北方四島の帰属。
北方四島を「北方領土」と呼び、具体的には北海道北東に位置する択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島と歯舞群(はぼまいぐん)島の四つを指すもの。
歯舞群島は、貝殻、水晶、秋勇留、勇留、志発、多楽などの島々からなる群島。
その読みは、かいがら・すいしょう・あきゆり・ゆり・しぼつ・たらく。
根室の納沙布岬から一番近いところは、歯舞群島の貝殻島の3.7キロメートル。
そこがロシアに占有されているの。
帰属の問題ってことは、元々誰のものだったのかを明らかにすることと理解してよろしいでしょうか。
それを解決してロシアとの間で平和条約を締結するという基本方針を持つ日本。
ロシアとの間で強い意思をもって交渉を行っていただきます…、とは北方領土復帰期成同盟のサイト。
ついでに外務省のサイトも眺めて、自分の頭の中を整理してみます。
戦後80年も経つのに…。
いや経ってしまったから厄介なのかも知れませんな。
当時を知る人が限りなく減っているのだから。
帰属を調べると、日本はロシアより早く、北方四島、樺太及び千島列島の存在を知り、1644年には、クナシリ(国後)島、エトホロ(択捉)島などの地名を明記した地図が編纂され、この地域に渡航した日本人も多かったとか。
17世紀初頭より松前藩が北方四島を領地として徐々に統治を確立していったとの記録。
対して、ロシアは18世紀初めにカムチャッカ半島を支配した後、千島列島の北部に現れてようやく日本と接触するようになるのです。
日本がロシアと通好条約を結ぶのは1855年2月。
国家間の交流を始めるも、この条約では当時自然に成立していた択捉島とその北側にあるウルップ島の間の国境をそのまま確認するもの。
その後、1875年に結ばれた樺太千島交換条約により、千島列島をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄してしまう。
この時の千島列島とは、シュムシュ島(千島列島最北の島)からウルップ島までの18の島を指すとか。
そして1905年、日露戦争後のポーツマス条約で、日本はロシアから樺太の北緯50度以南の部分を譲り受けるのです。
さて、第二次世界大戦終盤と言うか、敗戦後の事件と称した方がいいのかも知れませんがね。
敗戦国の日本が扱われた大西洋憲章とカイロ宣言、ポツダム宣言は、1941年から45年までのこと。
そして、1951年のサンフランシスコ平和条約で、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄するの。
でも、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれず、かつソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名していないことから、条約の権利を主張することは出来ないってのが日本の主張になりますか。
ううーん、知らなかったのか忘れていたのか。
読み込むと「へーっ。」って思うこと多し。
やっぱり勉強しなきゃダメだな。
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