しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年代の政治・政党

2020年11月28日 | 昭和21年~25年
ライシャワーの日本史 文芸春秋 1986年発行 


昭和20年代の政治・政党


1920年代の政党活動の趨勢があまり形を変えずに戦後まで生き残っていた。

1945年10月初め、旧民政党が進歩党として生まれ変わり、20年代のリベラル派外相であった幣原喜重郎を党総裁に選出した。
幣原は既に首相に就いていた。
旧政友会は、自由党の名のもとによみがえった。
戦前の社会大衆党は社会党と名乗りスタートを切った。
1924年以来非合法だった共産党も再発足した。

自由党は、老練な鳩山一郎が率いていたが、占領軍は総選挙直前に鳩山を追放した。
後継の総裁には、元外務官僚で駐英大使の吉田茂が就任した。同年5月に首相となり7年間首相の座を占めた。
戦後27年間の3年間を除き、歴代首相はすべて官僚出身者が占めた。





当時の日本政府は、アメリカ占領政策の執行者という特異な役割を演していたが、吉田の立場はそれを端的に物語っていた。
国会では少数与党だけを頼りに首相の座を守りつづけたが、
政府の最大の仕事といえば、アメリカ側と折衝し占領政策に影響力を与えるよう努めることであった。
この任務を遂行するうえで、堪能な英語力がものをいったから、占領下の4人の首相のうち、幣原・吉田・芦田の3人までが外務省であったのも偶然ではない。
吉田は占領軍を後ろ盾にし、高圧的なやり方で事を運ぶことができた。

日本にとって、1945年の降伏につづく10年間は、混乱と苦難の10年であったが、日本はよくその外的内的後遺症を克服した。
革命的動乱も社会的崩壊も、なに一つ怒らなかった。
日本人の変革への欲求とアメリア人の改革への熱意がうまく溶けあって、政治と社会の趨勢を形づくった。
議会制民主主義がしっかりと打ち立てられ、生活も安定を取り戻して、日本は驚くばかりに平等で階級差のない社会となりつつあった。
国際社会への復帰も認められ、内気で控え目な国ながら、ほかの諸国の善意と国連の恒久平和の理念を信頼したいと熱望していた。

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終戦前後の岡山県の新聞

2020年11月26日 | 昭和21年~25年
「岡山市百年史下巻」編集・岡山市 ぎょうせい 平成三年発行


終戦前後の岡山県の新聞



岡山市の『合同新聞』(現、山陽新聞)は一県一紙の政府の政策により、昭和16年県下の地域紙を合併、
昭和20年3月には本土が寸断されたときを想定して、題字の下に大坂紙朝日・毎日の題字も付けていた。
委託の形であった。
終戦前の県下で読める新聞は「合同新聞」一紙であった。
昭和20年6月29日未明の岡山空襲で本社も印刷所も焼失した。
上道郡幡多村’(現、岡山市)でタブロイド版の発行が続けられた。

一県一紙に統合させられていた新聞は再び分離へと動いた。
「倉敷日報」は昭和20年12月週刊「山陽日報」で復刊、のち日刊の「倉敷新聞」となる。
津山市の「津山朝日新聞」も21年1月復刊した。
用紙事情が悪く、新興紙に用紙割り当てが行われたため、昭和21年5月姉妹紙として「夕刊岡山」
(現、岡山日日新聞)が発刊され、11月には「山陽朝報」が出された。


『合同新聞』は昭和23年5月「山陽新聞」と改題、24年3月下石井(現、柳町)の新社屋に移り、山陽朝報を吸収合併した。

昭和24年12月「夕刊山陽」(現在の夕刊)を発刊した。
「山陽新聞」は岡山県下を主体に備後・香川へ進出していたが、
昭和30年には、さらに山陰・愛媛版も発行、赤穂だよりも掲載して拡張をはかったが、
のち撤収した。


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国家神道の解体

2020年11月07日 | 昭和21年~25年
国家神道の解体

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「岡山市百年史下巻」編集・岡山市 ぎょうせい 平成三年発行 より転記


