(父の話)
8月15日には 焼け野原の、岡山陸軍病院で聞く終戦
陸軍病院の庭に全員集合して聞いた。
ワンワンようたが、
聞き取りにくかったが意味するところはよく分かった。
「日本は負けん、これからじゃ!」と勇ましいのを言うのもいたがすぐ収まった。
(勇ましい事を言う人は、それが一週間くらいはつづいたのだろうか?
2~3日だったのだろうか?
それとも一晩寝ると収まったのだろうか?)
『決起する』といっていたのは・・若い・・兵である。(将校でも下士官でもない)
終戦で「ほっと・・した」のが・・ホンネ・・大部分なので、勇ましいことをいうのは不思議でもないがその時点で既に少数意見(というくらい敗戦の状態の現実と、厭戦気分であった)であった。
いさましいのはとても一週間はつづいていない。いってみれば一晩寝ればおしまいの『決起する』であった。
2000年09月16日
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8月15日 茂平では (母の話)
(その放送があることは「隣組・回覧版で知ったのか ?」)
回覧も何もありぁあせん。
「重大放送がある」と繰り返し、ラジオがしつきょうた。
家でラジオで聞いた。
もう戦争が負けるんじゃけえ、そりょを言うんじゃろう思うとった。
(茂平みたいな)田舎の人でも、「そりょう言うんじゃ」言ゆうてようた。
じゃけいわかっとった。
(放送の雑音と内容は)天皇陛下の言うことは今でもぐつぐつ言うて、何を言ようるんかようわからんが。
談・2000年01月30日
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父は兵役中で母は茂平で終戦を迎えた。
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「歴史の温もり」 安岡章太郎歴史文集 講談社 2013年発行
45年前の8月15日
45年前の8月15日、私はひと月前に胸膜炎で軍隊を現役免除になり、日本橋を歩いていた。
と、後ろから追い駆けてきたきた学生が「戦争は負けました。日本は負けたんです」とドナるように言って、また駆けて行った。
負けたがどうした、私は心の中で、うそぶくような気持でつぶやいた。
しかし、今考えると、その時の私は、やはり動転していたにちがいない。
敗戦は前々から予想していたことだったが、戦争に負けた後、自分たちがどういうことをしなければならないのか、そんなことまでは考える余裕もなく、見当もつかなかったからだ。
日本は戦争責任の追及や処理が全く出来ていない、といわれる。
それはそうだろう。
大体、戦争責任という言葉を私は戦争中にほとんど聞いた覚えがない。
それは、戦争裁判、公職追放、あるいはオフリミッツといった言葉と同様、
アメリカ軍が進駐してきて初めて日常的に耳にするようになったものだ。
先日大江健三郎のつくったテレビ・ドキュメント「世界はヒロシマをおぼえているか」の中でゲストの一人、金芝河が意見を聞かれて、
自分はこの質問自体に反対だとこたえているのに、ハッとさせられた。
金氏は言うのである。
日本人はまずみずからに問うべきだ、
世界は南京虐殺をおぼえているか、
戦争で犠牲になった百万のアジア人をおぼえているか、
日本に強制連行され被爆した朝鮮人をおぼえているか、と。
私たちがヒロシマを世界に訴えようとするとき、
どこかで「世界最初の被爆国」という被害者の気負いのようなものがありはしまいか?
もしそうなら、やはりそのぶん私たちは金芝河の発言をまともに受け止めなければならないのではないか。
私は軍隊では被害者であったろう。
しかし、例えば金氏や金氏の父母の眼には、私のごとき弱兵でも軍服を着ている限り加害者の一人に見えたに違いない。
そのことを私は、おぼえておかなければならぬと思う。
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