goo blog サービス終了のお知らせ 

しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

味噌を作る

2024年03月26日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

農村の家の味噌汁は、「汁」であり「おかず」だった。
汁よりも「具」が主役だった。
イモや団子やアサリや河豚や麩や、いろんな野菜も入っていた。

味噌汁を作るのは母であり、
味噌を作るのは父母で、
麹を作るのは母、
大豆を作り、米を作るのも父母だった。
味噌作りで購入品は塩だけ。

味噌作りの日は天気のいい日で、
餅を搗くのと同じように、父母は木臼で味噌をつくった。

 

 

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

味噌
味噌の原料は、米の麹、大麦の麹、裸麦の麹で、
大豆と塩を用いる。
麹は納屋の土間に青草を敷いて、そのうえに蓆(むしろ)を敷き、
蓆に大豆、膚麦、麹のモトをまぜて、ねさせる。
麹を作るのに技術がいる。
笠岡市吉田では秋の彼岸に搗く。
南部地方では味噌は六十日味噌といって、60日すると食べ始め、翌年また新しい味噌を作って食べる。
吉備高原地方では三年味噌といって3年経過した味噌を重宝がる。


「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

調味料

味噌は手作りであったが、醤油、酢、塩、砂糖、油など味噌以外のものは購入した。
また、だしの材料となる煮干しは年中切らしたことはなく、普段のおかずの味付けは、味噌と醤油が中心であった。

味噌

米味噌と麦味噌の両方が作られていたが、終戦後の農地改革で米が比較的自由に使えるようになってから、だんだんと米味噌中心になった。
寒に作った方がカビが生えないといって、味噌作りは主に冬の仕事であった。
庭が上がったら(米の収穫が終わると)すぐに味噌を作った。
米味噌には、小米を使うことが多かった。
まず、米か裸麦を蒸し、麹の素を混ぜ紙袋に入れた。
藁で編んだおひ つに入れてコタツに入れたり、風呂の湯を沸かし、蓋の上へおいて温度を上げ、麹を作った。
また、青草のある時期には、刈り取った青草の上に筵を敷き、
蒸した米を広げて上に筵をかけて家の中の風が当たらないところに置き、
青草の発酵熱を利用して麹を作ったこともあったという。

麺は味噌の花とも呼ばれた。カビがここまでという時に塩を混ぜ、カビがこれ以上生えるのを止めた。
次に味噌用の五升も入る平釜で大豆を炊き、麹と豆と塩を混ぜて搗いた。
麹と豆と塩は同じ量だけ三つ山にして混ぜた。
昔は腐らないように塩は 三合塩でからい味噌であったが、今は一合から一合五勺程度である。
一斗も入る味噌瓶に二つも三つも作った。
大きなしゃもじでしっかり詰め込み、風が当たらないように新聞紙で覆い蓋をした。
三年味噌といって 三年経ったものから食べていったが、三ヵ月から半年ぐらい経つと食べる家もあった。
味噌がなくなった家ではまだ花のにおいがするころから食べた。
味噌搗きは一日がかりであったが、日が経つにつれだんだん甘みが増し、家で作った味噌が一番おいしい。
高度経済成長期以後、各家での味噌作りはだんだんと廃れていった。

 

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

日常のおかず
味噌 

かつては味噌で味付けをすることが多く、また、おかずでもあったので、重要な調味料であり、保存食であった。
原料は、大豆と裸麦の麹・塩である。

いっちょう(一畳)台の上へ莚を二枚敷く。
そこに蒸した裸麦を移し広げる。タネといって麹菌を加えてまぜる。
上へ筵をかけてねかせる。
大豆を風呂または釜で煮て、からうすでついてつぶす。 
これに裸麦の麴をまぜる。
両手でもみほぐしながらまぜ、味噌樽に仕込む。
 一年に一回、春秋の彼岸ごろにつく家が多い。
気温の上から、麴をねかせる(発酵)のに骨が折れない。
60日味噌といって、味噌の仕込みをして60日たつと食べられるというが、一年たって食べ る。
味噌つきをして三年経過したものを三年味噌といい、三年味噌はおいしいという。