国家と神道の分離

連合国司令部は、昭和20年12月15日いわゆる「神道指令」と呼ばれる覚書を発した。
前文の中には、
「日本国民を欺き侵略戦争へ誘導する意図のもとに、
神道の教理並びに信仰を歪曲して軍国主義的並びに過激なる国家主義宣伝に利用するが如きことの
再び起ることをことを防止する為に」とある。
主な内容は国家と神社神道の完全な分離、国家神道(神社神道)の教義・儀式の宣伝の禁止、
内務省神祇院の廃止などであった。
そして神社神道は国の保護から離れ、軍国主義、過激な国家主義的要素を除けば民間の一宗教として存続できることを明らかにした。
翌21年1月1日、
天皇みずからの神格否定の人間宣言、神祇院廃止、2月2日宗教法人改正公布によって解体した。


連合国総司令部は軍国・国家主義を除けば宗教とみなした。
それによって神社神道が廃絶をまぬがれた。
「アメリカ人は信仰の自由を大切にする。
神道はつぶしたくても、信仰の自由を犯してはたいへんだと、自らジレンマにおちいった」
改革を迫られた神社神道は、昭和21年2月宗教法人神社本庁を設立した。
翌3月岡山県神職会が中心となって、神社本庁県支部として宗教法人県神社庁を設立した。
連合国総司令部がもっとも注目していたのは、靖国・護国神社グループの動きであった。
靖国・護国神社グループは軍国主義的色彩を消すのに懸命であった。



(岡山護国神社 2016.4.5)



護国神社から操山神社へ

岡山県護国神社は昭和21年11月、宗教法人操山神社と改称した。
(講和条約発効の昭和27年、旧名に戻す)

明治初年南朝などの忠君を祭神とする神社が各地につくられた。
操山神社につくられた三勲神社もその一つで、和気清麻呂・楠正行・児島高徳を祭る県社であった。
終戦後浮浪者の宿になり、屋根の銅板は盗まれ、社殿の板・柱は薪にされた。
昭和22年、有志が御霊屋を玉井宮に移した。
氏子もなく地域との結びつきのなかった神社の象徴的なできごとであった。



(玉井東照宮 2016.4.5)



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「街の子」昭和の歌姫に--美空ひばり

2020年10月11日 | 昭和21年~25年
30代の時、横浜市の磯子に住んでいたことがある。
美空ひばりは磯子の魚屋の娘という話は聞いてはいたが、自分も若く、芸能界のことを思う余裕はなかった。

今は、その魚屋さんがあった場所位は、行っておけばよかったと思う。
亡くなってから久しいが、よく見れば義兄(姉の夫)と同じ年だ。
義兄は「加山雄三と同じ歳」とはよく言っていたけど、美空ひばりと同じというのは聞かなかった。何故かな?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「昭和時代 敗戦・占領・独立」 読売新聞社著 中央公論社 2015年発行

美空ひばり

「街の子」昭和の歌姫に




1948年(昭和23)年5月1日、大人の歌謡曲を軽々とこなす少女に聴衆は度肝を抜かれた。
わずか10歳の小柄な少女が、横浜野毛の横浜国際劇場でデビューした瞬間だった。
人気歌手の渡辺はま子や小唄勝太郎、喜劇の柳家金語楼らが出演していたが、
大御所顔負けの存在感をみせた。

美空ひばりは1937年(昭和12)年5月29日、横浜市磯子区の滝頭で魚屋を営む加藤増吉、喜美江夫妻の長女和江として生まれた。
店があったのは、八百屋や駄菓子屋が並ぶ庶民的な「屋根なし市場」の一角。

早熟の才能は、幼くして周囲の注目を集めた。
1943年、応召する父親の壮行会では、「九段の母」を歌って評判になる。
以後、地域の壮行会に呼ばれて披露した「出征兵士を送る歌」などは、集まった縁者の涙を誘ったという。


辛辣な批判の声

1949年1月、東京有楽町の日劇のショーに出演。
同年、「悲しき口笛」で大ヒットを飛ばして一気にブレイクし、歌謡界と映画界を股にかけた彼女の快進撃が始まった。
しかし、大衆の中から登場した幼いスターには逆風も多く、辛辣な批判にさらされた。

