しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

書類を焼却する・奉安殿を壊す・忠魂碑を隠す

2025年01月07日 | マッカーサーの日本

終戦とほぼ同時に日本の役所の軍事関連の書類が焼却された。
日本史の汚点となった。

 

(城見国民学校の奉安殿)


・・・・

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

日本では敗戦によって軍事に関する極秘資料が多く焼却された。
そして、 数としてはもっと多かったはずの全国各市町村の徴兵・召集関係資料も、
敗戦の日から数日の間にすべて焼却されてしまった。
この徹底ぶりには驚くほかはない。
末端の行政部門にいたるほど、勝者が敗者に加える危害を本気に信じこんでいた証左といえるであろう。
戦争責任の追及という法的措置から逃れるために証拠を湮滅しようとする軍の上層部や高級官僚の行為とは異質なものを感じないではいられない。
それでも、戦後、年がたつにつれて、村の文書が姿をあらわすことがある。

 

・・・


「戦争の時代」 福山市・坪生郷土史研究会


終戦の次の日に学校に行くと、兵隊さんが日本刀で孟宗竹を切っていた。 
「この刀はもう要らなくなった」と言いながら涙を出していたのを覚えている。
先生からは、剣道の防具を全部ばらして焼き捨てるように言われる。 
学校に銃もあったが、それも焼く。 
進駐軍が来るからと言って、何もかも焼き捨てていた。

 

・・・

「新市町史・通史編」 広島県芦品郡新市町 2002年発行


戰後処理

国民義勇隊をはじめあらゆる機関をとおして浸透させた戦争協力体制を、一片の通知によって解体したと同様に、
戦時色を残す形体をも除去することとなった。

その一つに忠魂碑がある。
「戦災死者の供養塔慰霊碑を存置するは軍国主義的ないし超国家主義的な」建造物を処理しようとした。
日露戦役従軍碑・記念碑・慰霊塔・忠魂碑のうち、戦没者のための碑であることを示すに足りるものはこれを除去し、
軍国主義ないし超国家主義を鼓吹するものを除去しようとしたのであるが実際にはそのまま放置したり、
その日延ばしに延期したものが多い。
また、表面をセメントで固め、新憲法発布記念碑・平和塔と名称をかえたものもある。

1947 (昭和22)年4月から5月にかけて、たび重ねて撤去命令が出されるが、容易に聞き入れられなかった。
たとえば常金丸小学校の敷地内にある忠魂碑(日露戦争戦病死者9名を記す)は1917(大正6)年在郷軍人会によって建立されたものであるが、
これを慰霊碑として処理対象とせず、強く撤去を求められると、
撤去日を5月30日とし、すぐ7月5日に変更するという具合に引延しが行われた。
この方法は各地とも同様であったが、その上の撤去要請に引延し策も通ぜず、
土台を残して上部の碑だけ傍に下ろし、仮の撤去を装ったのである。
その後、講和条約が発効するに及んで撤去前の原型に復した。


・・・

 

「美星町史」  岡山県美星町  昭和51年発行


敗戦の思い出

敗戦の終戦後の混乱の記憶は殆んど薄れ去ったが、心に残る二、三の事柄を記すと、
進駐軍の命令といって忠魂碑がこわされ、
戦争に関係のあった書類は次々に焼き払われた。
御真影奉安殿などはど うなったのか解らないが、
青年学校にあった教練銃銃剣術用木銃、防具や女生徒用薙刀は知らぬ間に埋めたり、 焼き捨てられていた。
銃後の国防活動責任者は、次々追放されて戦犯を問われた。 
ある人は翼賛壮年団長であったため、職を追われ、家にかくれての生活を送っていた。


従軍記念碑
旧日里村鷹山公園にある従軍記念碑は北清、日清、日露、日中戦争での戦歿者の慰霊を行う碑であった。
これも進駐軍の指示による命令で昭和23年に倒したのであるが、45年に至って、日里村軍友会が発起し、 
鷹山神社の宮司、氏子総代、財産区の委員などが合同して、再建委員会を組織し、旧村内有志の協力を得て、
約39万円の寄付金と労力奉仕により45年4月、再建し、落成式を行った。


・・・

「戦争と戦後を生きる」  大門正克 小学館 2009年発行

占領軍がやってきた

敗戦は占領に対する不安をかきたてる。
敗戦直後からたとえば山梨県では、
六三部隊(旧甲府連隊)や県庁・市町村役場で、多数の書類が焼かれ、戦争遂行に関する証拠隠滅が行なわれた。
進駐軍は暴行略奪をするといった流言が飛び交い、女性や子どもを疎開させ、
兵士による婦女暴行を避けるために慰安所開設が相談された。
9月に入ると、戦時中に各所に貼られていた「米英撃滅」や「必勝」の標語をはずす指令が各自治体に出された。

9月24日、山梨県甲府市にアメリカ陸軍1.000人の大部隊が進駐する。
進駐軍は、県内各地で旧日本陸軍の武器や衣類、軍国主義にかかわる残存物を厳しく調べた。
国民学校の奉安殿の御真影などが見つかるとその場で粉々に破砕された。
占領軍は軍隊の解体や植民地の喪失だけでなく、社会の隅々から武器や軍国主義の除去をめざしたのである。

甲府に軍用車のアメリカ兵がやってきたとき、最初こそ市民は遠巻きに見守っていたが、
若者のなかには、同世代のアメリカ兵に手を振って歓声をあげたり、
アメリカ兵の捨てたタバコの吸い殻を拾って吸ったりする者も出てきた。

・・・

 

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「神風」は吹かなかった。身を粉にして努力する必要があった。

2025年01月07日 | マッカーサーの日本

対米戦争に勝つことはできないのを知っていながら開戦した指導者たちは、
相手を見下すことで国民を鼓舞した。
それが、
「大和魂」と「神風」。

国民は信じた。
大和魂で勝つ!最期の最期には神風が吹く!
まさに、一億総発狂とも言える戦争だった。


前線に武器なく、銃後に食なく、最後には吹くと言われた神風は、寝言のたぐいだった。
”一億総特攻”とか”一億総玉砕”がなかったのが、せめてもの幸いだった。

・・・

 

・・・

「ライシャワーの日本史」  ライシャワー 文芸春秋 1986年発行


それまで国民は、ひたすら指導者を盲信し、いつかは「日本精神」が勝つと信じて、戦争の遂行に全力をあげてきた。
いまや国民は、心身ともに精も根も尽きはてていた。
多くの国民が住むに家なく飢餓線上をさまよい、誰もが茫然自失、放心状態におちいっていた。
「神風」は最後まで吹かなかったのである。