 

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

味噌
味噌は、毎日つくる味噌汁に欠かせない。 
そのほか、あえものに使ったり、いりみそ(味味噌)をつくったり、漬物と一緒に焼いたりと、なくてはならないものである。
家族でつくる家が多い。
味噌も醤油も買って食べる人はいない。
毎年仕込むので、味噌倉には三、四本の味噌樽が並んでいる。 
長くおくほどよい味になるといわれ、三年から四年おいて、あめ色になったものを自慢する。
醤油も毎年仕込み、一番醬油、二番醬油としぼる。 
醤油 の実も、ふだんよくごはんに添えて食べる。

 

 

「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


味噌の原料は大豆で、中国山地では米、吉備高原では大麦、南部地方では裸麦の麹を用いた。
笠岡市吉田では、裸麦を甑で蒸したものをネサシてハナ(麹)を作る。
ハナ作りは納屋の土間に青草を敷いて、その上に蓆を敷き、蓆に大豆・裸麦・ハナのモトをまぜてネサセル。
青草のクミ(発酵)の熱を利用する。
大豆は平釜で煮る。
大豆の煮え具合は親指と小指でつぶしてみて、よくつぶれたらよい。
塩の割合は、三合塩といって 裸麦のハナ一升に対して塩を三合いれる。

ハナは大麦のほか、大麦に小麦粉をまぜるとか、小麦だけでハナを作ることもあった。
ハナも自家でネカシていたので、春・秋の彼岸ごろに作れば温度をかけなくてもネルので楽である。
秋の収穫後とか、十二月下旬の正月用の餅搗きのあと搗くことが多い。 
寒水で搗くと、味噌が痛まなくてよいということもある。
寒い時期にハナをネカセルのはむつかしい。 
ハナは蓆にいれ、炬燵でネカセタという。
南部地方では味噌は六〇日味噌といって、六〇日すると食べ始め、
だいたい誕生(一年) 味噌を食べ、翌年また新しい味噌を作る。
たいていの家に四斗樽二本を用意していて、一年で一本食べ終わると、
もう一本の樽のを食べ、空いた樽に新しい味噌を搗く。
かつて、味付けは醤油よりも味噌の方が多かったので、重要な調味料であった。
飯にそえておかずとし、また、焼き魚などつけて食べる。
「味噌がくさる」とかいって、味噌にまつわる縁起は多い。

 

「江戸の町くらし図鑑」 江戸人文研究会  廣済堂 2018年発行


味噌。発酵食品の大関。

昭和の頃、《塩分は健康の敵》 とばかりに嫌われ、塩分の多い味噌も醤油も漬け物も、悪者にされましたが、
平成になって塩分が単純に高血圧の原因だということが誤りだと、医学的に証明されました。
古来の知恵を見てみましても、味噌が身体に良いことが、いろいろと書かれています。

江戸前期の『本朝食鑑』では特に味噌の効能が語られます。
一:味噌は昔から朝夕に食べ、粗食の補助食である。
二:味噌は一日もなくてはならない食品である。
三:大豆の甘さや温かさは、気を穏やかにして、血を生かし百薬の毒を消す。
四:麹の甘みと温かさは胃のつかえを取り、消化を助け、詰まりを正す。
五:元気をつけて、血の巡りをよくする。
六: 髪を黒くし。肌を潤す。

江戸中期の『養生訓』でも、「味噌の成分は身体に優しく、胃腸の動きを補う」と、これもまた肯定的に書かれています。 
そればかりか、国立がんセンターの研究では、味噌を毎日飲む人は50%も、
胃がん、心筋梗塞、肝硬変になる確率が低く、
厚生労働省は毎日三杯ずつ飲む人は乳がんの発生率が40%減少するとしています。