本格デビュー前の46年12月、9歳の彼女はNHKのど自慢の予選審査に参加した。
しかしカネは鳴らなかった。
「子供が大人の歌をうたっても審査の対象にはなり得ない。ゲテモノは困りますな」。

49年の掲載された雑誌のルポは、無理に働かされ、疲れ切ったトーンに貫かれていた。
「児童の福祉」が考慮されていないなどとして、彼女の活躍ぶりに水を差す意図は明らかだった。
詩人のサトウハチローは「あどけさがまるでない。怪物、バケモノのたぐいだ」




銀幕のドル箱スター

「悲しき口笛」ヒット




美空ひばりは映画の大スターでもあった。
松竹映画の「踊る竜宮城」でデビュー曲「河童ブギウギ」を歌った。
ひばりの歌声に魅了された万城目正は、12歳の少女のために「悲しき口笛」を作曲した。
これを主題歌にした同名映画がひばりの初主演作品となった。
映画の原作がすぐに作られ、雑誌『平凡』に掲載された。
10月に映画が公開されると、レコードは爆発的に売れた。
3万枚でヒットといわれた当時、50万枚を超える大ヒット曲になった。




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闇の女たち

2020年09月27日 | 昭和21年~25年
東京闇市興亡記」 猪野健治編 双葉社 1999年発行



RAA解体

「忘れもしないのは昭和21年3月27日のこと。
昼頃目をさますと、突然、全員集まれという。
『GHQの指令で、今日限り、ただ今から慰安所は一切オフリミットになったから、皆さんは立ち退いてもらいたい。
皆さんの犠牲で多くの一般婦女子の純潔が護られたのは歴史的事実であって、どうか国のために尽くしたということを誇りと慰めにお別れしてほしい…』
寝耳に水とはこのことをいうのであろうか」

「下着類の入った風呂敷三つを持って出た。
その夜から私たちは兵隊相手の街娼になった。」

彼女たちの多くは、すでに発生していたパンパンの一群へ身を投じていくことで生きのびようとする。

有楽町のガード下、新橋。
ラク町(有楽町)、バシン(新橋)はアメリカ兵相手の「洋パン」が多く、身なりも派手であった。
ノガミ(上野)、ジュク(新宿)は日本人相手で、どことなく汚らしく地味な服装であった。

闇の女の怖れたものは、稼ぎを横取りされたり、性病にかかることだった。
そのため自衛上、縄張りごとにきっぷのいい姉御がリーダーシップをとるようになる。
そんなところへ,RAA慰安婦たちが合流してきて、街娼は盛り場にあふれ、社会問題化する。



取締り

GHQの要請で性病を防止するため、狩り込みが行われた。
当時、有楽町、新橋など都内に600~700名の闇の女がいた。
「昭和21年3月10日警視庁はMP協力の下に一斉検挙。最年少16歳から最高38歳で街頭で進出していた300余名。
目立って多いのは戦災で家を焼かれ肉親と離れた娘たちである」
取り調べの上、上悪質者以外は保護者と共に説諭放免する。

闇の女と吉原などの集娼の女とでは、はっきりとした区別がなされた。
当然仲も悪く、病院内ではケンカがたえなかった。
あの世界で生き残るには、気を張って、男まさりにふるまわなければ、ひねりつぶされる。口のきき方も乱暴。
やめらないのは、お金が魅力であるからである。
当時のサラリーマンの給料を二日で稼いでしまう。
稼いだ金はすべて自分のものになる。
ショートで一日10人も相手をする街娼もいた。

取締り強化と、世の中が秩序を保ってくるにつれて、パンパンと呼ばれる女たちにも、やがて転機がくる。

赤線が完全に復活する。
街娼は組織に吸収され街にはヒモである客引きの群れがあふれた。


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カストリ雑誌⑥証言の宝庫

2020年09月26日 | 昭和21年~25年
「東京闇市興亡記」 猪野健治編 双葉社 1999年発行



証言の宝庫=カストリ雑誌

パンパンと呼ばれていた街娼は焼跡闇市時代の一つの象徴であるが、カストリ雑誌もまた、そこで売られていた。存在そのものが象徴であった。
ではカストリ雑誌とはいったい、どのような雑誌だったのだろう。