歴史始まって以来、日本ははじめて被征服国となった。
日本人は、容易ならざる前途に直面して身のすくむ思いだったが、
天皇みずからが述べたように「耐え難きを耐え」るほか、なすすべはなかった。
アメリカの占領とその指導監督の下におかれた7年近い歳月は、
日本のみならず世界にとってたしかにかけがえのない体験となった。
一つの先進国が相手先進国の欠陥をこれと見定め、内部からその改革をはかるというのは、前代未聞の試みであった。

日本人は、自分たちが西欧の圧制をはねのけるアジアの解放者として歓迎されるどころか、
中国、朝鮮、フィリピンのいたるところで激しく憎悪され、
他のアジア諸国でも徹底的に忌み嫌われていたことを知って、
いまさらながら慄然とした。

かつて歓呼の声に送られて出征した日本の将兵であったが、外地から悄然と引き揚げてきたときには、
恨みを抱く都会の群衆から、つばを吐きかけるような仕打ちで迎えられた。
ほとんどの日本人は、指導者に騙されていたのだと感じ、
個人として罪の意識一つもつこともなく、ひたすら変革を待ち望んでいた。


・・・


「もういちど読む日本戦後史」 老川慶喜  山川出版社 2016年発行


GHQの本拠は, 東京日比谷のお堀端の第一生命ビルにおかれ、連合国の対日占領政策の実施命令はここから発せられ, 
日本政府を通じて実施された。

占領軍の日本政府に対する要求は、法律の制定をまたずに勅令 (「ポツダム勅令」) によって実施に移され, 
憲法をもしのぐ超法規的性格を有していた。 

さらにアメリカ政府は, マッカーサーに対して日本政府の措置に不満な場合には直接行動をとる権限をあたえていた。
占領軍の指令は,天皇制のもとでの抑圧体制を否定するものであった。 
そのため, 戦前期の国家体制をそのまま維持しようとしていた東久邇宮内閣は, 
この指令を実行することはできないとして総辞職した。

・・・


「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行


1946年当時、工業生産は1941年実績の1/7に落ちこみ、農業生産ですら、3/5に減っていた。
一方、人口はといえば、海外からの6百万人の引揚者と、
長年離別していた家族が再会した結果のベビーブームのおかげで、
ざっと8千万にふくれ上がっていた。

この狭い国土で、かほどの人口を養うに足る食糧を確保できるかどうか疑わしかった。 
抜本的な改革計画を背負わされたために、政府は身分不相応なやりくりを強いられ、
倍率百倍を上回る手のつけようもないインフレに輪をかけていた。
もしこれ以上の改革を推しすすめれば、経済を安定させ再建に取りかかるのを妨げることになった。
日本は、いずれの主要交戦国と比べてみても、はるかに大きな戦禍を被り、いまだ復興は遅々として進まなかった。
将来、国としてまともな経済発展を期待できるかどうか、きわめて怪しかった。

日本人はかつかつの最低生活でしのいでおり、それとてアメリカの援助物資年額5億ドル近い配給食糧に頼ってのことであった。
結局のところは、民主主義にせよ、いかような政治安定にせよ、経済の安定を抜きにしては達成不可能であった。
政治改革も社会改革も、それ自体がいかに望ましいものであろうと、
堅固な経済基盤を欠いていては、究極の成功は望むべくもなかった。

このような状況は、都市と地方の住民の経済的な地位関係を根底から逆転させた。

農村地帯では、農家は父祖伝来の家をもち、一家を養うに足る食糧を自給していた。
だが都市の居住者は、大多数が家を焼かれ、生計の道を絶たれていた。
たいていの都市住民は、アメリカの船積み食糧に頼ってかろうじて生きていたが、
この食糧たるやあまり馴染みのないもので、本来の米の食事の代用としては日本人の口に合わなかった。

都市では闇市ばかりが栄えたが、
そこはヤクザと朝鮮人が支配していた。
これら朝鮮人は戦時中に日本に連行され、日本人が召集で出払った鉱山や工場で働かされてきたが、
日本の敗戦後、そのうちの約60万人がそのまま日本に残留を決めた。 
その年、1945年11月になって、占領軍当局がこれら朝鮮人に戦勝国人に準じた身分資格を与えた結果、
日本に深い恨みを抱いていた朝鮮人は、日本の法律を頭から無視してかかった。

都市の住民は闇市に頼らなくては生きていけなかった。
それはただ金がかさむというばかりでなく、法と慣習を几帳面に守ろうとする日本人にとって心理的な苦痛であった。
また、戦後日本のむさ苦しさ、猥雑さも、身だしなみよく清潔でありたいと細やかな気遣いをする人々の心を傷つけた。
敗戦に打ちひしがれ、15年にわたる軍部支配を体験して、戦後の日本は知的活動の拠りどころを失い、
政治的に分裂した国であった。

一連の大きな衝撃は、日本人の心に深い傷を残し、その痛手は容易に癒えなかった。
旧来の価値はすべて不信の対象となり、状況が目まぐるしく変わるなかで、新しい価値観をめぐる甲論乙駁がつづいた。
アメリカ占領軍が掲げたもろもろの目標は、
ときとして日本人の理解を超え、どのみち手に負えるしろものではなかった。
しかしながら、おおかたの日本人が意見の一致をみた事柄がいくつかあった。

その一つは、
何よりもまず経済復興を最優先すべきだという暗黙の認識であった。
国は完全に破綻をきたし、自立もままならない状態であった。
外部世界のほとんどの国が憎悪と侮蔑の目で日本を眺めていた。 
日本がふたたび立ち上がるためには、多大の犠牲を払い身を粉にして努力する必要があった。 

・・・

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ミズーリ号

2025年01月06日 | マッカーサーの日本

アジア太平洋戦争の終戦日は、
日本では昭和20年8月15日に記念日だが、国際的には1945年9月2日。

東京湾で米軍の戦艦ミズーリ艦上で降伏文書が交わされた。
署名したのは、
アメリカ
中華民国
イギリス
ソビエト連邦
オーストラリア
カナダ
フランス
オランダ
ニュージーランド
の各代表と、日本代表。

その日から連合軍の日本占領が始まったが、
敗戦国日本では国民のほぼ99%が、
衣・食・住のすべて、またはどれかが不足していた。

国民が、着る・食べる・住む、の人間として最低限の欲求を追い求めているとき、
占領軍は戦後の日本の制度をきわめて短期間で決定した。
最大の例として、日本国憲法は2週間ででき上がった、といわれる。

あれから80年近く経つ。
国民が”食べる”こと以外に目が行かない時に、出来た制度が今につづいている。

 