また、高血圧防止に役立つペプチドが含まれ、血圧を下げる効果もございます。
さらに、放射能による康被害を抑える効果も、見出されています。

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

醤(ひしお)

2024年03月26日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

大冝に「ひしお」作りの上手な人がいて、秋になると「ひしお」を売って歩いていた。
買った「ひしお」はおいしかった。
全体、家で食べるものは自給品が原則だったが、
(家で作ったり、穫れたりするものよりも)
買って食べるものは、みな美味しく感じた。

その季節は秋刀魚(サンマ)と重なり、
サンマを七輪で焼いては、醤(ひしお)を付けて食べていた。
ひしおとサンマは、ほんに相性のいい食べ物だった。

 


成人になって、小さなスナックに行くようになった。
酒(カクテル)はジントニックとかマンハッタンを注文し、
つまみは「もろきゅー」を注文していた。

「もろきゅー」とは、ひしおと胡瓜で、一番手頃(安い)なつまみだった。

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


速成味噌である。
笠岡市吉田では裸麦を甑で蒸してハナを作り、塩、水をいれてかき混ぜる。
蚕豆を入れると香ばしくておいしい。
おかずにする。焼魚につけて食べる。

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

醤(ひしお)
裸麦で麹を作り、甕に裸麦の麹五升と炒った大豆・塩二合を加え、水を入れてかきまぜる。
麦飯につけておかずにしたり、焼き魚などにつけて食べる。
焼いたママカリや、塩漬けしたナスビやキュウリを甕のなかに入れた。

 

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

醤(ひしお)

夏に作るものであった。 
小麦を蒸して麹を作ったり、醤麹を買ってきて、煎って臼で 挽いた大豆やエンドウ豆と塩を混ぜ、瓶に入れて寝かした。
縁側などに出し日光に当てると、ブツブツといって発酵した。
早く発酵させるために毎日混ぜたが、これは子供の仕事であった。
出来上がるとナスや瓜、キュウリの漬物などを入れた。
また、焼き魚に乗せて食べた。
すぐに食べたので、貯蔵するほどはなかった。

 

 

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

ひしお味噌
ひしお味噌は秋のはじめごろ仕込み、どこの家でも軒先にかめを置いて、毎日陽光に当てながらつくる。
瀬戸内の 温暖な秋晴れの日々、太陽の恵みをいっぱいに受けてつくるなめ味噌の一種である。
この地方では、年中、毎回の食 事にほとんど欠かさず供される重要なおかずである。

「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行

ひしお
醤味噌ともいい、麦を甑で蒸してハナ(麹)を作り、ハナ二升に対して塩を二合加え、
甕に入れ、水は適当に入れて、かきまぜて発酵させる。
小麦や蚕豆(そらまめ)・エンドウは炒って挽き割ったものを入れる。
蚕豆を入れると、一層甘く、炒って入れると香ばしい。
一度に作る量は一斗甕に一杯程度で、なくなれば作り、年中作るが、主に暑い季節に作った。
麦飯につけて食べたり、焼き魚などにつけて食べる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イチゴ

2024年03月21日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

昭和44年を最後に、父母は「米作り」を止めた。
農家であるが、
米を買って食べるようになった。


その大きな背景に、
①米の過剰や政府の減反政策(昭和47年開始)。
②作業の機械化(田植え・稲刈り)で設備投資が必要。
茂平は果物が盛んだが、稲作は自給用で小規模だった。


稲作を止めた田んぼは、イチゴやイチジクに転換した。
昭和50年代、茂平のイチゴは全盛期を迎えた。

 

 

(父の話)

