しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

三沢高校と決勝戦をした松山商業のグラウンド

2020年05月23日 | 昭和41年~50年
三沢高校と決勝戦をした松山商業のグラウンド


春と夏の甲子園では、幾多のヒーローが生まれているが
誰が一番人気者であったか?
といえば三沢高校の太田幸司投手だろう。
顔は日露混血のエキゾチックな二枚目。試合は一人で延長戦を投げ抜き、翌日も連投、そして敗者となった。
たちまち日本中の大ヒーロー。
その試合に勝ったのが松山商業。

優勝パレードがあり、松山市の上一万で見物した。
選手はユニフォーム姿で、オープンカー4~5台、連なって学校方面へ向かっていった。

松山商業は、もともと香川の高松商業と並んで、四国を代表する伝統の強豪校だった。
その年は、甲子園優勝が加わり更に話題になった。

それで、
街中にある松山商の校庭に、野球部の練習を何度か見に行った。
独立した野球部のグラウンドでなく、校舎と同じ敷地の校庭が練習場。

広いグラウンドの外野の奥(敷地のいちばん後ろ)に大きな木が並んでいて、その下にコート姿の大人が黙って練習を見ていた。
時おり、手帳を出してメモしていた。
「あれはプロ野球のスカウトだ」という話だった。
スカウトは離れた状態で4~6人いて、視線は選手だけに注がれていた。

その時代はまだ、学校内、特に校庭はどこからでも出入り自由。
選手・部員の邪魔にならないことだけが前提だった。
今思えば平和な時代だった。

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