・・・

「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行

ミズーリ号


降伏調印式が、なぜ米第三艦隊の旗艦ミズーリ号(45.000トン)の上で行われたのか――。 
進駐当初のマッカーサーの副官だったボナ・フェラーズ准将によると、「元帥は、ほんとうは宮城でやりたかった」。
しかし、ミズーリ号もまた、決して歴史的儀式にふさわしくない場所ではなかった。

第一に、洋上であって、万が一にも日本の〝好戦分子"が降伏調印を妨害しに来る心配がないこと、
第二に、〝ミズーリ〟は時の大統領ハリー・S・トル ーマンの生れた州の名であり、
大統領の娘マーガレットが命名した戦艦だった。
そして第三の理由は、これがいちばんたいせつなのだが、「海軍に花を持たせた」わけである。

というのも、陸軍と海軍の先陣争いは、日本の降伏前から激しかった。
チェスター・W・ ニミッツ太平洋艦隊司令長官は(昭和20年)7月ごろ、
「第三艦隊と海兵隊で、東京湾およびその一帯の戦略拠点を制圧する」作戦を提議したが、
マッカーサーは「水兵の力では日本陸軍の迎撃戦力にかなわない」と退け、
また、「陸軍と空軍が〝二番手〟になることは、あとあと悪い影響を残す」と漏らしたという。

いっさいの儀式が終ったあと、ニミッツ長官はハルゼー大将が先に下した命令、
「日本人にコーヒーもタバコも与えるな」を解除するよう指令し、
「もはや敵でないという事実を証明するかのごとく、(日本全権団は)丁重に送り返された」とある。

この時のマッカーサー元帥の演説「今や砲は鳴りをしずめ・・・・・・」はあまりにも有名であり、 
”演劇人" マッカーサーの生涯での最大の見せ場であったと語り草になっているのだが、
ミズーリ号で舞台の裏方をつとめた作戦部長、ラルフ・E・ウィルソン元大佐は、
「あれが一つの演技であるとすれば、すばらしい演技であり、それは必要なことであった。
なぜならマッカーサーは連合軍最高司令官で、しかも天皇を通して日本を支配する役割をになっていた。
そこで、天皇以上の威厳を、日本国民に対して示さなければならなかった」
と好意的な見方をしていた。

実際、かなり陸軍をきらっていた多くの海軍の将校たちも、
この時初めて見るマッカーサーの威容に、スッカリ魅せられたものであったらしい。

・・・

(Wikipedia)

・・・


「語りつぐ昭和史5」 朝日新聞社 昭和52年発行

日本の降伏 (ミズーリ号調印式)ミズーリ号から占領へ   加瀬俊一


ポツダム宣言受諾の英文の覚書は私が起草したものです。
そのときに日本が付けた唯一の条件は、天皇制の維持でございました。
天皇の国家統治の大権に変更を及ぼさないという了解のもとにポツダム宣言を受諾する、
これが日本が付けた条件でございます。
それに対して翌日アメリカから、天皇と政府の国家統治の権限は占領軍司令官に「サブジェクト・トゥ」と、
占領軍司令官に従属する、そういう返事がきました 。


マッカーサーが厚木に到着しましたのは8月30日、 彼は愛機のパターン号に乗ってきたわけです。
到着してから地上に降りるまでの彼の動作というものは、今日までも語り草になってます。
飛行機のドアがあく、
悠然と現れる、 
決して下を見ない、
まず空を見てそれから顔をぐるりと回して地平線を見る、
そしてやおら地上を眺めてから飛行機から降りてくる。
そのへんの所作は、団十郎の名演技のようなものでした。


誰に頼んでも みんな腰が重い。
そこでとうとう外務大臣重光葵ということになりまして、副全権は統帥部を代表して梅津大将にお願いした。
結局、陛下が「お前、行け」とおっしやってるんだということで、
梅津さんはやむなく全権を引き受けてくださったわけです。


横浜まで、かれこれ一時間かかりました。
路面が爆弾のあとで真っ直ぐに走れないんですよ。
数台の自動車を連ねてジグザグに走るのです。ついに横浜に到着いたしました。
その沿道の光景は、もう目もあてられないものでした。お若い方にはおわかりにならないでしょう。
目の届く限り焼け野原、わずかに焼け残った蔵らしきものがあちこちに点々と残っている。
まだ煙が上っている。
それに、まだ放置された死体もあるらしいのですね。
異臭芬々としていて、窓をあけられないんです。そういうところを通ったのです。
私はそのとき「国敗れて山河あり」という言葉があるけれども、
これは国敗れて山河もなし、目もあてられない惨状だと思いました。 
 

県庁で打ち合わせをしてから埠頭に参りますと、駆逐艦が四隻並んでまして、ABCDという標識を掲げておりました。
Dという標識のある駆逐艦に乗りました。
やがてミズリー号を指呼の間に望むところに行きますと、海面を圧してアメリカの艦隊が整列しているんです。
観艦式なのです。日本に勝ったおめでたい日に観艦式をやろうということですね。 
これに各国の艦隊が加わっているわけです。
私は連合艦隊も知ってますけど、まあ、ほんとうにこんなにたくさん敵の軍艦はあったのかと思うほどダーッと並んでる、
海を圧して。


やがて駆逐艦が停泊すると、そのままでは巨大な軍艦に接舷できませんから、こんどは快速艇がやってまいりまして、駆逐艦から乗り移るわけです。
駆逐艦は非常に傾斜が急ですから、縄ばしごを伝って快速艇へ乗り移るんです。
われわれはできますが、 重光外務大臣は左脚がないのです。
上海公使のとき、朝鮮人に爆弾を投げられてひざの中ほどから義足です。 
「力自慢のもの四人集まれ」そうすると水兵が駆けてきました。
そして抱きかかえて降りるんですが、重光さん、すぐ私に小さな声で 
「君、写真を写さないように言ってくれないか」。


マッカーサーの名演説
ともかくまいりますと、艦上は人であふれていました。
マストの上、砲塔の上、煙突の上まで、 一寸の余地もないというのはあのことでしょう。
将校、水兵、記者が鈴なりになってました。 
それがみんなわれわれの一挙一動を見ているわけですね。
それは好奇の目であり憎悪の目である。むしろ憎悪の目でしょうね。
私どもは導かれて、両全権が先頭に立ち、あと三人ずつ三列に並びました。
われわれと対面する形で連合軍の将官がズラーッと並んでました。
 赤あり、黄あり、青あり、緑あり、みんな勲章をつけて威風堂々としているわけですよ。
きのうまでの敵国の軍部代表者ですね。 
みんなにらみつけるようにして私どものほうを見てるのです。