昔からいちごは植えていた。が路地ものであった。

ハウスで栽培してから金になりだした。
今でも茂平のイチゴ栽培は多いが一時ほどではない。

作るのに手間がかかりすぎる。
よそでも栽培が増えた。
茂平のが甘い、うまいといっても見た目が同じなら安い方を買う。
のが原因だろう。

2000年05月28日

・・

いちごは、農協がすすめた。
パイプ、ビニール農協が金をはろうてくれる。
こんだぁ、毎年金が農協にはいる。農協が取り替えてそれで払おてくれた。

今は、一時に比べ半分くらいになった。(茂平のいちごは)
手間がかかる。骨が折れる。
昔ほどじゃあねぃが(良い農薬が出来たので)、ダニがくる、うどん粉がくる。病気がくる。
いちじくのほうがらくじゃ、ダニだけじゃけい。
ハウスでも、イチジクのハウスのほうがよい。。ボニにだす。

2000・12・17

・・

12月からだして4月くれいまでだしょうた。
春がすんで、こんどは苗をつくるようになる。

根から芽がつるがでたのを、切って植える。
ええめから、ええめから苺をだしたほうがえかった。
古いのはうがしょうた。残ぇても実はなるけど。

秋に植えて、せいから正月に出すようにする。
ハウスにストーブや電気をつけえて。

温度調節
花をええようにして、花をまびぃてやる。

ハウスによって季節を分けょうた。みないっしょに手入れができんけぃのう。
早ぅ花をさかせるんと、遅うさかせるんとに分けて。思うように(実がなる時期を)しょうた。

2001・2・11

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
イチゴ
江戸末期、長崎に伝えられた。
「福羽」が明治32年生まれ以後、70年間作り続けられる。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大豆を作る

2024年03月21日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

祖父の言うことは同じ言葉(せりふ)が多かった。
その代表的なことばは、

「豆で貧乏しますように」

いつも、そのあとに、
「人間は金(かね)を持つよりも、マメなのがいちばん好い」

祖父は、そのことを実践した。
お金はほどほど、身体は豆(マメ)で、笠岡市二番目の長寿で亡くなった。


大豆は食べるにも、人生訓にも大切なようだ。

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

どこの家でも大豆は田植え後の田の畦に播いた。
こうしておくと陰になり草が生えなかった。 
稲刈り時分に収穫して、乾燥保存し、味噌や醤の原料に、そして煎っておやつにもした。

 

「岡山たべもの歳時記」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 平成10年発行


大豆の用途

大豆は、骨のない肉といわれ、重要な蛋白源である。
炒り豆、枝豆、黄な粉、ウチゴ(ウチゴドウフ、キドウフ)、ゴジル(呉汁)、大豆飯、豆腐、おから、油揚げ、味噌、醤油、なっとう(納豆)、豆もやし、大豆油、人工肉、ゆば、がんもどき、煮豆など用途は広い。

 

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行


エダマメ(枝豆)

夏の味、エダマメは7~9月頃までが旬。
早生種はエダマメとして夏場に収穫し、
秋までかかる晩生種は主に大豆として出荷されます。

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

大豆は、主として味噌、醤油に使用される。
大豆加工品の豆腐や油揚げは各行事には必ず用いられ、日常でもかなり利用されている。
豆腐を自分の家でつくっているところもあるが、高根には豆腐屋が二軒あり、ほとんどの家で豆腐や油揚げは買って食べている。
焼き豆腐は、豆腐を買ってきて自分の家で焼く。
きな粉は、どこの家でも自家製で、大豆を炒って、石臼でひいてつくり、だんごなどにまぶして食べる。
また、大豆を粗くひき割りにしておいて、野菜類と一緒に煮たり、江田島には大豆を煮てうどん汁にして食べる習 慣もある。 
おからは安く手に入るのでおかずによく利用しており、蒲刈島のようにごはんに混ぜてすしをつくるところもある。

 


「日本の風土食探訪」  市川健夫  白水社  2003年発行

大豆

大豆は豆腐・湯葉・納豆・味噌・醤油など様々な加工食品の原料になっている。
納豆は「水戸納豆」に代表されるように東日本や、また九州でよく食べられている。 
かつて納豆づくりは、煮た大豆を藁苞で包んで、稲藁の中にある菌を使い、室の中で発酵させる方法 をとっていた。
納豆は関東などでは朝食によく出されるが、その独特の粘りと匂いは大変好評である。
しかし、関 西人には敬遠されている。
また日本を訪れる外国人の多くが苦手とする食品の一つが納豆である。