密造のインスタント焼酎であるカストリは、一合ならともかく三合も飲むと悪酔いして倒れてしまう。
また、印刷用紙の不足を補うため、センカ紙という、チリ紙を転用した、みるからに悪質な再生紙を使用していた。
つぶれるところが多く、吹けば飛ぶようなもの、という意味もこめられていた。

もともとは大衆雑誌なのである。
そして大衆雑誌には、その時代の世相や風俗、人々の生きざま、意識などが、色濃く影を落とし、刻みこまれている。

敗戦直後の飢餓と廃墟と混乱と悪性インフレの闇市時代は、その日その日を生きることにひたすら死にものぐるいで、人間性、というよりも
欲望がむき出しにされて、生臭く、猥雑で、騒然としており、残酷であり、淫蕩であった。

戦後いちはやく登場した大衆雑誌「りべらる」は、創刊当時は文化総合雑誌といってよい内容であり、読物誌としての色彩を濃くしてからは現在の中間小説誌にあたる。
創刊以来、エログロ雑誌、悪書といわれ非難攻撃の矢面に立たされ、抹殺されようとした。





センカ紙は風船爆弾の落とし子

風船爆弾がつくられなくなってからは、コウゾの漉き機械は、無用の長物となっていた。
しかし、あまりにも印刷用紙が不足していたので代用印刷用紙を作ってみたところ飛ぶように売れた。
みるからに粗悪な悪質紙だったが、出版界の歓迎ぶりはすさまじかった。

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カストリ雑誌⑤「カストリ雑誌研究」

2020年09月26日 | 昭和21年~25年
「カストリ雑誌研究」 山本明著 出版ニュース社 昭和51年発行  




カストリ雑誌とは



闇市に、
エロ雑誌が、
ゴザの露店で売られていた・・・というのは間違っている。

カストリ雑誌が本屋で売られていたのは1946年9月以降。戦後1年2ヶ月後である。
ゴザで売られたのは1949年から53年あたりまで。

カストリ雑誌が、どのような層に、どのような意識で読まれていたかは不可能だが、
1947年で定価30円、40円というのは高い価格であった。


カストリ雑誌と呼ばれるものは、戦時中は抑圧されていた性をとりあつかっていることが特徴である。
外観は、粗悪なセンカ紙。
見るからに安っぽい表紙と、写真・さし絵ともに、女性の裸体、ぬれ場が大部分。・・・つまり、さし絵をみればわかる。

『りべらる』
カストリ雑誌というと、すぐに『りべらる』を想起する人が多いけれども、『りべらる』は文芸娯楽誌であって類を異にする。
『りべらる』は菊池寛命名で、創刊号には文部大臣はじめ、菊池寛、船橋聖一、武者小路実篤、亀井勝一郎、大仏次郎などが名をつらね、
モーパッサンの小説が掲載され、一種のモダニズムを売り物にした雑誌だ。

『猟奇』
『猟奇』は、性を正面からとりあげた雑誌がでたというだけで、大変なセンセーションを巻き起こした。
「H大佐夫人」は、いまからみると、何の問題もないが、「具体的な描写と淫らな挿絵と相まって猥褻を表現した」ということになる。









キス
カストリ雑誌の読物、エッセイ、小説からいくつかの共通テーマを抽出することができる。
その、もっとも多いのがキスである。
1947年ごろ、キスについて論争が展開されていた。
否定論は、
①日本の伝統にない。
②接吻は非衛生で忌むべき。
③淳風美俗に反する。
これに対する反論がカストリ雑誌をにぎわす。
封建制がキスを薄暗い閨房に押し込めていた。
民主主義ではキスは公然と行われる、というのである。

では、キスはどうしてするのか
『リーベ』の巻頭論文「接吻について」は、
「ただ口と口をつければいいというものではない」と大見得をきる。
カストリ雑誌は地方でも床屋に置かれ、学校にも持ち込まれた。
一冊の雑誌はボロボロになるまで回し読みされた。
キスはこういう風にする、ということがカストリ雑誌にしか掲載されなかった。