その将官団とわれわれの間にテーブルがあって緑のカバーがありました。
その上に、 ああ、これだなと思う降伏文書が二通乗ってました。
そういう時間がしばらく続きました。
大した時間じゃないんでしょう、しかし私どもにはたいへん長い時間のような感じがしました。
すると靴音が聞こえる、長身の将軍が出てくる、マイクの前に立つ、マッカーサーですね。
短い演説でしたけれども、素晴らしい演説でした。


マッカーサー、5年8ヵ月日本にいた間、これがただ一回の演説です。
彼としては一世一代の演説だったでしょうね。

「理想とか思想とか理念とかいうイデオロギーの紛争は、戦場で勝負がついた。
今日はもうすでに争いの対象にはならないはずだ。
われわれここに集まった戦勝国の代表者は、憎悪とか猜疑とか不信とかいう気持ちを持ってきのうまでの敵に対しているのではない。
われわれは全く違う見地から和解を達成し、平和に導かんがためにここに集まっているのであって、
日本に課する占領政策は降伏の条件に従って行われるけれども、それを実施する精神は自由であり正義であり寛容である」

 ジャスティス、トレランスということばが、何度も出てくるんです。
私どもは終生の恥辱を受ける覚悟で行ったわけです。
ところが正義、自由、寛容というような言葉を強調するんですね。
私は「これは違うな」と思いました。
彼自身「マッカーサー回想記』(朝日新聞社)のなかに、
私はあのとき、神様と自分の良心とこの二つだけに導かれてマイクの前に立ったんだといってます。
いい演説でした。

・・・

「昭和戦後史・上」 古川隆久  講談社 2006年発行


ミズーリ号上で降伏文書調印

昭和20年8月30日に、フィリピンから、
米太平洋方面陸軍総司令官で連合国軍総司令官を兼ねるダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。
9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式がおこなわれ、
日本側からは重光葵外相と梅津美治郎参謀総長らが出席した。
これにより、日本は歴史上初めて正式に占領下に入った。
独立国ではなくなったのである。
ただし、日本政府の要請もあり、占領軍は日本政府を利用して統治する間接統治というかたちを選んだ。
外交権は停止され、日の丸の掲揚や「君が代」の演奏も原則として禁止された。

・・・

 

「もういちど読む日本戦後史」 老川慶喜  山川出版社 2016年発行

アメリカの占領方針

日本が降伏すると, アメリカはただちにフィリピンにいた太平洋陸軍司令官マッカーサーを
日本占領のための連合司令官総司令部(GHQ / SCAP)に任命し、ソ連やイギリスもこれを認めた。 
日本を占領したのは連合国とされているが、 実質的にはアメリカの単独占領であった。 
また、同じ敗戦国のドイツのように、占領軍が行政や司法を担当する直接統治ではなく, 
最高司令官が日本政府に命令し、日本政府が実行するという間接統治の方式がとられた。 

1945(昭和20)年8月30日 マッカーサー元帥が神奈川県厚木飛行場に降り立ち、
9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書の調印式がおこなわれた。 
連合国側はマッカーサー1人, 日本側は重光外相と梅津美治郎参謀総長の2人が署名した。
 

降伏の申し入れと同時に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、
天皇の血縁にあたる皇族の東久邇宮稔彦が首相となった。 
はじめての皇族内閣であったが, 
木戸幸一内大臣が枢密院議長の平沼騏一郎と協議をして, 
軍部の抗戦論をおさえるには皇族内閣を樹立するしかないと判断し, 天皇に東久邇宮を推挙したのである。


記者会見で「国体護持, 一億総懺悔」を強調した。 
同内閣は, 天皇の権威と警察権力をもって国民にのぞみ, 
「国体護持」, すなわち天皇制を維持することを最大の目的としていたのである。 
「この際私は軍官民, 国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思ふ。 
全国民総懺悔することが,わが国再建の第一歩であり,わが国内団結の第一歩であると信ずる」と, 
「一億総懺悔」論を展開し, 
全国民に戦争責任をおしつけようとした。

 

・・・

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かくて天皇は無罪になった

2024年12月28日 | マッカーサーの日本

御前会議で終戦を決意表明した天皇は、自己の戦争責任も覚悟していた。
天皇はその身分を戦勝国に託した。
戦勝国にはさまざまな意見があったが、
占領軍は統治上、天皇制の継続を望んだ。

 

・・・

「文藝春秋にみる昭和史」  文藝春秋編  文藝春秋 1988年発行

昭和23年
かくて天皇は無罪になった

 

田中隆吉陸軍少将

京裁判における当初の最大の焦点は、天皇に戦争責任ありや否やであった。
ソ連、フランス、オーストラリヤ、オランダなどの諸国は天皇有罪を主張していた。
結果は天皇は訴追されることなく無罪とされた。
当時、陸軍少将、兵務局長として戦犯になってもおかしくない身でありながら、
検事側証人として法廷で、つぎつぎに陸軍を誹謗する爆弾発言をなした人が明かすその内幕。
しかし売国奴、卑劣漢としていまなお旧陸軍軍人のなかにはこの人を許していないものが多い。

 

・・・

 

それは昭和21年の2月初旬のことであったと思う。 
それが何日であったかはっきりしないが、私にはそのときの情景をいまでもはっきり想い出すことができる。
「自分の訊問に対して真実を述べないと、巣鴨に送って、 絞首刑にする」
明治ビルにある極東国際軍事裁判の検察団事務所に出頭した私にむかって、アメリカのヘルム検事は開口一番こう言って脅した。

ウェッブ裁判長の母国オーストラリヤをはじめ、ソ連、オランダ等は、天皇の有罪を主張していたのである。
「もし天皇が有罪になられたら、日本は亡国となる。日本は民の国であり、天皇の国である。即ち君民一体の国である」
これが私の日本に対する信念であった。
建国以来、日本人はこの尊厳無比の国体を護持するために、多数の日本人の鮮血を流してきた。

私は死を賭し 天皇を無罪にするため、軍部の行動について、知る限りの真実を証言しようと決心したのである。
マッカーサー元帥と天皇陛下との会見の模様は、私が松平康昌式部長官から直接きいたところによれば、次の如くであった。
その日、天皇は第一相互ビルの総司令部にモーニング姿で訪問されたが、マ元帥は出迎えなかった。 
天皇陛下がマ元帥に会見を申しこまれた時、マ元帥は来訪されてもかまわないが、出迎えも送りもしないとの返事であった。
天皇陛下がマ元帥の室に入ると、元帥は軍服姿で傲慢な態度で相対した。