 



「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行


大豆

製油用、豆腐、納豆、醤油
大豆は1970年代までは畑作が主流だったが、以降は水田での栽培が増えた。
現在は水田作が8割を占める。
国内自給率は6%。
輸入大豆は製油用、国産大豆は豆腐や納豆に使われる。

「食糧争奪」 柴田明夫 日本経済新聞社 2007年発行


大豆市場

1990年代後半以降、世界の大豆市場では、供給国としての米国、ブラジルと
需要国としての中国、日本、EU(欧 州連合)という単純な構図を強めてきた。

これは言い換えれば、世界の大豆需給が特定の国の需給動向に大きく左右される、脆弱な構造になっているともいえる。
こうしたなか、懸念されるのは中国を中心に急拡大する世界の大豆需要をまかなっていたブラジルの増産に、限界がみられるようになったことだ。
また、国内需要が旺盛な米国も、将来的には信頼できる大豆供給国とはいえない。
日本の大豆市場は、巨大な供給国と需要国の狭間にあって予想外の変動の波をかぶる可能性も高まっている。

米国の生産が37%、ブラジルが26%、アルゼンチンが18%となっている。
この三カ国の生産シェアは80%を超える。
南米二国を合わせると生産シェアは米国を大きく上回る。



 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お茶を作る・お茶を飲む

2024年03月20日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

水落に茶畑があった。
そこから茶を摘んで帰り、蒸したり、干したりしてお茶にしていた。
金のヤカンから(茶飲みでなく、ご飯の)お椀に注いで飲んでいた。

村の寄合など、よその人が来る時は購入した茶葉を使っていた。
その時は急須を使い、炭も購入したカタズミを使っていた。

 

 

(父の話)

茶畑

何処のウチもそうじゃがお茶は植えとった。
ありょう、ちょっと熟むして干すとエエ番茶になりょうた。
昔はみんな、そうしょうた。
 
2000・5・14

「岡山ふだんの食事」  鶴藤鹿忠  岡山文庫  平成12年発行

江戸時代末期に国民的飲料になった。
畑の畔とか岸などに、チャの木を何本か植えておく。
春には新芽を摘み、冬の12月には軸から刈り取って,葉とともに刻み、蒸して干す。

 

「鴨方町史」

たいていの家では、畑のギシなどに茶樹を植えており、自給する。


「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


畑の(キシ)などに、茶の木を何本か植えておいて、春には新芽を摘む。
冬十二月には軸から刈り取り、 茶葉とともに刻み、平釜で蒸して(炒って)干す。


「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行



五月二十日ごろから摘みはじめ、摘んだ日の夕方には茶に仕あげる。
葉は湯通しをして固くしぼり、むしろの上で手もみをする。
丸めこむように ていねいにもむ。
これをむしろに広げ、荒熱がとれるていどに天日で乾かし、平釜で煮る。
これを二、三回 くり返し、最後にほいろに入れてほうじる。 
ほいろは木枠に渋紙を張ってつくり、火鉢の上につるして使う。
ふだん飲む番茶は、生葉をそのまま平釜で煎り、しんなりしたらもみ、さらに平釜で煎る。
途中もろぶた (浅い木箱)にとりながら、からからになるまで煎りあげる。

茶の木
茶の木はどこの家でも四、五本、畑のけし (境)に植えてある。 
初夏から夏にかけて、大きな厚い葉をむしって、 大釜に湯をたぎらしたところへ入れ、一回ひっくり返したら打ち上げ、陰干しにする。
よく乾いたら袋に入れてとっておき、少しずつほうろくで煎ってほうじ茶にして使う。



