【父の野戦日記】
昨日の疲れも何時の間にやら本日も行軍。
一路漢口へ。漢口へ。
いよいよ二人、一人と、途上をうらうらと、さまよいつつ、倒れつつ行き進む。
色あせる顔、死人の如く。
吾等、身も心も疲れきり、ただいっしょに一歩づづ脚をすすめている様子だ。
薬物は無く、ただ死を近くに感じるのみ。
いや生きつつ地をすすめるのみ。
紅葉ははかなく地上に舞い落ち、今は我故郷と、現在を比す。
風に散る紅葉はひらひらと、吾がままならぬご奉公なりけり。
昭和13年10月27日
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(父の話)
なんじゃゆうて、こうなんじゃ。(手でその角度を示す)
馬はころげて下へ落ちる。人間も落ちて死んだんもおる。
路は細ぃじゃけいのう・・・滑ったら落ちる。落ちたら死んでしまう。
よう、こわぁとこを通るねぃゆうとこじゃ。
せいじゃけい、普通なら通らん、きょうとぉて。
命が惜しいけぃとおる。独り残されたらやられてしまうけぃ。
みんなの勢いでとおる。しょうしょう馬やこが落ちても・・・人間だけでも、で、通ぉていきょうた。
その頃は身体もようよろいごきょうた。
談・2001年8月15日
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「岡山県郷土部隊史」 岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行
漢口攻略戦
その四 平靖関の攻撃
大迂回作戦の栄誉を樹立した毛利部隊は、
戦塵を洗う暇もなく、霖雨で泥まみれとなって疲れた身体を10月16日より平靖関の攻略に取りかかった。
平靖関は武勝関と共に漢口北方の護りであった。
行軍2日突然山から砲弾が飛んできた。
平靖関の鉄壁にぶつかったのだ。
二手に分かれて全面の高地に進出した。
10月22日から連日敵の逆襲を受け、集中火を浴びて生地獄と化した。
白兵死闘のルツボであった。
どの山にも敵がいた。
24日午前1時、
第一中隊は決死隊をつのり25人が岩肌を突き進んだ。
隊長がまず倒れ二人の分隊長は共に戦死し、9人が負傷したが、
ついに五九五高地を占領し、
翌25日には漢口陥落のニュースが全軍に伝わる。
苦戦の第十連隊各部隊に喚声が挙がり、兵隊の眼に涙がにじんでいる。
大別山にわけ入って死闘10日間、食糧は不足し籾から飯までにつくらねばならぬ兵站の兵の苦労も一通りでなかった。
27日夜、敵は総退却した。
11月6日馬坪を出発し7日は露営、8日徳安に入り、城内に駐留する。
11月12日各連隊より一箇中隊を抽出して漢口警備に当ることになりとなり13日孝安に宿営して16日漢口に着き特別第三区の警備につく。
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(父の話)
大別山の食糧どろぼう
食べるもんがねぃ。
それで、畑の○○を盗る。
なんじゃゆうて畑は下の方。
それをはさんで味方と敵がおる。
両方みんなが見ょおるんじゃけい。
頭を見られたら撃たれる。
溝みたいなここを、どんごろすをもってかがんで這うようにして歩く。
畑に着いたら、かがんで、頭をださんように、見えんように取る。
どんごろすが一杯になったら、くくって、縄を上から引っ張り上げる。
これでほおて(這う)道へでて、せねぇ背負うたり、引っ張ったりしながら戻ってきょうた。
見られたら、すぐ狙撃されっしまう、うっかりしょうたら撃たれて死んでしまう。
談・2001年8月15日
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【父の野戦日記】
大別山の頂上に立つ
時まさに、昭和13年10月26日。午前8時30分。
中支・大別山の頂上に立った。
6時頃より山は霧に覆われ、眼下には白雲がたつ。
同時に夜のとばりが明けんとす。
行軍と小霧が顔につく。
吾は思わず、排刀「ひさつぐ」を抜き絶叫してみたかった。
道は今だ急、ローソクをたより、下りかけて中腹の民家にたどり着く、時は12時真夜中だ。
それより夕食を炊き、食して床についたのは27日午前2時30分。
昭和13年10月27日
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武漢作戦
(Wikipedia)
新たに編成された第11軍と、北支那方面軍から転用された第2軍により進攻が開始され、
第11軍は揚子江の両岸を遡って武漢を目指し、
第2軍は徐州の北方から行動を起こして大別山系を越え武漢に迫った。
第3師団と第10師団は10月12日には信陽を陥した。
揚子江の両岸を進む第11軍の各師団は、10月17日に蔣介石は漢口から撤退、10月25日には中国軍は漢口市内から姿を消し第6師団が突入10月26日に占領した。
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