しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

真備町「岡田更生館事件」その3・・・「逃げるな、火を消せ!」から

2021年08月06日 | 昭和21年~25年
戦争で発生した最も悲惨な犠牲者である孤児は、
国家の責任で立派に育て上げる方針であったが、戦後は一転して浮浪者、国家の厄介者となった。
犯罪者扱いで、街角から一掃され劣悪な施設へ強制収容させられた。
 
下記の本は、岡田更生館に関する記述はないが、同時代にどこの町(主に県庁都市)にも存在したことを書いてある。
 
 
 
 
「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版  2016年発行

戦災孤児たち

殉国者の遺児
厚生省は昭和20年6月28日、空襲で親を失った子どもを「殉国者の遺児」と位置づけ、
遺児は国力として立派に育てる、という国策である。
戦後は、遺児を闘士に育てあげるという目標が消え去った。
養子縁組斡旋、集団保護施設の設置を盛り込んだが、戦後の混乱期ゆえ国家財政や施設整備には限界がある。
行くあてのない戦災者・戦災孤児が駅前広場や地下道に座り込む光景が広がった
戦災孤児たちは、生き抜くために靴磨きや吸い殻あつめ(モク拾い)をした。


「狩り込み」と鉄格子

厚生省が昭和21年4月15日に定めた通達、
「浮浪者その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」は、
警察官が巡回して浮浪者を発見し、児童保護施設に収容することとした。
これは「狩り込み」と呼ばれた。
居場所を失った戦災孤児は、徘徊する犯罪者と同じ扱いになった。

狩り込み後の収容先は劣悪だった。
静岡県浜松市の施設「葵寮」では、15人ごとに鉄格子の監禁室に閉じ込め、
2ヶ月後に軟禁室に移していた。
厚生省もこれを追認したという。
昭和21年2月1日現在の孤児は12万3.511人。
そのうち戦災孤児は28.274人、引揚孤児は11.351人、一般孤児8万余。
生き残った孤児は苦難の戦後をあゆんでいく。
 
・・・・
 
「新聞と昭和」 朝日新聞  朝日新聞出版  2010年発行

「始まっている『死の行進』餓死はすでに全国の街に」

戦後間もない昭和20年11月18日の朝日新聞の見出しだ。
東京の上野駅で「処理された浮浪者の餓死体は多い時で日に6人」、
大阪市内でも「8月 60名、9月 67名 10月69名」と「増加の一途を辿っている」。
国民が飢餓状態なら、当時の新聞は朝刊だけの1枚裏表2ページだった。
 
・・・・
 
子供を粗末にする国

昭和21.6.11  天声人語  朝日新聞

マ元帥の四月占領報告の中に、少年犯罪は上昇をつづけている、とある。
東京における犯罪の五割八分が少年によるものだと指摘している。
今の日本ほど子供を粗末にする国はあるまい。
子供たちは無視され粗略にされている。
国家として子供に、とりたてていうほどの保護を与えているか。
学校では腹がへれば休めという。
それが文部省の善政とされる。
戦災孤児がいつくような保護施設もない。
子供のことなどかまっておれぬというのが、今の状態であろう。
 
・・・・

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1 コメント

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岡田更生館 (killy)
2021-08-06 20:06:14
この事件を真備町史は抹消しました。
今はウィキペディアで詳しく見ることができます。
TV[アンビリバボー」でも放映され、YouTubeで見れましたが、今はわかりません。
山陽新聞も取り上げましたが、地方紙の限界か遠慮してロクな記事にはなりませんでした。
真備町のみならず、総社、倉敷の高齢者もほとんど知りません。
犠牲者を慰労する「命尊碑」の関係者も僧籍の方以外は鬼籍に入られました。
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