新茶は、五月下旬から摘みはじめる。 手先は、茶渋などでまっ黒くなる。
お茶の製法は家によって少しずつ異なる。
一般的には新芽をじかに厚なべで空煎りし、葉がしんなりしたら、茶むしろでもむ。
冷めたらまた空煎りしてもむ。これを三回くらいくり返し、日陰に広げて乾燥させる。
別の方法として、最初だけは新芽を蒸したりゆでたりし て、固くしぼってもみはじめる家もある。
ほどよく乾燥したら、焦がさないように、弱火で白い粉が吹くまでに気長に火を当ててから、缶に入れて保存しておく。
お仏飯と一緒に仏さまに毎日供えるお茶湯は、この新茶でつくる。

「江戸の食生活」 原田信男 岩波書店 2003年発行

江戸の茶
日本における茶の歴史は、酒に較べればかなり新しいものであるが、すでに奈良時代から茶と呼ばれるものが飲まれ、平安時代には畿内でも茶の栽培が行われていた。
しかし民間には普及せず、 鎌倉期になって禅僧が中国から移入したことで喫茶の風が広まった。

その後、民間にも普及していき、近世以前においても茶はかなり楽しまれていた。
嗜好品といっても、茶は酒やタバコに較べれば刺激性が弱いことから、比較的自由にのまれてはいたが、それでも近世社会に規制がまったくないわけではなかった。
法令として茶を禁じたものはないが、いわゆる“慶安の御触書”に「酒・茶を買のみ申間敷候、妻子同前之事」とあり、
支配者側からする農民の理想的な姿を示した百姓身持書で、
支配者側は農民が茶を楽しむことを好ましく思わず、贅沢で怠惰なイメージをもっていたことがわかる。

特に農民の女性の飲茶に関しては、一般通念としては否定的で、茶が農村に広まりつつはあったが、まだ 日常茶飯事にまでは至っていなかったことがうかがわれる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なすび

2024年03月19日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

夏休み時期を代表する野菜だった。

夏休みの朝は、
両親は果物の収穫で畑に行って留守だった。
たいてい冷えた味噌汁をご飯にかけた「汁かけ」を毎朝食べていた。
汁かけで足らない時は、さえんからナスビを取ってきて、塩もみににしておかずにしていた。
ナスビの塩もみは、子どもでも簡単にでき、出来あがるまで1分。
便利な野菜だった。

 

(父の話)

なすび

たいがい自家用としてつくりょうた。
だいしょう早く出せば金になりょうた。温室で早ぅ出して売ったこともある。じゃけどあれも肥をぼっこうせんとええのができんのじゃ。
朝、農協へもっていくにも手間がかかるし、重たぁばぁ。えっと銭にもららなんだ、それで止めた。

2002.8.5

父がナスビを商品として温室栽培をしていたのは、たぶん昭和50年頃と思われる。
稲作を止め、田んぼはトウガキ畑やイチゴ畑に変わっていった。その当時と思える。

 

「日本の伝統野菜」宮崎書店 板木弘明 2015年発行


なす

いろいろな形のなすが全国にあります
8世紀に日本に やってきました。
江戸時代にはすでに多くの品種があったようです。
漬けもの、煮もの、 焼きなすなどで食べるほか、
お盆の時期にはなすで作った馬を使い、霊の迎え送りをする風習も残っており、
いろいろな行事にも利用されてきた重要な野菜です。
さいばい
古くから栽培されているため、長卵形なす、長なす、大長なす、ボールのような丸なすなど、
いろいろな形のなすがあります。


「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行

味が濃い丸茄子
丸茄子はかつて全国的に栽培されていた。
東京都下でも大正初期までつくられていた。
しかし丸茄子は晩成種で収穫期が短く生産量が少ないため、大量生産が不可欠な現代社会では敬遠されて、秋田・山形・福島・新潟・長野・京都などの府県に限られている。

 


