喜んで対等であるなら両者勝ち(価値)。

世界と生存の意味に関わる価値意識(礼服、スーツ)に
自己を最小化し
限りなく軽きにへと根差されている=ニヒリズム(虚無主義)
が深淵に飾られる。

神典で善と悪が生起した歴史や
現在も重きを置く正義とやらには
時間的な始まりとを持って
空間的に限定的、分割できるものであるか?

涙は突き上がる本能。
醜く卑しいものも最高度の礼儀作法だ。
本能の満たしは暗い秩序さえ鮮やかに。

芸術は人の手によって世を救ってみせる。
克服されたことだけ観察し表現するから。
手袋で隠されても手も演者として証人として
顔の表情以上に手花を手向けて
献上するために演出が施されていると思えてきた。

奏者やアーティストの手こそ隠さず誇らしく表現されればいいと思えてくる。
白い手袋して演奏する不自然さは、
触れられない、触れたくない行為として?
何か表現上での必要があってだとしたら純粋であるあまりに。

何か、消費意欲を掻き立てる為にか、慣習に習ってか
奇麗な手で商品を引き立たせてあげてたりしますね。
自然と謙譲するような気持ちを込めているのかも。

私の手は小さいが青筋浮き節張って骨太で
幼少より親に「不細工な手」と言わせるぐらいである。
でもこの手なしで私の人生を語ることは出来ない。
大切な相棒の手。
暢気な手。

金を残す人は下、仕事を残す人は中、人を残す人は上だという。
意識がある最期の時、手に握っていたいのは結局人となるはず。
マニキュアは面倒だし着飾ったようなのが似合わないからしないけど
爪やすりで指のお手入れする時間が好き。
触るもの傷つけやしないようにも。

私の遺影なら手も映った物にしてほしい。
愛と平和と自由と独りのピース。

Flesh Juicer - FUNERAL - Official Video 血肉果汁機 - 上山
2020-04-04 15:13:30の再編
2021-07-07 10:05:39の再々編
2021-09-07 14:17:36再^3編
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