面会と同時に切々たる御言葉で、前述の如く、
「ポツダム宣言によると、日本人は戦犯として裁判されるとのことであるが、
彼らはことごとく自分の命令で戦争に従事した者であるから、この人達を釈放して自分を処刑してもらいたい」
と仰せられた。
この神の如き態度に、マ元帥は感激した。 
そして、それまで、天皇を「ユー」と呼んでいたが、直ちに「ユアー・ マジェスティ」(陛下)と改めて尊敬をこめて呼んだ。  
さらに、会見の終了した時には、天皇陛下を玄関に御見送りしたとのことである。


かくして、マ元帥はキーナン首席検事に天皇を出廷させるなと指示したのであった。
もしこの指示がなかったなら、ウェッブ裁判長は有罪論者であったのだから、恐らく天皇陛下は裁判に付せられ有罪となられたであろう。
まことに、マ元帥との会見においての神の如き天皇陛下の態度が、天皇陛下の無罪となられた最大の理由であった。 
天皇を無罪にするために私は、私の恩人板垣大将、また知人であり先輩である土肥原大将等に対して不利な証言も行った。
日本側の弁護人は、私の証言の価値を減殺しようと、あらゆる妨害を行ったが無駄であった。
私の極力攻撃した人は、大東亜戦争の前後にわたり、ライバルとして相争った軍務局長、武藤章氏であった。
その理由は、大東亜戦争の開始には、東條首相より武藤の方が 積極的であった事を、私は知っていたからである。

私が弁護側にたって弁護した人は、 東條陸相の次官として、ほとんど権力のなかった木村大将と、
武藤軍務局長のために陸軍大臣の職を無理に去らしめられた、私の上官、畑元帥、
および、東條内閣打倒のために共に行動した東郷外相、
私と親しく、大東亜戦争に反対であった梅津大将であった。

天皇有罪の最大の危機は、昭和22年12月31日、大晦日に起った。
それは東條被告に対する訊問中のことであった。
木戸被告の弁護人ローガン氏が、東條被告にたずねた。
「天皇が平和を御希望しているのに反して、木戸は行動したり進言したことがあるか」
東條被告は答えた。
「そういうことはない。
日本国の臣民が陛下の御意思に反して、あれこれすることはあり得ない。
いわんや日本の文官においておや」

この東條被告の答えは、換言すれば、すべての日本の行動は、天皇の御意思にもとづいて行われたことを示すものである。
来日中の外国新聞記者は即刻打電したのであった。 
「貴方はすぐに東條に面会して、この答弁を取り消してもら いたい」
そこで私は二日に裁判所におもむき、東條被告に面会し その旨を申し入れた。

2月7日、東條被告の訊問を終了すると、キーナン検事はマッカーサー元帥に、裁判の状況を報告した。
すると、元帥は非常に喜んで述べた。
「米国の占領政策は天皇を中心として進めることにする」 そして、この日天皇の無罪を最終的に決定したのである。


昭和22年10月、キーナン首席検事が日本における平和主義者として、
若槻礼次郎、米内光政、岡田啓介、宇垣一成の四氏を小石川のキーナン私邸に招待したことがある。 
その席上、キーナン検事は天皇無罪決定を述べた。
これをきいて若槻氏は、
「自分は今年83歳になるが、天皇陛下が無罪になられたので何時死んでも良い」
といって落涙した。 
岡田、宇垣の両氏も同じく泣いてこの事を喜んだのである。

昭和23年1月15日、田島侍従長より一夕の招待を受けて御馳走になった。 
その席上、田島侍従長は私共にたずねた。
「もし天皇陛下が有罪となられたら、あなたは一体どうするつもりか」
松平式部長官は答えた。
「私は青酸カリを準備していたから、それで死ぬつもりであった」
私は、「軍人であるから切腹して果てたであろう」
と述べた。

松平式部長官の話によると、天皇は裁判に関して、新聞の報道により、私に対して不快の感情を抱かれておられたとのことであった。
松平氏が実情を奏上したところ、「それは結構であった」と仰せられたとのことであった。
私は軍人として、偶然の機会から、天皇陛下の有罪か無罪かの問題に関与して、
いささかではあるが、その無罪判決に貢献しえた事をもって、私の無上の誇りとしている次第である。

しかし、天皇の無罪になられたのは、あくまでも天皇の神の如き性格によるものであることはもちろんである。
この裁判で私の証言により罪の重くなった人があれば、その人に対して心からお詫びを申し上げたい。

(40・8)

 

・・・

「マッカーサーの日本(上)」① 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行


成功のカギ「天皇を利用すること」

 

「間違いのない占領・・・、 その方法は単純だ、日本人にやらせることだ」
日本人にやらせる、という元帥のその時の構想の中に、天皇制の存続とか利用といった意味が含まれているかどうか、
それはフェラーズ氏には分らなかったが、ともかく、
機中のパターン・ボーイズ (注=ホイットニー少将やウィロビー少将など、元帥と長年運命をともにした将軍たち)の中で、
自他ともに随一の”日本通〟と認めていたのが高級副官のフェラーズ准将なのであった。
副官フェラーズは、生粋の軍人である。


天皇とマッカーサーとの最初の会見 (20年9月27日)のことを、フェラーズ副官は淡々とこう回想する。
「最初、外務省の萩原(徹氏)が私のところへ来て、"天皇が元帥に会いたがっている"というので元帥に取り次いだところ、
”よかろう、会おう"という。
元帥の考えで、人目につく第一相互ビルは避けて、赤坂のアメリカ大使館を会見場所にした。
その日、大使館は完全に一般の出入りを禁止にしておき、天皇の到着に際し、私は副官として玄関まで出迎え挙手の礼をした。
車を降りた天皇は手を出して私に握手を求めた。
天皇は落着きがなく、神経質に見えた。

マッカーサーの部屋に案内すれば自分の用は済んだのだが、私は天皇の心中を察した。
そのころ、東条ら戦犯の逮捕(9月11日) が始まっていたし、
元帥を訪れて来た近衛(9月13初訪問)から、天皇が終戦のためにいかに骨を折ったかも聞いていた」
フェラーズ准将の目には、今の天皇は「宮殿に閉じ込められた幽閉者で、孤立無援の男」と映った。
「ドイツで(連合軍が)やったのと同じことを日本でやられたんじゃあ、困る。
天皇はヒトラーとは違うんだ・・」