「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

ナス(茄子)
江戸時代の『農業全書』に「紫・白・青の三色あり、また長きあり丸きあり」と記述されているように、日本でも昔から多くの品種が栽培されていたようです。
漬物、蒸しもの、煮物、炒め物と幅広く使える野菜。
油との相性がよい。


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
茄子
ナスともいうが、ナスビと呼ぶことが多い。
平安時代すでに栽培されていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トコロテンを作る

2024年03月19日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

夏休み、大潮の干潮のとき、
茂平の苫無(とまんし)の磯でテングサを採って遊ぶことがあった。

家に持って帰り釜で焚いた。
海草がドロドロに溶けるまで炊く。
溶けても、さらに炊く。
時は真夏。
汗びっしょり。

しかし、このあとに楽しみが待っている。
アルミの弁当箱に移し注いで、待つこと1時間くらいか?
トコロテンが固まってくる。
これが楽しい!

固まりがおわると、食べる。
トコロテンは温い。
暑い夏に、熱いトコロテンは美味くない。

子供が食べ残したトコロテンは、
夕食(バンメシ)に父や祖父が「うまい、うまい」といって食べる。
夕食の頃には、トコロテンは冷えてはいないが、
時間が経っていて温くはなかった。

子どもにとって、(管理人にとっては)
トコロテンは固まるのが面白い子どもの遊びだった。

 



●ところてん
てんぐさは、夏の暑い日でもよく固まるから、羊かんのように切って井戸水で冷やしておき、ところてん突きで油をかけて食べると、暑さも忘れて元気が出てくるからしを添えたり、炒りごまをふりかけるとい っそう食欲をそそる。
約一〇のてんぐさを水で洗ってしぼり、なべに入れ る。
 一升酢さかずき一杯をなべに入れて火にかけ、煮たってきたら弱火にして、はしで上げてみてどろっとしてくるまで、一五分くらい煮る。
少し目の粗い布袋に入流して固める。


「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イチジク

2024年03月18日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

茂平のイチジクには他所にない特徴があった。
二種類のイチジクを栽培していた。

江戸時代に中国からはいった赤トーガキ。(東洋)
明治時代に欧州からはいった白トーガキ。(西洋)

赤トーガキは、生食で出荷。
白トーガキは、干しイチジクに加工して出荷。

白トウガキは糖分が多くつまみ食いをするには、こっちのほうが美味しかった。
が、白い汁がきつく秋になるとよく口が切れていた。

(父の話)


白トウガキは何処の家もうえていたのではない。
赤トウガキに比べると土壌に向き、不向きがあった。
つくるのは赤トウガキよりいたしいくらいじゃ。
水もいるし、新涯みたいなとこでないと採れなんだ。

夏から採って始めていたが、珍しいといって大阪から大学の先生が見にきていた。
秋になると山陽新聞が記事の取材にきていた。

2000年08月01日

(父の話)

イチジク

これの寿命は長い。えださえ切ってやっとればいつまでも大丈夫だ。
茂平のイチジクは色も違う、味も違う。

新涯が主でちょっとだけ塩分を含んだ土地なんで、糖度がよそのより良い。

2000・5・14


栽培方法?何も今と変わっていない。

予防の薬が良うなった。
薬がかわっただけじゃ。
2000・9・10


いちじくはなんもせんでええ。ほっぽりなげじゃ。
冬の選定、(ありすぎる)葉っぱを落とす。予防する(桃などにくらべ回数がすくない)。あとはほっとく。

楽でゼニになる。
2001・2・11


冬に剪定をして。

肥をして。
肥は昔神戸から人糞をもってきょうた。あれはえかったのう。
冬はよう「くそ船」がきょうた。
新涯の畑の肥壺へはねうつしょうた。その中へ潮水をちょぼっと入りょうた。潮水を入れるとカリがあってええ。
エエ肥になるんじゃ。