処女に性欲はあるか
「処女に性欲はあるか、女性にも性欲はある」というのがカストリ雑誌の狙いである。
当時正統派のジャーナリズムがとりあげなかった性風俗が満載された。
カストリ雑誌は日本人の貧弱なセックス・イメージを広げる役割をはたした。
接吻には舌を使うものだという、今から考えると噴飯ものの記事が、当時では青少年によって、おどろきの中で読まれたのであり、
処女にも性欲があり、オナニーもするという論文が、彼らの女性観を変えていった。
快楽としての性といえば遊郭しか連想できなかった人々が、日常性の中に性をもちこむようになった。

1949年『夫婦生活』が創刊され、性は夫婦という枠の中におしこめられることになった。
『夫婦生活』は性を管理社会にくみこむ役割を果たすことになった。
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♪リンゴの唄♪

2020年09月22日 | 昭和21年~25年
リンゴは青森や長野が有名だが、
岡山県の南部の茂平でも栽培されていた。
おば(父の妹)は「リンゴで学校に行かせてもらったようなもの」と言っていた。
戦後、茂平にリンゴの木は無かったが、それは”食料増産”も、少しはからんでいたのだろうか?

・・・・・・・・・・・・

「人びとの戦後経済秘史」 東京新聞・中日新聞編  岩波書店  2016年発行


「リンゴの唄」

明治期に青森県で盛んになったリンゴ栽培は長野県などに拡大。
昭和には植民地だった台湾などへ輸出も増えた。
小粒で酸っぱい「紅玉」、持ちがよい「国光」が主流品だった。

だが、戦況悪化で軍部はコメやイモなど主食になる作物の増産を優先した。
1941年にはリンゴの木を新しく植えることを禁止。
1943年には「りんご園耕作転換令」で一部切り倒しとイモなどへの転作を命令した。
元農協職員A氏(89)は、
「リンゴ農家には農薬や肥料も配分されなくなった」と話す。

「リンゴを作るヤツは国賊だ」。
リンゴ栽培技術の研究者M氏は、軍に協力する大政翼賛会が叫んでいたのを覚えている。
清水村は全体の二割を伐採させられた。農家は自ら木を切った。

1944年の晩秋、清水村(現在・青森県弘前市)に
「食糧増産隊」を名乗る130人の青年が大挙してリンゴ畑にやってきた。
木を斧で切り倒し、縄を掛け根元から引っこ抜く。
二週間で3.600本が伐採された。
大豆やジャガイモの畑になった。

地元の警官は、火の見櫓に登り、双眼鏡を使って農家がリンゴの作業をしていないか監視し、
田植え期にリンゴの袋掛けをした農家を逮捕した。

1942年に21万トンだった青森県の生産量は終戦の年には一割にも満たない1万八千トンに激減した。
リンゴ農家は壊滅寸前だった。

※※※

『リンゴの唄』はそんなリンゴ受難の時代に誕生した。
詩人サトウハチローの祖父弥六は、弘前藩士族でリンゴ栽培を指導した人物だった。
だが、軍の検閲で楽曲化は禁じられた。
戦後ようやく日の目をみた。

松竹歌劇団の並木路子は、父と兄が戦死、東京大空襲で母が亡くなっていた。
作曲家万城目正は「並木くん、君に頼むのは忍びないが・・・」
並木は、「戦争で肉親を失ったのは私だけない」と悲しみを捨て、明るく歌った。

戦後初の大ヒット曲『リンゴの唄』は、勇ましいだけの軍歌にあきあきしていた国民は、かれんで希望に満ちた歌に共感したとされる。
だが、国民はリンゴが食べれる時代が戻ってきたことを喜んでいたとの見方もある。

※※※

大量伐採の影響は深刻だった。
農家の多くが苗から育てなければならなかった。
「苗木も生産していた父のところに農家が殺到しました」とM氏。
同県のリンゴ生産量が戦前水準を超えるまで四年かかった。

1969年に刊行された青森県りんご協会「二十年の歩み」には、
「あと2~3年戦争が続いたら全てジャガイモ畑に変わっただろう」と記す。




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カストリ雑誌④カストリ雑誌業

2020年09月22日 | 昭和21年~25年

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「昭和の消えた仕事図鑑」 宮沢優著 原書房 2016年発行 


カストリ雑誌業

---戦後まもなくの昭和21年から25年ごろにかけて出版されたエログロな内容の大衆娯楽雑誌を出版する業者。
紙不足の時代に、屑紙を再生した紙で作られた---


カストリ雑誌が誕生したのは、敗戦後間もなくであった。
それまでの表現の自由から一気に解放され、性、犯罪、怪奇、推理などを描いた出版物が堰を切ったように刊行された。
それを牽引したのが、粗悪な紙で作られたカストリ雑誌であった。
戦後、GHQによって用紙統制されていたが、カストリ雑誌は統制の対象外であった仙花紙で作られた。
主に性風俗を扱ったものが多く、「風俗研究」「りべらる」「アベック」「好色草紙」「怪奇実話」「オール夜話」「犯罪実話」などの雑誌があった。

雑誌「猟奇」の2号は6万部も売れたが、わいせつ物頒布罪の疑いで摘発された。
結局「猟奇」は5号で廃刊。
他のカストリ雑誌も本文中に性風俗の挿絵や口絵があり、21年から百数十種類の雑誌が刊行されたがすぐに消えた。
時流に敏感な学生の中には雑誌を創刊する者もおり、東京大学の学生だった室伏哲郎らは「ナンバーワン」を刊行している。

正当な雑誌を扱う出版社は「内神田」、カストリ雑誌を出す出版社は「外神田」と呼ばれ区別された。
表現の自由を謳い、一時的な人気を博したものの、興味本位な内容に走り、明確な方向性を持たなかったため、結局、カストリ雑誌は昭和25年ごろにはほとんど姿を消した。


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カストリ雑誌③仙花紙盛衰記

2020年09月21日 | 昭和21年~25年


「カストリ雑誌にみる戦後史」 山岡明著 オリオン出版 昭和45年発行



仙花紙盛衰記 
昭和22年初めに「猟奇」2号が、拡大強化された≪刑法175条≫の適用を受ける最初の雑誌になった。
そのため世間の注目を集めたのか、3号から売り上げも伸びた。
それなのに、発行を続けられなくなった。

悪性インフレの激流に呑み込まれてしまった。
定価も高すぎた。
手もちの印刷用紙が底をついた。

昭和23年3月、いわゆる「低俗・不良出版物」は用紙の割り当てをもらえなかった。
自由売買の「仙花紙」に切り替えるしか仕方なくなっていた。
仙花紙は、チリ紙を転用したもので和紙の一種。
昭和42年ごろにはトイレット・ペーパーなど本来の姿に戻った。


「平凡」にはじまる芸能話題誌
昭和20年12月に創刊号。
昭和23年に、編集内容を変えて芸能話題誌への道をあゆむことになった。
なおこの系列の「明星」が創刊されたのは昭和27年だった。

ヒロイン「夜の女」
敗戦日本の売笑婦は貧農の出ではなく、むしろ都会の中小業者、小市民層である事は注目すべき新事実である。
「夜の女」は、戦後混乱期を象徴する一つの存在になった。
いまならキャバレーやバーに勤めるだけですむが、そのころは肉体の切り売りをするより仕方なかった。
あるものは、街角に立ち、またあるものは、赤線とか青線とか呼ばれていた世界に身を沈めていった。

「夫婦生活」へ
「夫婦生活」創刊号は昭和24年6月、取次店の予想を裏切って即日売り切れてしまった。
性医学、
絵入り川柳は多色刷り、
大日本印刷で印刷。
グラフはヌードで、二色刷りの川柳は夏姿夫婦草子。
内容は今の婦人雑誌とあまり変わらない。
昭和25年「夫婦生活」1月号は35万部売れた。
その部数は文芸春秋より上であった。
当時、中央公論・世界・改造が8万部、文春は20万部くらいだった。



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