戦線を転々としていたフェラーズ准将は知らなかったが、
「ワシントンの連中」は、とっくに「天皇には触れない」方針を打ち出していた。 
ジョセフ・グルー元駐日大使を中心に、
「天皇は日本における唯一の安定勢力であり、
米国が日本を降伏させて占領する際に、最も有効で損害の少ない手段は天皇を利用すること」
という主張が、国務省内で昭和18年夏ごろから討議されており、
途中でオーエン・ラチモア(当時、戦時情報局極東作戦部次長) 中国派”の反論
(注 天皇制廃止論や、皇族男子を中国へ連行する意見)もあったが、 
終戦の年の5月には、国務省、陸海軍、大統領(トルーマン)も、
「天皇制を廃止しないで利用する無条件降伏案」いうならば”条件つき降伏〟に賛成していた。
ポツダム宣言にも天皇をどうこうしようと書いた条項がないことは周知のとおりだ。
しかし、本国のお役人と、”野戦〟の軍人の感覚はいつも一致しない。
GHQの軍人の中にも「ヒロヒトを裁判にかけろ」という者が少なからずいた。
その連中は、フェラーズ氏にいわせると、「何しろ日本を知らないから」そういうことをいうのであった。

 

・・・


天皇を政府の役人と同じレベルで見ることは不敬である。
もし彼を戦犯とすれば、
それは日本人にとって神を汚されたことであるのみならず、
精神の自由の否定となる。

開戦の詔勅は確かに天皇の責任において発せられた。
しかし最も信頼すべきソースによれば、戦争は天皇自身が起したのではなく、
東条が天皇を利用したのだ。
もし日本人が機会を与えられて、元首を選ぶとしたら、彼らは再び天皇を選ぶであろう。 
終戦の詔勅で国民に語りかけた時、いままでになく国民は天皇を近いものと感じた。
天皇が一人の人間として語る際、国民は天皇があやつり人形でないことを知った。
国民は天皇制の存続が決してリベラルな政府のジャマになるものとは感じなかった。
われわれの無血上陸の裏には、天皇の力があずかっていた。
彼の命令で7.000万人が武器を捨てた。
武装解除はすみやかに行われた。
この天皇の力によって、何十万人のアメリカ人の命が救われた。
そして、戦争はスケジュールよりもはるかに早く終了した。
このゆえに、かく天皇を利用しながらかつ彼を戦犯とすることは、日本人の信用を裏切ることになる。
日本人はポツダム宣言でいう無条件降伏が、
天皇を含む国家の機構が存続するものだと信じている。


もし天皇が裁判にかけられれば、政治の支配機構は崩れ去る。
国民の蜂起は必至であろう。
国民はふたたび戦い、たとえ武装は解除されていても、混乱と流血は避け得られないところだ。
長い目で見たアメリカの国益という立場からすれば、東洋との関係は相互理解と尊敬にもとづくものでなくてはならない。
(中略)これは、アメリカにとって、至上の必要な事柄である」
学者や外交官の論文ではない、軍人の文章である。
論理的というよりは、有無をいわせない気を持って綴られている。
これが、おそらくマッカーサーの気に入ったのだろう。
「皇室のことで問題があるたびに、元帥はこれを引出しから出して何回も読んでいた」(フェラーズ)


そのころすでに、GHQは天皇に”手をつけない"ハラを決めていた。
進駐前の8月29日にワシントンがマッカーサーに与えた指令(注=「降伏後における米国の初期の対日方針」に
「天皇を含む日本政府機関及諸機関を通してその権力を行使すべし」と
〝天皇を生かし利用する”ことはハッキリしていたし、
また11月3日になって米統合参謀本部が出したさらにくわしい「基本的指令」の中にも、
「貴下はあらかじめ統合参謀本部と協議なく、また当部から発せられた勧告なくしては、
天皇を退位せしめたり、あるいは退位せしめるような措置を講じてはならない」と命じていた。


しかし、むろんこのようなアメリカ側の手の内"を日本人は知るよしもない。
天皇退位説、
戦犯説、
あるいは天皇制そのものを廃止するといった論議は、
国の内外でやかましく繰り返されていた。
現に、"人間宣言〟が掲載された元旦の朝日新聞の解説記事も、
「もはや旧来の天皇制度は倒壊せざるを得ない」と書いている。


・・・

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「私はその点については門外漢だ」

2024年12月27日 | マッカーサーの日本

昭和20年8月17日、東久邇宮首相は「一億総懺悔」を声明した。
その言葉を借りれば、
開戦も終戦敗戦も,一億国民の上から下まですべて人が、「一億総門外漢」だったことになる。
いったい対米戦争はなんだったのだ。

 

・・・


・・・


「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行

「戦略爆撃調査団」⑥東久邇

皇族であり、また大戦中、最高戦争指導会議に名をつらねて、軍の要職にあり、
しかも終戦直後の首相として政局を担当した東久邇宮稔彦王。
この重要人物の喚問に際して、
戦略爆撃調査団が、より核心に触れる答えを期待したとしても無理はない。
だが、ここでも、 調査団はアイマイな返答に困惑した。

昭和20年11月14日。
場所は、皇族の身分を配慮してか、東久邇邸へ調査団のほうから参上した。 
調査団は、初め、日本の戦時経済と軍の戦略について質問したが、これは、どうやらお門違いだったようだ。
答えは、「私はその点については門外漢だ」の一点張り。
そこで調査団 終戦工作〟に話題を変える。


東久邇「私は戦争中、防衛総司令官であり、マリアナが日本から奪われ、B29がやって来ると聞いた時、
戦争は負けそうになったと思った。
米国でB29が製造されていることは、外電から情報を得ていた。
それが1万3千メートルの高空を時速6百キロで飛ぶことは知っていた。
日本には、このような兵器に対抗して使用できるものは、何もなかった。
防衛総司令官の観点から、私は戦争は負けだと思い、当時、そう話した。
その時私は、日本で1万3千メートルの高空を飛べる飛行機を作れるかと尋ねてみたが、できない、ということだった。
それで私は 戦争は日本の負けだと確信した。
B29が日本へ来るようになれば、何もできない、と思った」

 


「その事実を知らせるために、あなたには、どういう方法が可能だったか」
東久邇
「私には、この見解を公表することはできなかった」


「その後、1944年(昭和19年)に小磯内閣が成立してから、政府の要人の間で、日本を戦争から救い出すために何かしなければならないという会談が、非公式、個人的に始まったと聞いているが」
東久邇
「私は皇族なので、その当時は、見解を公に表明することはできなかったが、親しい友人には、茶飲み話ですべてがダメだという見解を話した」


「近衛公やその他の人々との会談で、和平にはどんな方法が必要だと考えたか」
東久邇
「私には、たとえ米国に直接和平を申し入れても、受けないことはわかっていた。 
それで、私の考えでは、まず重慶 (蒋介石政権)との和平を実現し、彼らを通じて米国との 和平を達成するというものだった」

 

当時の日本で、和平を求める具体策としては、ソ連を仲介にアメリカとの交渉の道を開こうという考え方があった。
しかし、蒋介石を仲に立てて、対米交渉を始めようというのは、考えてみれば、奇妙な論理であった。
なぜなら、
対中国との戦争を打開するために、日本軍部がさらに戦火を拡大して太平洋戦争となったその、いわば火元の相手とまず交渉しようというのである。

調査団は、やんわりとこの点を突く。


「ところで、アメリカが直接の申出を受けても和平を承知しないと、なぜ宮は考えたのか」
東久邇
「真珠湾のせいで、諸君がカンカンに怒っていると聞いたからだ」


「そのころ、宮はどんな和平を考えたのか」
東久邇
「日本は負けてしまったのだから、戦争前の状態に戻す、というものだった」


「では、宮は、中国のほうがアメリカより怒っていないと、いかなる根拠のもとに考えたのか」 
東久邇
「いや、シナがアメリカより怒っていない、という問題ではなく、われわれは隣人だから、まずシナと交渉するほうがよいと思ったのだ」


・・・

 

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問「で、何をしたのか」 木戸「見解を表明しただけで、何もしなかった」

2024年12月27日 | マッカーサーの日本

問題が起きた時、「何も知らなかった」「知ってはいたが何もしなかった」
と令和の今も、新聞やテレビでいつものように見る。
人間は自分がいちばんかわいいのはわかるが、
いざという時に逃げることしか考えないのは、(残念ながら)近代日本の国民性かもしれない。
しかし、指導者と呼ばれる人が、その見本になるようでは、日本の未来は暗い。


・・・

(Wikipedia)

木戸 幸一
1889年~1977年は、日本の官僚、政治家。
侯爵。
昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。
敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。

 

・・・

「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行


「戦略爆撃調査団」⑤

木戸幸一内府の日記にはこう記されている。
「11月10日(土)晴
11時、戦略爆撃調査団のワイルヅ中佐来訪、調査の目的等につき話ありたり。 
団長ドーリエ氏、 ニッツェ 主任等と会談、5時迄約3時間に亘り、
主として終戦時の状況、意見、及び戦争全体の観察見透等につき質問に応じ話す。



「サイパン陥落 (昭和19年7月)以後の戦争の展開について、あなたはどう予測したか。
戦争を続けられそうだったのか。
それ以後の戦局の進展について、あなたはどの程度、見通していたのか」

木戸
「サイパンが陥落し、B29の日本空襲が始まると、日本の戦略ではそれに対処できないことが明らかになった。
大都市ばかりでなく、中小都市の産業が破壊され、軍需品生産の能力を奪われたからだ。
それにもうひとつ、連合軍による日本本土上陸が万一行われたら、という懸念も私にはあった。
さらに、日本の都市に加えられる破壊のために、国内の一般国民の士気が失われてしまうことも、私は非常に心配したのだ」


「一般国民の士気が失われてしまえば、その結果どうなっていただろうか」
木戸
「この質問について、私の想像を述べるのは、いささかむずかしい。 
一般国民が士気を失えば、日本が戦争を継続するのは不可能になっていただろう。
国民の間に、和平への動き、もしくは反戦運動が起っていただろうことは、想像にかたくない。
ただし私は、こうした運動が、それほど早くから起るとは思っていなかった」


 「"それほど早く"とは?」
木戸
「前に述べたことを繰り返すが、私は実際に反戦運動が発展すると予期していたわけではない。
むしろ、都市が破壊され、そのために生じる家屋の損失、損害の増加、それに食糧不足などから、
きわめて扱いにくい緊張状況が発生するだろうと考えていたのだ」


「サイパンが陥落した時、戦争完遂を考え直すという点で、あなたと同じように考えていたグループは、どういう人たちか」
木戸
「一般的にいって、クラブに集まっていた日本のいわゆる自由主義者、貴族院と衆議院のかなりの議員、それに、いわゆる元老たちのほとんどが、
なんとかしなければならないという意見だった」


「で、何をしたのか」
木戸
「意見や見解を表明しただけで、何もしなかった」


 「なぜ、何もしなかったのか」
木戸
「その答えは、私にもわからない。
私や他の者は、何かがなされるように願っていたが、何も現われなかった」

 

戦争に勝目がない、という認識が政界要人のなかに広がってから、なお1年も戦争が続いた。
その間、日本の政治を預かる人たちは、何もしなかった----

現実主義の国アメリカからやって来た調査団にとっては、いかに日本についての専門家だったとしても、これは不可思議な現象だった。

同じことは、開戦についてもいえた。
開戦直前まで首相をしていた近衛公が、「私は開戦に反対だった」と答えた時、調査団は「そんなはずはない」と、執拗に質問を繰り返した。 
だが、このような答え方をしたのは、近衛公だけではない。
調査団に喚問された、他の首相クラスの要人のほとんどが、同じように「開戦に反対だった」と答えたのである。
では、なぜ、戦争は起ったのか――。

 

調査団は、ここで、戦前・戦中を通じての日本の軍部、特に陸軍の権力がいかに強大なものであったかということを、改めて思い知らされる。

木戸内府との問答を続けよう。

 


「何もしなかったという点については陸軍の態度がおもな原因だったのか」
木戸
「おっしゃるとおり、陸軍がおもな原因だった。それに、(陸軍は)監視網を広げて憲兵を強化し、反戦的な意見の表明を抑圧したのだ」


「その時、天皇の終戦の詔勅が出ていたとしたら、陸軍にはそれに従う忠誠心があっただろうか」
木戸
「ドイツの降伏(注=昭和20年5月)以前に陛下が和平の勅命をお出しになっていれば、クーデターの危険があった。
そのとき陛下が詔勅をお出しになったとして、どんなことになったか、私には判断することがむずかしい。
実際のところ、そういった機運、もしくはフンイキは、一般の政治家のあいだにさえ、十分に広がっていなかったのだ」


「どんなことが起れば、陸軍は和平の詔勅に従う気になっただろうか」
木戸
「陸海軍の指導者たちが、そうするよりほかはないという見解に達しなければダメだったと思う。
だが、少なくとも、ドイツの降伏以前には、陸海軍にそうした兆候は見られなかった」


「では、それ以後、フィリピンでの負け戦さのころはどうだったのか」
木戸
「フィリピンでの戦いのとき、それはまだハッキリしていなかった。当時は、沖縄でなんとかなるだろうというのが、一般の考えだった」


なお、前出のワイルズ元海軍中佐は、木戸侯爵についても、一つの思い出を持っている。 
「木戸侯がひとつだけ、大へん心配していることがあった。
それは、天皇がわれわれ調査団に尋問されるのではないか、ということだった。
実際のところ、天皇を尋問するかどうかは、われわれ戦略爆撃調査団の会議の議題になったのである。
しかし、その結果、すでに多くの天皇側近や政治家から尋問ができていたので、改めて天皇に会う必要はない、という結論だった」


当時、調査団はこういう考え方をした天皇に会って聞いてみても、それはちょうど、 
海水をすくって調べてみて、塩分が含まれているのを確認するようなものである。

 

・・・

幕末から明治にかけての指導者は、西洋諸国を非常に恐れた。
日本は文明が低開発国家であることを自覚していたから。
今も全国に残る”お台場”、西日本に多く残る”要塞”の遺構は西洋国家への恐怖が強く感じられる。

ところが、
昭和の指導者は国を護る意識がなく、攻守のうち、”攻”しかなかった。
さらに、開戦には「勝てない」「反対していた」のオンパレード。
アメリカから来た調査団は、不思議がり、あきれて、どうしても日本指導者層を理解できなかっただろう。

・・・

 

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「もし戦争が始まったら、日本の勝味はないと見ていた」

2024年12月08日 | マッカーサーの日本

雑誌社と新聞社が競うように週刊誌を発行し、その週刊誌の文化が絶頂期の頃
週刊新潮に「マッカーサーの日本」という記事が毎週掲載された。

その連続ものが掲載中、自分の今までの人生で唯一、週刊誌を毎週購入した。
おもしろい記事だった。
それを何ヶ所か当ブログに記事にして残そうと思う。

 


・・・


「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行


「戦略爆撃調査団」④ 
 

質問者は調査団の中でも最も切れ者の、副団長ポール・ニッツ氏になる。


ニッツ
「陸軍は戦争終結のためにどんな計画を持っていたのか」
近衛
「陸軍の指導者が持っていたプランはただひとつ、あくまで戦い抜くということだ。
だから、もし天皇の決断がなかったら、われわれはいまだに戦っていたであろう」

ニッツ
「私の質問は1941年(昭和16年)の秋、陸軍はいかなる方法をもって戦いを終らせようと思っていたのか、ということだ」
近衛
「私はそのようなことは聞いたことはない。事実、そんなプランは何もなかったと思う」

ニッツ
「ではあなたの意見だと、陸軍は何ら戦争終結の見込みのないままに戦争に突入したことになる。
終りなき戦いを挑んだというわけか」
近衛
「局外者として見ていると、結論として陸軍は、何ら終結の具体案を持っていなかった、ということになる」

ニッツ
「われわれは、戦争を企てた諸君は非常に有能な人々だと考えている。 
プリンス近衛、われわれは彼らが終結の構想をまったく持たずに戦争を始めたとは思わない。
私はあなたの発言に納得がいかない」
近衛
「いや、もし陸軍がかりに構想を持っていたとしても、そんなことはわれわれに洩らしはしなかったでしょう。
しかし、どうも、そのようなものは持っていたとは思えない」

 ニッツ
「これまでの印象では、あなたはいかに勝利を得、いかに戦いに終結をもたらすかについてまったく情報を持たずに、
合衆国との戦争を始めることに同意した・・」
近衛
「たしかに同意という形だが、それは条件付き同意だった。 10月の中旬までに交渉が妥結するだろうと踏んだ上で、同意したのだ」


ニッツ
「ひとつだけハッキリしておきたい。
われわれはあなたの責任いかんに興味を持っているのではない。
われわれはあなたが戦争に同意したとき、戦いがどのようなものになるかということを、あなたがどう見ていたのか、
その点の、正直なところを知りたいのだ。
くりかえして聞くが、あなたは戦争になった場合、日本がどのような状態になると考えていたのか。
また戦争をどのような計画を持って、どう展開しようと していたのか」
近衛
「私が強く印象づけられたのは山本(注=五十六連合艦隊 司令長官)の〝戦争になれば最初の一年はやって行けるが、
その後のことはうけあえない”と いう発言であり、
私はできる限り戦争は避けようと決心していた。
もし戦争が始まったら、日本の勝味はないと見ていた」


ニッツ
「いいかえれば、あなたは1941年12月の時点ですでに、日本は戦争を成功に収拾することはできないと思っていた、と、こういうわけか」
近衛
「まったく、あなたのいわれるとおりだ。全然、チャンスはないものと思っていた」


こうして、調査団としては納得のいかない、近衛公にとっては小突き回されたような、緊張の三時間が終った。
このアンコン号上の尋問で強い衝撃を受けた近衛公は、帰途、
しばらくは「やられた、やられた」とひとり言のように繰り返していたという(牛場氏の話)。

11月22日、公は改憲についての意見書を天皇に提出したのち、栄爵拝辞の手続きをとった。
月が変って12月6日、近衛公、木戸侯爵に対する戦犯容疑の逮捕令が出る。
そして戦犯として出頭するよう定められた16日早朝、服毒自殺を遂げた。55歳であった。

・・・

近衛「まったく、あなたのいわれるとおりだ。全然、チャンスはないものと思っていた」
こうして、調査団としては納得のいかない、・・・・

一億国民は何も知らず・知らされず・知ろうともせず戦争へ、銃後へと向かった。
戦後になってみると「国民としては納得のいかない」戦争が始まった。

 

・・・

・・・

 

「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行

 

近衛公の戦後の動き

近衛公が、東久邇内閣の副総理としてマッカーサー元帥を初めて訪問したのは9月13日。 
その2日前に東条英機元首相が自殺を図って果さなかった。
10月4日、マッカーサー元帥と2回目の会談。
この席上、マッカーサーは、「公はまだ若いのだから、これからの日本は、あなたが背負ってくれなくては」といって、
近衛公を立てるような発言をしたといわれる。
そして11日、天皇も公を呼んで、改憲の準備をするよう命じた。
つまり、ここまでは、 周囲からも、そういわれたし、また自分でも、なんとなく戦後の政局を担当しなければならないようなつもりになっていたわけである。

10月21日には外人記者団と会見して、「天皇退位」をほのめかすような発言までした。 


ところが11月1日、GHQは突如として声明を出した。
「占領軍当局と近衛とは何の関係もない」――。
これは、公を〝戦犯〟とみなすニューヨーク・タイムスなどが不満を書きたてたことにも関連があるようだが、
ともかく、公としては、完全にハシゴをはずされた形となった。
彼の「天皇退位説」も、ワシントンの統合参謀本部の、
「本国政府の承諾なしに、GHQが独断で天皇を退位せしめることは相成らん」という訓令で、
とんだ場違いのものとなっていた。
これと前後してやって来たのが、戦略爆撃調査団の喚問だったのである。


・・・

 

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