春は畑の草取り。

夏に予防して。

芽を間引いて。「めこぎ」。

(実が)成るようになったら水をやる。

秋に出荷。

金になる、相場がええ。

2002年6月23日

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

イチジク


笠岡市茂平は産地で干イチジクにして出荷している。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梨を作る

2024年03月17日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

果物どころ茂平で、梨が栽培されていたことは知らなかった。
梨やリンゴは、やや寒冷地が適しているというイメージがあった。
今でも地図をみると、瀬戸内海に面した茂平で梨、・・・という感じがでてこない。

戦前の茂平では、桃よりも梨が代表する果物だった。


(父の話)


梨は「20世紀」と「はかた」を植えていた。

どうめんの畑で「はかた」も20世紀に近い感じの樹だ。
これは早う出る。盆の前にでるんで、これじゃぁよう儲けた。

水をしなくてはいけないので、梨畑には必ず池が必要であった。
つるべは一人で汲み上げていた。
つるべで水を汲み上げていた。
つるべでやると時間ばっかりかかっていた。

発動機ができて流すだけになって楽になった。

2000年05月28日

・・・

「はかた」の後に「20世紀」を出荷する。
味は20世紀のほうがエエ。
ほれで他所(他県)でもどんどん作り出し、こっちに入ってきた。
それで梨はやめ、その後にはデラ(葡萄のデラウエア)を植えた。

2000・1・9

 


「くだもの」 ポプラ社 2009年発行

なし

日本では弥生時代に栽培がはじまったといわれる、歴史の古いくだものです。
日本なし 西洋なし、中国なしの3種類が知られ、
そのなかでももっとも多く食べられているのが日本なし。 
皮が茶色い赤なしと、 皮が黄緑色の青なしがあります。
どちらもみずみずしい果肉と、シャリシャリとした食感が特ちょうで、秋を代表するくだものです。


二十世紀なし

明治時代、千葉県でひとりの少年が、 ごみすてばに小さななしの木が1本はえているのを見つけました。 
育ててみたところ、10年後にとてもおいしい実がつき、栽培がはじまりました。 
これが、二十世紀です。 
自然に生まれたなしなのです。 
今では二十世紀なしは全国に広まり、鳥取県が日本一の産地となっています。

 


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


日本の中部以南に原生した日本梨、すなわちヤマナシが明治30年代に改良された長十郎や二十世紀が作られている。
岡山県では桃や葡萄とともに作られている。

 

「江戸の食生活」 原田信男 岩波書店 2003年発行


美濃から大量に諸国に売られていることを紹介している。
作れば、その土地の産物となるとして、「近来江戸在にても作りいだし、利を得ること少なからず」
としている。

・・・

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

枇杷(びわ)

2024年03月16日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

 

果物どころ茂平で、最初に出るのが枇杷だった。
田植え時のシロミテで食べていた。
枇杷が終わると、桃の早生が成り、それからは、すべての果物が成熟し、出荷していた。

枇杷は実は大きく、皮は向きやすく、食べやすかった。
甘い実と、すっぱい汁と、真ん中に大きなサネがあった。


(父の話)


枇杷は品種がひどう変わらん。
新しいのは「ながさき早稲」ゆうのが出来ただけ。早うできるのが。

2000・12・17


枇杷は(木の)寿命が長い。
今でもちょびっとつくりょうるが値がエエ。

2000・1・9

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
枇杷
日本に自生していたようで、県南地方で家に近いところに一本程度植えておいて自給することがある。


「くだもの」  ポプラ社 2009年発行


びわ
枇杷・バラ科ビワ属

原産地は中国で、あたたかい地域で栽培されます。 
皮は手でむけるほどやわらかく、 果汁がたっぷりであっさりとしたあまみが特ちょうです。
また、びわは葉も利用されます。 
痛みやはれをおさえる薬として皮ふにはったり、
煮だしてお茶として飲んだりします。

●栄養の特ちょう
体の調子をととのえるビタミンC、 
体のなかで目や皮ふによいビタミンAに変化するカロテンをふくむ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする